1990年10月、記者会見に臨む伊藤萬の伊藤寿永光常務(右)と河村良彦社長(左)(編集部撮影)

あの夏も暑かった。

温暖化がここまで人の口にのぼっていなかった1991年7月23日、大阪は気温36度の猛暑を記録した。

その日、中堅商社イトマンの河村良彦元社長と伊藤寿永光元常務、不動産管理会社の許永中代表らが大阪地検特捜部に商法(特別背任)違反などの容疑で一斉に逮捕された。日本中が沸き立ったバブル経済にとどめを刺す一矢となった。

30年前の出来事を思い出したのは、事件についてあるメディアから問い合わせがあったからだ。

イトマン事件とは何だったのか

私は当時、朝日新聞大阪本社社会部の取材班キャップとして、捜査開始前から主役の逮捕、初公判までを見届け、『イトマン事件の深層』にまとめた。主要な登場人物のほとんどに直接取材するとともに捜査当局の動きを追った記録だ。

近年、許氏をはじめ事件にかかわった何人かが手記を出版している。当事者としての弁明や見解が記され、当時は知りえなかった事実も含まれており、それぞれ興味深い。

だが、ここでは進展する事態を間近で見続けた記者として「戦後最大の経済事件」を振り返ってみたい。河村氏が転落した年齢に自分も達したという個人的な感慨もあってのことだ。

イトマン事件とは、バブル経済期最終盤の1年足らずの間に住友銀行(現・三井住友銀行)系の商社・伊藤萬(その後イトマンに社名変更)から数千億円が引き出され、株、土地、絵画、ゴルフ会員権などを通じて広域暴力団山口組ともつながる闇の世界に流失、大阪地検特捜部などが主要人物らを逮捕、起訴、有罪に持ち込んだ事案だ。事件により、日本を代表する企業の経営者多数が辞任に追い込まれ、イトマンや大阪府民信用組合をはじめ多くの組織が消滅した。

大阪地検は初公判の冒頭陳述で「戦後最大の経済事件」と位置付けた。動いた金額の大きさ、登場人物や手口の多彩さに加え、絶頂期の日本経済を代表する金融資本の本丸にアングラ勢力があと一歩まで迫った異様さを評したとみられる。

しかし捜査が事件の全貌を明らかにしたわけではない。多くの未解明な点が残っている。中でも最大の謎は、河村氏の「犯行動機」であろう。

さまざまな人脈や企業が重層的に絡み、魑魅魍魎が跋扈する複雑怪奇な事件だが、イトマン事件を煎じ詰めれば、河村氏の乱脈経営の物語ということになる。社長のいすにしがみつくためになりふり構わず立ち回った結果、罪に問われたわけだが、それだけでは説明がつかない疑問が残る。

エリートを押しのけ、メガバンク常務へ

河村氏は公判を通じて「経営判断を誤っただけ。会社に損害を与える意思はなかった」と主張したが、最高裁第三小法廷は「取引の動機は会社の利益よりも自己の利益だった」として、同社に損害を与える認識があったと判断した。

戦前の高等商業学校卒の河村氏は血のにじむ努力で、並みいる有名大卒のエリートを押しのけてメガガバンクの常務にまで上り詰めた。住友銀行の「天皇」と呼ばれた磯田一郎氏の指示で経営不振のイトマンに転出し、一度は再建を果たした。

バブル期に入り、居酒屋チェーンとの紛争や石油転売事業で抱えた巨額の負債などで会社は再び危機に陥った。すると、意見を言う役員や社員を社外に出し、メディアなど外部の批判は金で解決しようとした。伊藤氏らから10億円の現金を受け取り、愛人経営の料亭に社費で入り浸るなど経営者倫理にもとる行為に手を染めた。

こうした公私混同が社長交代によって発覚することを恐れ、オーナー経営者を目指し、借金をして大量の自社株を取得した。会社の資金を使った商法違反の自社株買いも行った。常務にとりたてた伊藤氏の事業に巨額の資金を貸し付け、一部を企画料などの名目でキックバックさせたのは事実上の粉飾決算といえた。

