※この記事は2013年02月15日にBLOGOSで公開されたものです

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ニコニコ生放送とBLOGOSがタッグを組んでお送りする「ニコ生×BLOGOS」。今回のテーマは「体罰・指導死・教師の鬱……どうする日本の教育現場!」。2013年1月、大阪市立桜宮高校体育科のバスケ部キャプテンが、顧問による体罰が原因で自殺したというニュースが報じられました。この事件はメディアに大きく取り上げられ、橋下大阪市長も介入。来年度の桜宮高校体育科の新入生募集を中止という事態にまで発展。しかし、教育現場で起きている問題はこれだけではありません。毎年5000人を超える教師が精神疾患で休職するという、一昔前では考えられなかったことが現実となっています。今、教育現場で一体何が起こっているのか? そして、将来のためにどうするべきなのか?ゲストに、社会学者の宮台真司さんと、ノンフィクションライターの藤井誠二さんをお迎えして、教育現場の実態を伺いました。後編はこちら

【出演】
司会:大谷広太(BLOGOS編集長)
アナウンサー:佐々野宏美
コメンテーター:須田慎一郎(ジャーナリスト)
ゲスト:宮台真司(首都大学東京教授 社会学者)/藤井誠二(ノンフィクションライター)

橋下大阪市長の対応が妥当な理由

佐々野:大阪市立桜宮高校の問題で取り上げられているのが、教育現場における体罰の必要性。体罰は愛のムチなのか?ただの暴力なのか?どう受け止めるかで問題の重要性も大きく変わってくると思います。桜宮高校のケースでは、問題の教師はスパルタ指導が有名で、バスケ部の生徒はそれを知った上で入部してくると言い、部のOBからはこの教師を「熱心な先生だ」と擁護する声があがっているとか。このような報道だけを聞くと、「体罰=暴力教師」と考えるのはあまりにも安直すぎる気もします。

須田:大前提として舞台が企業でも学校でも、こういった問題を解決する上で必要な3ステップがあると思うんです。1つ目は“何が起こったのか、実態の全貌を解明する”。2つ目は、“解明したことに関して責任の所在を明確にし、責任を負わせる”。3つ目は、“それを踏まえて再発防止策を講じる”。

今回の件では体育科の入試中止が“再発防止策”になるわけですが、ステップ1と2を飛ばして、実態解明のないまま再発防止策を行い、決着が着いたかのように見せるのは非常に違和感がありますね。

大谷:藤井さんは、今回の件、ご覧になっていていかがですか?

藤井:1995年に近畿大附属女子高校で起きた事件について僕が以前書いた『暴力の学校倒錯の街(朝日文庫)』という本があります。女子生徒が先生に殴られて、頭を打って死んでしまったという事件です。その10年前の85年には、岐阜県のある高校で、生徒が修学旅行中に禁止されていたドライヤーを使っていたために先生から殴られ、即死状態となった事件がありました。恐らく85年以前からこういう問題はあって、暴力に依存したスポーツエリート教師や生活指導の先生が学校の中で非常に力を持っていて、それが問題視されていたという構造は変わりません。なので、今回の事件が起きた時、「また起きてしまったか」という残念な気持ちが拭えませんでした。

こういう事件の取材を続けていますが、昔から全然変わっていません。子供が殴られて死ぬ、体罰による自殺、そういう犠牲者が日本の学校教育の歴史の中で積み上がってきている。そういう意味で教育委員会の隠蔽体質も同じで、「そういうことがあったから、もうやめよう」という学校の中の自浄能力には期待できないと思います。20年間、取材者として現場の様子を見てきた率直な気持ちですね。だから、橋下さんが今回行った暴力を振るう教員は追放するというのは、須田さんがおっしゃったように何が起きたのか実態解明をした上で動いたほうがよかったとは思いますし、荒療治だとは思いますが、ありなのかなと思います。

宮台:橋下さんの対応は妥当です。それは須田さんがおっしゃったように、実態が解明されていないからです。しかも、生徒や親を含めて現場の教員達を擁護する声が非常に強いから、自浄能力は全く期待できない。こういう場合は、外からの力が必要です。また事故が起こるかわからない、事故の原因が究明されていない。だから、桜宮高校の入試中止は当然というのが僕の考えです。

それと、体罰に無条件で反対なのかというと、そもそも“体罰は無条件で反対”という議論には意味がありません。というのは、僕たちは現に体罰を受けて育ってきているからです。僕の考えでは、かつては体罰が容認できるような条件があったのではないかと。しかし、その条件が満たされなくなってきて、現在の条件を前提にした場合、体罰は容認できないというロジックになる。

