「鎌倉殿の13人」いよいよ源義経の最期まで突っ走るか?第20回放送「帰ってきた義経」予習

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大天狗・後白河法皇(演:西田敏行)と死神・源行家(演:杉本哲太)に魅入られたせいで、平家討伐から1年も経たない内に謀叛人へ転落してしまった源義経(演:菅田将暉)。

傷心の義経は逃避行の末、古巣の奥州・平泉へ帰還。そこでは父とも慕った藤原秀衡(演:田中泯)が温かく出迎え、平家討伐の大活躍をねぎらってくれたのでした。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」5月22日放送の第20回「帰ってきた義経」。これまでのペースを鑑みると、恐らくは義経の最期まで突っ走るものと思われます。

義経と弁慶主従。重宜筆

そこで今回は『吾妻鏡』より、秀衡の死とその遺言を受けた息子たちの態度、そして義経の最期を紹介。多くのロスを生み出すであろう第20回、その予習にどうぞ。

傷心の九郎を、温かく迎えた秀衡

文治三年二月小十日壬午。前伊豫守義顯日來隱住所々。度々遁追捕使之害訖。遂經伊勢美濃等國。赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道權勢也。相具妻室男女。皆假姿於山臥并兒童等云々。

※『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日条

一年以上にわたる逃避行の末、義経たちは奥州平泉までたどり着きました。追捕の手が厳重であったため真っすぐ迎えず、紆余曲折を余儀なくされたのでしょう。

この時点で連れていたのは正室の里(演:三浦透子。郷御前)と子供2名(2歳の娘と1歳の息子)のみ、それぞれ山伏の姿に身をやつしていたとか。

乳飲み子を抱えての逃避行(イメージ)

幼子と乳飲み子を抱えての逃避行は、さぞ大変であったろうと思います。

ところで武蔵坊弁慶(演:佳久創)たちはどこかへ逃げてしまったのか、あるいは別ルートで合流したのかも知れません。

単に『吾妻鏡』で言及されていないだけで、実はみんなで奥州入り出来ているといいのですが。

「おぉ九郎、よう戻って来た。我が許におればもう大丈夫。さぁさぁ、平家討伐の土産話でも聞かせておくれ……」

大河ドラマの予告編でもあったように、秀衡に温かく迎えられ、これまでの努力が報われた義経の感涙は察するに余りあります。

その後、秀衡は奥州の覇者として頼朝と渡り合いますが、彼とて人の子。やがて寿命を迎えてしまうのでした。

義経を守るべきか…分裂する六兄弟

(前略)今日。秀衡入道於陸奥國平泉舘卒去。日來重病依少恃。其時以前。伊豫守義顯爲大將軍可令國務之由。令遺言男泰衡以下云々。
(以下、秀衡の略歴)

※『吾妻鏡』文治3年(1187年)10月29日条

「息子たちよ。心して聞け……我が亡き後は、九郎を大将軍に立て、そなたら兄弟が心ひとつにお支えするのじゃ。それ以外に、平泉を守る手立てはない」

「「「父上!」」」

奥州の巨頭・藤原秀衡(毛越寺蔵)

文治3年(1187年)10月29日に秀衡が没すると、奥州藤原氏の家督は次男の藤原泰衡(演:山本浩司)が継承します。

この時、秀衡には6人の息子がいました。

長男・藤原国衡(くにひら。演:平山祐介)
次男・藤原泰衡(やすひら。演:山本浩司)
三男・藤原忠衡(ただひら)
四男・藤原高衡(たかひら)
五男・藤原通衡(みちひら)
六男・藤原頼衡(よりひら。演:川並淳一)

『吾妻鏡』や『愚管抄』など同時代史料に登場するのは四男の高衡までで、通衡と頼衡の名前は『尊卑文脈』などに限られ、実在性を疑問視する説も。

「さて、これからどうするか……」

家督を継いだ泰衡ですが、彼は義経を擁立しても奥州を支えきれないと早々に見切りをつけ、義経を討って頼朝と和解する方針を示しました。

「父上のご遺言に叛き、奥州の誇りを棄てられるおつもりか!」

泰衡に反対したのは忠衡・通衡・頼衡の3名。国衡と高衡は泰衡寄りであったと見られます。

「黙れ!誇りだけで奥州が守れるものか。そもそも誇りと申すなら、よそ者である九郎殿を担ぐのは筋違いであろうが!」

兄弟が分裂・対立する中、文治5年(1189年)2月15日に六男の頼衡が泰衡によって討たれました。

「我が意に逆らう者は、この通りじゃ!」

その3か月後となる閏4月30日、泰衡は数百騎の軍勢を率いて義経の元へ向かいます。

義経の最期と弟たちの謀叛

文治五年閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。
(以下、義経の略歴)

※『吾妻鏡』文治5年(1189年)閏4月30日条

「かかれっ!」

泰衡は、藤原民部少輔基成(ふじわらの みんぶしょうゆうもとなり)の館に滞在していた義経を襲撃。

かねて朝廷から義経追討を命じられており、あわせて頼朝からの圧力に耐えきれなくなったのでしょう。

義経らの最期(イメージ)

義経たちは家人らと共に奮戦するも衆寡敵せず、持仏堂へ入って妻と娘を殺し、自刃して果てたのでした。

「「何と言う愚かなことを!」」

秀衡の遺言に叛いた泰衡に憤る忠衡と通衡は謀叛の兵を起こしますが、義経の共犯者として6月26日に討たれてしまいます。

文治五年六月大廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡〔年廿三〕是同意与州之間。依有宣下旨也云々。

※『吾妻鏡』文治5年(1189年)6月26日条

「朝廷の御意に従って九郎御曹司を討ち、謀叛を共謀していた弟たちも討ち果たした。これで、鎌倉殿とも和解できよう……」

残された泰衡と国衡、そして高衡の読みが甘かったことは広く知られる通り。内乱によって大きく勢力を削いでしまった奥州藤原氏は、間もなく滅ぼされてしまうのでした。

終わりに

稀代の天才軍略家として活躍しながら、権謀術数に翻弄されてしまった義経。

義経逃避行のハイライト「勧進帳」は多分割愛。歌川国周筆

第20回放送のサブタイトル「帰ってきた義経」とは、奥州平泉に帰ってきたという秀衡目線なのか、それとも首級となって鎌倉に帰ってきたという頼朝目線なのでしょうか。

果たして義経はどのような最期を遂げるのか、弁慶の立ち往生や家人たちの奮闘にも注目したいところ。

そして、最も可愛がっていた義経の死を、源頼朝(演:大泉洋)がどう受け止めるのか。次回も見逃せませんね!

※参考文献:

高橋崇『奥州藤原氏 平泉の栄華百年』中公新書、2002年1月高橋富雄『奥州藤原氏四代』吉川弘文館、1987年9月『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月『NHK2022年大河ドラマ 鎌倉殿の13人 完全読本』産経新聞出版、2022年1月