ではなぜ許認可も下りていないゴルフ場に100億円単位で資金を出し、買い手のあてもなく700億円近い絵画を買ったのか。

イトマンは、粉飾しても経常利益が100億円程度に過ぎない会社だ。バブル崩壊がなくてもいずれ行き詰まることはプロの経営者でなくても容易に想像がつく。経営破綻すれば、買い占めた自社株も紙くずになる。「会社に損害を与える意思はなかった」という弁明は否定されて当然だが、一方で「自己利益」になろうはずもない。にもかかわらず泥沼に突っ込んでいった理由が不明なのだ。この最大の謎に対して、検察の立証と裁判所の認定には隔靴搔痒の観が否めない。

伊藤、許両氏がイトマンに接近した意図ははっきりしていた。

許氏らは1980年代前半から関西の経済事犯でたびたび暗躍がささやかれながら摘発を免れてきた。日本レースを乗っ取って手形を乱発したり、近畿放送(KBS)の社屋や放送機材を担保に借金を重ねたりする自転車操業を繰り返していた。

倒産寸前だった上場企業・雅叙園観光の再建に失敗し、多額の借金を抱えていた。貸し手は暴力団関係筋が多かった。そんな折に2人の前に現れた河村氏は「ネギをしょったカモ」であり、イトマンは打ち出の小槌であった。

住友銀行の捜査はほとんど手つかずに

大阪地検の捜査は、それまで手つかずだったアングラ勢力の暗躍を許す関西の土壌に切り込んだ。伊藤氏、許氏と暴力団のつながりを指摘し、彼らがのし上がっていく過程でいかに暴力団の力を利用し、借りを返してきたかを冒頭陳述で詳述した。

イトマンの役員室に山口組組員が出入りしていた様子などを挙げて密接なつながりを暴いた。イトマンから流れた資金の相当部分が、株の買い取りや絵画取引、霊園開発名目の融資などで組周辺や右翼団体に流れたことも立証した。そうした点で捜査は画期的だった。

ところが検察は、アングラ勢力に対するもう一方の当事者である住友銀行にはほとんど手をつけなかった。河村氏の動機が不明である理由の1つはそこにある。

メインバンクの住友銀行は、伊藤氏が入社する前からイトマンの変調と河村氏の暴走には当然気づいていた。それでも、同行が首都圏で地歩を固めた平和相互銀行の吸収合併で、磯田氏の意を受けて大きな役割を果たした河村氏に強く意見をすることができなかった。

一方の河村氏も磯田氏のマンション購入の手続きから賃借人のあっせんまでを引き受け、磯田氏の娘婿の会社を物心両面でバックアップした。そもそも事件となった絵画取引の発端は、磯田氏の娘が河村氏に持ち掛けたことである。

河村氏が、山口組との強いつながりが指摘されていた伊藤氏をイトマンに入社させたことで住友銀行もさすがにあわてた。銀行内部で河村氏の去就をめぐり、激しい人事抗争が始まる。河村氏の退任を求める声が銀行内で強まる中、河村氏は伊藤、許両氏が差し出す毒を皿まで食って破滅への道をひた走った。

検察は、河村氏の動機を解明し、事件の全体像を示すために当時の銀行内部の状況を検証する必要があったはずだが、最も重要な証人であり当事者である磯田氏や磯田氏の長女夫妻について、証人申請はおろか調書の証拠申請すらしなかった。

銀行の経営陣のなかで唯一申請した巽外夫頭取(当時)の調書を弁護側が不同意としたのに対し、証人申請もしなかった。意図的に避けたことは明らかだ。

捜査は、広島高検検事長を務めた住友銀行の顧問弁護士(故人)と同行融資3部が描いたシナリオに沿って進められた。銀行をできるだけ傷つけずに、暴力団につらなるアングラ勢力だけを摘出する。関西の検察幹部らは住友銀行の経営陣と定期的な会合を持つなど以前から親密な関係にあった。資本主義の総本山を守り、アウトローを排除する。所詮、検察は体制の安定装置にすぎない。国家権力の都合に合わせて捜査したということだろう。

一銀行員が自行会長の辞任工作

住友銀行でイトマン対策の中心を担った國重惇史氏が2016年、『住友銀行秘史』を出版した。そのなかで國重氏は、イトマンの経営に関する内部告発文書を書き、「伊藤萬従業員一同」と偽って大蔵省銀行局長やイトマンの主要取引先、マスコミなどに繰り返し送りつけ、大蔵省や日銀、新聞を動かしたことを告白している。