では、かつて体罰を容認していた条件はなんだったのかというと、一口でいえば、学校が特別な場所、聖域だった。その時代には、学校で問題があって警察を呼ぶことは、右側からも左側からも嫌われていた。ですから、体罰があった時「これは暴力事件だ!」と言うのは、後ろ指をさされてしまうような反応だった。

問題を起こした先生は追放しろ

須田:宮台さんに伺いたいんですが、今回の桜宮高校の件を含めて体罰に対して一定程度の理解を示す空気が濃厚ですが、どう思いますか?

宮台:濃密に感じますよね。こういう問題はリサーチをうまくすることができないので、本当の分布はよくわからないんですが、問題は空気感。例えば、「容認している人もいっぱいいるじゃないか」と思うような空気だと、実際に体罰をやってきた人達は「ほら、俺のやってきたことが正しい!みんなも支持してるし!」と思いがちなんですよ。

橋下市長が外から行政的に介入をするのがどうして妥当なのかというと、まさに桜宮高校のOB、親、生徒たちに、そういう空気を感じさせる人間が大勢いるからです。彼らがこれほど体罰を容認しなければ、逆に行政的な介入の必要はない。そこに1つ逆説がある。体罰が他の学校で起きてそれが事件化した時に、それを容認する空気感が学校周辺から出てくれば、行政が訴訟のような一方的なプロセスで介入するのは不可避不可欠だと容認派にもわかっていただきたい。

須田:結論から言えば、橋下さんのやったことは正しかったと?

宮台:それ以外にはないと思います。

藤井:橋下さんが今回やったことは、前代未聞です。かつてこういう形で先生を強制的に動かしたり、学校に調査を入れたことは無かった。大津市のいじめ自殺事件の場合は、越市長が第三者委員会を作りましたが、越市長は弁護士で特に子供の権利に非常に強く、とりわけそういう問題に意識の高い人。ああいう形で首長が引っ張ることをどのぐらい普遍化できるかだと思います。手法や事後対策を、他の自治体もちゃんと倣えるかどうかですよね。橋下さんほど強権を振るわなくても、せめて第三者委員会をすぐ立ち上げて対応できるかが問われてくると思います。こういった問題は絶対起きてほしくないけれど、大なり小なり今後も続くと思うんですよね。

須田:そうなると大事なのは、自治体トップの問題に対する認識や、問題が起こった際の対応の仕方ということになってきませんか?

藤井:結局は、上からやるしかないという情けない話なんですよ。本当は学校現場なり、市町村の教育委員会のレベルで解決しなくてはいけない。それができないなら、市町村のトップが予算を執行しないことを盾にして脅かしていく方法も、1つのケースとして見習ってほしいと思いますね。

宮台:実はいじめた人や体罰をしてしまった人は、社会的制裁を受けないんですよ。自浄能力の中には、その学校の自浄作用も含まれますけど、マスメディアも含めた社会的な自浄もあるわけですよね。今回の桜宮高校の件で目立つのは、「また橋下かよ!」みたいなことです。僕は橋下さんの政治手法についていい部分も悪い部分もあると思いますし、マスメディアがその一部を非常に悪いと言っているのも考え方の一部だと頷ける。しかし、その問題とこの問題は別です。そういう意味で「橋下やりすぎ!子供たちも親たちもこんなに学校を愛していて、橋下さんのやり方こそがいじめの本質、体罰の本質なんだ」と、クソみたいなデタラメをいう奴がでてくるようなマスメディアは呆れた状態です。

誠二さんも僕も色んなリサーチの現場で見ていますが、そういう方の多くは現場を知らず、自分と意見を同じくする“同じ穴のムジナ”みたいな連中とだけしゃべっている。あるフィクションのパイの中にいます。「子供たちは、親たちが抱いている思いを無視して……」なんて言いますが「何いってんの?」と。この流れの中で何が起こってきたのか、よく目を見開いてみろよということです。

