根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第35回
証言者・福島良一(1)

 日本プロ野球界初のGM(ゼネラル・マネージャー)と言われる根本陸夫。だが、その職務における手法、考え方を自ら明かしたことはほとんどない。監督時代に取材を受けた記事やノンフィクション作品はある一方、西武、ダイエー(現・ソフトバンク)各球団でフロント入りし、実質GMとなったあとは滅多にマスメディアに出なかった。

 そのなかにあって、貴重な例外と言っていいだろう。1991年、雑誌『エスクァイア』(UPU)が、西武球団管理部長時代の根本にインタビューを敢行した。同誌は1933年にアメリカで創刊された男性誌で、その日本版が出たのが1987年。第1号に落合博満(元ロッテほか)のロングインタビューを掲載するなど、当初から野球もコンテンツのひとつだった。

 根本が登場したのは1991年9月号。<ベースボール進化論>なる特集が組まれ、目次にはこうある。

<阪神へ愛をこめて。「勝てるチームのつくり方教えます」──西武ライオンズ管理部長、根本陸夫インタビュー 日本で唯一のミスター・ゼネラル・マネージャーが明かす常勝の秘訣>

 ページを開くと、前書きには次のようなことが記されていた。

──メジャーリーグの球団組織で最も重要なポジションはGMといわれ、ドラフト、トレード、選手との契約など、チームの強弱に直接影響する仕事の責任者である。ひるがえって日本の球団はまず監督がオールマイティで、GMと呼ぶべき人物はいない。ただひとり、常勝西武の影の功労者である根本については「ミスター・ゼネラル・マネージャー」と呼んでいい──

 インタビュアーは、メジャーリーグ評論家の福島良一。米球界のGMを熟知した立場から、根本にどんどん質問をぶつけていく。たとえば、低迷する阪神のGMになったらどこから手をつけるか、西武におけるオーナー、GM、監督の関係はどうなっているのか──等々。強いチームをつくるためのノウハウと、根本独自の考え方を聞き出している。

 それにしても、なぜ、野球専門ではないメディアで、日本プロ野球の記者や評論家以外の人物によって、根本への取材が成立したのか。その発言内容を再現しつつ、当時の経緯と面会時の印象を福島に聞く。


広島監督時代の根本陸夫(写真左)

根本は本物のプロフェッショナル

「あの時、特集のほかの企画で、アメリカのマイナーリーグを取り上げたんです。バーミングハム・バロンズ(ホワイトソックス傘下AA)という球団の取材に、現地のアラバマ州まで行かせていただいて。そのタイミングで、編集部の方から『根本さんのインタビューもお願いします』というご依頼を受けたんですね」

 福島は1991年3月に刊行した著書『大リーグ物語』(講談社現代新書)のなかで、GMについてこう解説しており、日米の比較はわかりやすい。

<大リーグの監督には日本のプロ野球チームの監督のようにドラフト会議に出席したり、トレードで戦力を補強するための権限がない。監督はゼネラル・マネージャーが与えてくれた戦力を最大限に生かして勝つことが要求される>

 さらに、1970年代以降のメジャーリーグで結果を出した優秀なGMを列挙していくのだが、その項の最後に根本の名前が出てくる。日本のプロ野球では、根本がチーム編成と選手育成を受け持つ以外に、真のGMと言える人物がいないのは残念で寂しい限りだと感情を込めて書かれている。おそらく、エスクァイア編集部はこの一文に反応し、インタビューを依頼したのだろう。

「僕にとって、根本さんは非常に興味深い野球人でした。やはり、日本とアメリカの決定的な違いは、フロントにプロフェッショナルがいないということなんです。選手のレベルはもちろんですけども、ある意味では、それ以上にフロントの違いを感じてきたので、根本さんは本物のプロフェッショナルとして、ずっと注目しておりました」

 ただ、福島が根本に注目したそもそもの原点は、西武時代ではなかった。最初に根本を見たのは70年代初め、広島監督時代。福島は千葉在住だったため、チームが関東地区に遠征で来た試合を観戦し、指揮官としての存在感にまず興味を持った。さらには、戦力補強の面で印象に残ることがあった。

広島球団初の外国人選手獲得

 72年のシーズン途中の7月、広島は初めて外国人選手を獲得する。それまではいわゆる"純血主義"で、日系人などを除けば外国人は初。開幕から続くチームの不調を打開すべく、内野手で右打ちのソイロ・ベルサイエス、外野手で左打ちのトニー・ゴンザレスという、いずれもメジャーで実績十分のふたりを同時に獲ったのだが、とくにベルサイエスのほうが印象的だったと福島は言う。

「過去の外国人選手、助っ人とはまったく違うタイプだったんです。今でもそうですけど、外国人=ホームランバッターですよね。それがベルサイエスは60年代にツインズで主に1番・ショートで活躍していまして、決してホームランを量産するタイプではなかったんです。年間20本が最多でしたからね。

 しかも、ベルサイエスはそれでいて、65年にアメリカン・リーグのMVPに輝いたほどの力を持つ選手でしたから、僕は衝撃を受けました。そして、そういったレベルの選手が日本に来た背景には、当然、根本監督の存在があったからこそだと思うんです。最初、そこに注目したんですね」

 根本はこの年、目の不調など体調不良もあって6月15日に「休養」。その後はシーズン終了まで打撃コーチの森永勝也が代理監督を務めた。結局、同年限りで根本は退団したが、67年オフに監督就任が決まった時から戦力補強に意欲的に動いていた。球団初の外国人獲得にも関わっていたことは十分に考えられる。

 外国人といえば、元来、根本は本場アメリカの野球を重視。72年の第二次キャンプは、アリゾナ州ツーソンにあるインディアンス(現ガーディアンズ)のキャンプ地で行なった。そこではのちに広島の監督になるジョー・ルーツとの出会いもあった。根本が退団後もオーナーとつながりを持ち、ルーツとの親交も深めていたことで75年の監督就任が実現した。

 一方、72年当時の福島はまだ高校1年生だったが、翌73年夏に渡米してメジャーリーグの試合を初観戦。その魅力に取り憑かれて以来、毎年、現地での観戦を続けたなか、メジャー全球団のみならずマイナーリーグの球団も数多く訪ねた。さらにはコミッショナー事務局に訪れるなど見聞を広め、大学在学中からおもにメジャーリーグの取材、執筆、評論を行なってきた。

「そんな状況でしたから、僕自身、根本さんに興味を持ちながら、日本のプロ野球はあくまでも趣味で見ていた程度で、取材もほとんどなかったんです。それだけにあの時、お会いするチャンスをいただいて、僕は幸せを感じました」

 取材場所は西武球場(現ベルーナドーム)に隣接する球団事務所だった。写真でよく見ていた風貌ながらも、いざ面と向かってみると、根本の眼光の鋭さに気圧されそうになった。

つづく

(=敬称略)