藤井:先ほどの須田さんの話の続きで、「体罰」が起こるとちゃんと把握して、学校長が事故報告書として教育委員会に上げ、最終的に文部科学省にあげます。毎年1回、処分された教師がズラっと載る教育委員会原本があるんですが、実はあれ全部実名じゃないんです。学校名も実名じゃない。どこで誰がなにをしたのかさっぱり分からない上に、事故報告書もちゃんと書かない。だから、処分された教師の数は毎年300~400ぐらいで、メディアが「今年も横ばいだな」と報道する程度。例えば、ひどい体罰事件を起こした先生がいても、その先生がどこに異動して、その後どうなったのか追跡調査もないし、事後的な追いかけも全くない。そういう文部科学省の体質からしても、先生たちに対して“甘い”と昔から指摘され続けてきています。だけど、神奈川県は、まあこれは完全な犯罪ですけど、子供へのわいせつ事件を起こしたといった場合、即刻懲戒免職をすると自治体の条例で決めています。

1つ1つの事例に対して調査をしないといけないけれど、それが常習化している先生、例えば今回の桜宮高校の先生も過去に起こした問題が出てきていますが、そういう先生に対してはもう一度チャンスを与えるよりも、違う現場に変わっていただくほうがいい。言い方は悪いですが“追放”ですね。こういったことを文部科学省含めてきちっとやらないと、なかなか改革にはつながらないと思います。

大谷:今回の件に限って言えば、現場の先生あるいは校長や教育委員会など、学校のシステムの中で調整するよりも、強制的に排除したほうが解決しやすいということですよね。

藤井:本当なら教育委員会は独立性が高く、学校で起きた問題を校長から事後報告書として受け取り、それを対処して人事権や任命権を行使しなくちゃいけない。しかし、そういう対応をしてこなかった。そもそも、裁定機関としての能力も機能もないわけです。例えば、被害者や生徒から話を聞く部署が無い。

それから学校は基本的に「ごめんなさい」で済むことは、みんな一生懸命がんばるんですよ。つまり、子供と子供がケンカして「◯◯ちゃんが◯◯ちゃんをケガさせた」とか。学校は、個人や生徒や親のプライバシーを共有しあって成立している空間なので、それをみんな出し合って「ここはこういう事情だからごめんなさい」という話なら一生懸命がんばるわけです。それが、今回の桜宮高校みたいに子供の命が失われたり、マスコミで大きな騒ぎになってしまうと、学校や教育委員会もお手上げになる。自分たちの責任問題として跳ね返ってくるから、誰もそういう裁定ができないし、そもそもそういうところじゃないから、誰も公平なジャッジができなくなってしまうんですね。橋下さんのように、強権を振りかざして行うというのも1つの方法だったと思います。

教師の暴力であれ、生徒の暴力であれ、すぐに警察を入れるべきだ

大谷:コメントに「金八先生は昔、体罰を……」と出ていますが、ああいう学園ドラマは、生徒、親、地域の前提の食い違いを先生がチューニングして、最後はうまいこと着地させるみたいなパターンが多いですよね。

藤井:今回の件に対して武田鉄矢さんから「信頼関係が無ければ暴力だけど、信頼関係があれば、体罰は喜びに変わる」というコメントがありました。僕は何が喜びなんだと思うけど、彼は昔から同じようなことを言っていて、そういう前提を金八先生の中でも体現していた。しかし、それはもうただの幻想で、多くの人がすがっている面があると思います。

須田:法の前の平等ということを考えると、大原則として、一般社会も学校現場も違う法律が無ければ法体系で対応するのはおかしいわけです。つまり、一般社会なら傷害事件になることが、学校の中で起きたら容認される。これはどう考えてもおかしいのに、ある程度の時代までは成り立っていた。これが先ほど宮台さんが言われたように「共通前提に立っている」ということならば、認められただろうと。ただそれが崩れてきた時には、通常の刑法や普通の法律が、学校の教育現場に導入されるべきだと思いますね。

藤井:80年代の前半から言い続けていますが、学校現場はイリーガルなんですね。普通、街中で人を殴ったら捕まるのに、学校の中で子供を殴っても捕まらない。平たく全部が全部同じだとは思いませんが、これをリーガルにしていこうと。先生が生徒を殴ったら、ちゃんと法律で刑事事件としてみましょうと。例えば、学校で暴力事件が起きたら、警察に通報して来てもらってもいいと僕はずっと言い続けてきました。しかし、それに一番反対してきたのは今の学校です。そういう問題は先生が対応して、先生が解決をするんだと。つまり先生が、警察官も裁判官も検事の役もすると。全部採点して、処分まで決めるということを繰り返してきたから、隠蔽が生まれたのだと思います。基本的に学校と教育委員会の縦の関係の中だけで、問題を処理してきたわけですね。

宮台:僕も誠二さんと同じ意見です。誠ニさんとの共著の中でも、「教師の暴力であれ、生徒の暴力であれ、すぐに警察を入れるべきだ」と主張してきました。その最大の理由は事実隠蔽の問題もそうですが、警察が入らないと調べないわけです。そうなると結局何が起こったのか、利害関係者が集まっている中で分かりようがないんですね。あともう1つ。武田鉄矢さんが「信頼関係があれば体罰も喜びに変わる」と話していたそうですが、この言い方はまるで信頼関係が個人的なものであるかのように錯覚させるという点で非常にマズイですね。信頼関係を個人的に作ることはほぼできなくなってきていると、腹をくくっていただきたい。

ニュータウンの取材を続けていくと分かります。例えば、神戸の北砂ニュータウンは親の学歴が非常に高くて、多くの場合、教員の学歴よりも上なんです。ニュータウンには自然と新住民が多く住んでいますが、昔は、地域社会で一番学歴が高いのは先生でした。当然、それが妥当かどうかは別にして、リスペクトされていたわけです。しかし、今は親が学歴をネタにして、食卓や井戸端でしゃべったりしています。そんな会話を子供たちが聞くと、「な~んだ!自分の親たちよりもバカが教員をやっているのか!」という思いを抱きやすくなるんですね。そういう条件があるだけで、教育に叩かれる意味がものすごく変わっちゃうでしょ?

信頼関係が“ある・ない”は、個人的に教員が有能かどうかの問題じゃないと考えてほしいですね。そうすることで、社会的な関係が変わってくる。学校も市民化しなければいけないし、学校の教員が負う様々な責務を、ビジネスライクに変えなければダメ。予備校や塾のようでいいんです。そうなれば、むしろ期待の水準が理不尽じゃなくなるので、ビジネスライクな環境を超えて関わってくる先生がありがたくなる。そうじゃなくて、かつてのノスタルジーを理不尽に踏襲し、「教員はビジネスじゃない!」みたいな関係の中で学校を成立させて色んなものを隠蔽し、ちょっと問題があると教員にクレームをつける……。これじゃあ、教員も子供ももちません。だから、こういう構造をよく理解した上で、昔の楽天的な条件をそのまま持ち込んで、物事を評価してほしくないですね。

昔のような理屈で体罰を擁護することはできない

宮台:現場の教員と子供たちの関係については、愛のムチかどうかは教員がそう思うかではなく、暴力を受けた側、またはそれを見ている側、つまり生徒たちによって決まります。僕の小さな頃で愛のムチ論が通用していた時代には、教員が暴力を振るったら、「そこで暴力を振るうのは当たり前」「その生徒が体罰を受けるのは当たり前」という共通前提がありましたが、今はない。それには色んな理由があるけれど、1つは学校が昔、地域の中に包摂されていて、地域社会がきちんとしていることと、学校の擬態性が結びついていたのではないかと。今は地域共同体も空洞化していて、色んな人がいるけどお互いに知り合いではない。しかも、地域のトラブルが起こり、格差や新住民と旧住民の対立も存在している。“我々”という意識を磨けないような地域社会の中に学校があり、教員の体罰の受け止められ方が変わってしまうわけです。昔なら「どんな教員も、そこで同じように振る舞う」だったのが、今は体罰をすると「なんでこの教員だけが、この学校だけが、そういうことをするんだ!」と。共通前提が無いが故に、理不尽さを感じる人間が増えている。

藤井:近畿大附属女子高校で起きた先生が子供を殴り殺した事件では、卒業生が「殴られた子は覚せい剤をやっていたから、少し押しただけでもすぐ死んでしまうんだ……」みたいな噂を流して、署名運動を行なった。それであっという間に、その学校のある市の人口より多い7万人の署名が集まりました。共同体の中で、その先生を守ろうという意識が働いたんですよ。つまり、その共同体の中では学校が中心にあって、みんな何らかの形で世話になっていると。卒業生なんかは特に。だから、その学校が批判されることは、自分たちも批判されているような気持ちになったんでしょう。それで、自分の思い出や記憶を守りたいという気持ちがどっかに働き、事実が明らかになる前に「その先生は悪くない!たまたまその生徒が不良で、どうしようもない子だったから、やむを得なく手をあげたんだ」みたいな噂を広めて、署名運動をした。

今回の桜宮高校の件でも、事件が起きたあとの緊急保護者会で被害者の親御さんが「事実究明してほしい」と言っているのに、違う生徒のお父さんが「そんなことは気にせず、ドンドン厳しくやってくれ」と言ったら、ワっと拍手が起こった。ああいうのは、僕はすごく気持ち悪いです。この構造は当時から全然変わっていなくて、この状態は“共依存”だと思っています。そういう親がいて、そういう先生を支えている。そういう先生は部活動に熱心に取り組んでいて、進路指導を厳しくやってくれて、横着な子供をいい道に引っ張ってくれると、親に感謝されて人気のある場合が多い。そういう点が“体罰は良し”とする空気を作るわけですね。こういったことがある以上、断ち切るのは本当に難しいと思います。体罰をする先生だけが単体で存在しているわけじゃなくて、保護者達との構造をみないと。

宮台:全くその通りです。世代層がすごく大事で、今の高校生の親は僕らと同じ50代が多い。僕らの世代は体罰が当たり前だったし、“しごき”という言葉も悪い意味を持っていなかった。そういう親たちが桜宮高校の親たちのような反応をするのは、全く不思議でもなんでもない。教育ノスタルジーと全く同じで、90年代半ばぐらいからサブカルチャーでも何かと学校が舞台になるようになりました。特に年長世代も含めて、かつて、みんな同じだったと思えるような場面や、学校に対する実存的なこだわりが非常に強いので、そういう反応になるのだと思います。でも、子供たちは親の世代とは違って、親がかつて持っていたような共通の前提は存在しないので「親がそう思っているからそれでいい」という話には、絶対にならない。

もう1つ重要なのは、教員が前と違って、教室的、部活的、子供的な共通前提の中にいないので孤立しています。従って、空回りをしやすい。子供たちと同じように、教員も何かに埋め込まれているのであれば、その埋め込まれているメカニズムの中で何らかの制御が働いたりすることがありうる。でも、空回りが存在すると、フィードバックがうまくかからず、止まらない。そういう意味で、親とは違った学校環境が存在していて、残念ながら昔のような理屈で擁護することが今はできないと腹をくくっていただく必要があると思います。

須田:藤井さんの話を伺っていると地域が異常な状況ということが伝わってくるけれど、逆の見方をすると、宮台さんが話していた、親、あるいはOBたちの共通前提というものに、地域が立っていると言えるのではないですか?

宮台:さきほど、旧住民と新住民が分裂していく話をしましたが、例えば、学校の歴史を振り返ると、70年代後半から「家庭内暴力」が噴出し、それが沈静化したと思ったら80年代前半は「校内暴力」が登場し、世間で騒がれて文部省の指導が入ったところもありました。80年代後半からは「いじめ」の時代に突入です。それぞれの時代に象徴的な事件がいくつもありますが、70年代末あたりから、地域社会のかつてとは違うような方向での共同化がかなり進んできています。

コンビニエンスストアを例にすると、82年頃からコンビニが急増。その結果ワンルームマンションの建設ラッシュ、子供たちがコンビニ弁当で夕食を済ます“個食化”が増加し、家族でご飯を食べることがなくなっていくという流れがあった。80年代半ばから生活環境が急変して、夜中に1人で出歩いても後ろ指をさされないような状況になった。しかし、この生活環境の急変は、年長世代には見えない。だから、何も変わってないと思いがちなんです。

藤井:暴力で何らかの指導をされたり、強い言葉で叱責されたり、精神的にひどく傷つくことを言われてそのあと亡くなるという事件は、ここ20年間で増えています。多くの方の意識の根底にあるものだと思いますけど、「体罰をしても、子供が自殺をするわけない」という共通前提みたいなものが、今の教育にはない。僕が取材したケースでも、「小・中学生が先生に叩かれて、その足で飛び降りる」あるいは、「その2日後に遺書を書いて亡くなる」ということが結構ある。もちろん、それだけが理由だとは思いませんが、大きな引き金になっている可能性は高く、裁判でもその因果関係が認められるケースが結構あります。先生は、自分が暴力を受けてきたように子供にやっていいというところがあるんです。しかし、それが想像もつかないような心の傷になって死を招いたり、トラウマになったりする。そういう意識の乖離みたいなものが生まれていると思います。

“指導死”は法的責任を問われるのか?

須田:藤井さん、桜宮高校の件では、自殺されたお子さんの親御さんが刑事告発に踏み切りましたよね。“指導死”のケースでは、そういった民事・刑事について法律的責任を問われることが多いんですか?共通前提のある閉鎖された空間の中で済んでいた話がいきなり法律での対応になると、二重規範で許されない状況になりませんか?

藤井:今の話に通じますが、あとで民事裁判になったり、刑事告発されて刑事裁判になる場合もある。ただ、これがなかなか大きな刑事事件にならず、民事の方が長く続いたりります。学校を監督責任の不履行で訴えるとか、学校の対応が不誠実だったから損害賠償を請求するとか、それから事故報告書を開示させるための情報開示の請求裁判なんてものもあります。

色んなことで事実関係を知るしかないわけですけど、そうなってくると、学校の先生や教育委員会は自分たちが負けるかもしれないから、最初から体罰やいじめがあったことを認めたくないんです。最初から認めると、後々の民事裁判で横柄な要求をされてしまう。だって、被害者側は「最初から認めているじゃないか!」ということになる。「ごめんなさい」で済むことは言えるけれど、裁判になりそうなことで急に口をつぐむのは、そういう背景があります。しかし、今回橋下さんは事実関係がよくわからない段階から「責任がある」と言って、処断しました。後々これがどういう風に影響してくるのかと考えてしまいます。

裁判の話は、僕の感覚では全体の1割ぐらいの方が民事裁判に持ち込まれ、真相究明をしています。それは、命をお金に換算することしか、事実を究明する方法がないからです。しかし、それでも因果関係が100%認められるのは、なかなか難しい。桜宮高校の件も週刊文春が全然違う視点の記事を出しましたが、例えば、今後もし民事裁判になったら、大阪市側が体罰はあったけれど、自殺との因果関係は認められないという主張をしてくるかもしれない。ここは、これから遺族側が二重三重に苦労をされるところです。それぐらい因果関係の立証性というのは難しい。

宮台:子供たちの置かれている状況は以前とは違います。例えば個人の問題で言うと、なにか引き金があったら自傷や自殺に踏み込みかねないような状況に置かれている子供が、かつてよりも増えているかもしれない。そういう時に体罰が行われれば、引き金になって死んでしまうことがある。

完全に火薬が入っているから、引き金を引くと玉が出る。一般には、「火薬が充填されたのはなぜか?」「きっかけがあったら、死んじゃうような状態に追い込まれたのはなんであるのか」に注目するのが正当ですね。しかし、以前とは違ったことが起こってしまうかもしれない状況にあるのに、引き金になり得るような要因をたくさん残しておくのは良くないでしょ?だから、因果性の問題は別として、体罰はよくないわけですよ。以前は、容認できるような条件があったかもしれないけど、今はそういう条件が無いというのは、そういうことでもありますね。

公立でも私立でもほぼ関係ない

大谷:神奈川県の男性から質問が届いています。「私立でこの事件が起きたら、学校が潰れるという意見を聞きますが、本当ですか?」

宮台:あまりそういうことは関係ないと思います。どういう船か分かっていながらあえて乗っているんだから、あとでツベコベいうのはどうなのかなと。今は学校がどういう環境なのか、完全情報化するなんてありえない。少なくとも、みんながそう思っているという状態もありえません。私立学校出身者だからよくわかるのですが、例えば、さっき言った世界観でいえば、昔はこの私立学校は“こういう学校”だったのかもしれない。それは正しいかもしれないし、みんなそう思っているだけの可能性もある。でも、今この学校がどういう学校なのかについて定かなことを、みんなが納得できるように言える人ってほとんどいませんよ。

確実に言えるのは、以前とはどうも違ってきてしまっているということ。それが多くの場合「あの学校、昔はよかったのになあ」という話になっています。そういう人間達が、むしろ私立の場合にノスタルジーゆえに体罰を擁護したりする可能性があり、外から権力が入らない限り温存されている可能性さえある。

藤井:私が書いた『暴力の学校倒錯の街(朝日文庫)』の舞台になった学校は私立ですが、この学校は事件後に名前を変えて普通に存続しています。そして、名前を変えた直後に亡くなってはいないけれど傷害事件になった、体罰事件を起こしているんですね。だけど、生徒の募集は相変わらず続けているし、募集をかけたら子供たちはちゃんと来る。学校にはそれほど大きなダメージにならないような気がします。「問題のある学校だから、子供を入れるのはやめよう」という親より、「子供には厳しいほうがいい!」と思考停止している親のほうが、層として圧倒的に多いと思うんですね。それは、公立でも私立でもほぼ関係ないような気がします。後編はこちら

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