驚くべきは、自行の役員全員、そして磯田氏にも告発文書を送り付けていることだ。河村氏らの乱脈を告発するだけではなく、伊藤氏に籠絡された磯田氏を辞任に追い込む工作を一行員が主体的に行っていたのだ。

私は1991年春以降、國重氏とたびたび情報交換をした。最初は銀行関係者を通じて國重氏が面談を申し入れてきた。ある時点から私は、告発文書の作者が國重氏ではないかと推測するようになった。一連の文書を書ける人間をほかに思いつかなかったからだ。「あなたが書いたのでは」と直接ただしたが、そのときは否定していた。

國重氏と相談しながら文書の投函にかかわり続けた元日本経済新聞記者の大塚将司氏も2020年12月に『回想 イトマン事件』を出した。國重氏が文書を送り、その反応を見るため大塚氏が磯田氏宅などを夜回りする。まさに二人三脚、マッチポンプでコトを進めてゆく様子は両書に生々しく描かれている。銀行員、新聞記者とは思えぬ所業である。

國重氏が複数の他社の記者とも付き合っていたことは当時からわかっていたが、大塚氏とここまで一体化していたことは両書を読むまで知らなかった。

両書に加え、國重氏を取材した『堕ちたバンカー』(児玉博著)は、司法が手をつけなかった銀行内部の暗闘や大蔵省の対応、マスコミの関わりなどを明らかにした点で意義がある。銀行内部の様子が相当程度明らかになり、欠けたピースが一部埋まったからだ。

『住友銀行秘史』には、読売新聞の記者が許氏にインタビューした際の録音テープを住友銀行に渡していたとのくだりが出てくる。同じ事件を他社の記者がどのように取材していたかを知る機会は少ないので大変興味深く読んだが、大塚氏の行動ともども、取材とは何か、記者はどこまで対象にコミットすべきか、改めて考えさせられもした。

退任を拒否し、イトマン処理の前面に

この30年の間に多くの関係者が鬼籍に入った。住友銀行関係だけでも河村氏をはじめ、「天皇」の磯田氏、「ラストバンカー」と呼ばれた西川善文元頭取(当時常務)、「磯田氏の番頭」であった西貞三郎元副頭取。そして2021年1月には巽氏が亡くなった。

巽氏は磯田氏に取り立てられて頭取になった。イエスマンともみられていたが、1990年5月、磯田氏から迫られた退任を拒否してイトマン処理の前面に立った。ある住友銀行幹部は「あのとき、巽氏が腹をくくらなかったら銀行は山口組に乗っ取られていた」と話していたのを思い出す。

巽氏は取材した関係者のなかでも印象に残る1人だった。多くの経済人は社会部記者というだけで取材に応じないが、巽氏とは事件の最中だけでなく、一段落したあとも幾度か長く話をする機会に恵まれた。特攻隊の生き残りで、恬淡とした味わいのある人だった。

住友銀行は結局、イトマンへの直接の貸し出しだけではなく他社分も含め数千億円の不良債権を丸抱えする形で「戦後処理」をした。信用秩序の維持を名目にしていたが、実際には司法の裁きを受けない見返りに、磯田氏らトップの公私混同や行内の派閥争いによるトラブルを預金者の金で補填し、決着をつけたということだ。

私が事件に関わったのは磯田氏が辞意を表明した翌日の1990年10月8日、大阪のイトマン本社であった記者会見に出席して以降だ。つまり日経の大塚氏が國重氏とタッグを組んで特ダネを書き、取材から手を引いた後のことだ。捜査は始まっていなかったが、イトマンはすでに回復不能の死に体だったことが後にわかる。

私は社会部内の配置換えとなった初日、遊軍席に座ったときに記者会見があることを知った。

遊軍とは、決まった持ち場がなく世の中の出来事に合わせて動く役割だが、上司からその日の社会面のまとめなどを命じられる前に、外に出る口実として同僚とともにイトマン本社へ出向いた。その段階では経済部の守備範囲ということで原稿を書いたわけではないが、「これはひょっとして大ごとになるのでは」と感じて資料を集め出した。

当時は登記簿謄本を見るには法務局に出向く必要があった。金の動きを追うために地上げされた土地の登記簿をあげ、会社の登記簿で役員名や住所を確認して自宅に夜回りをかける。そうした作業を続けていると、司法キャップから「許永中の名前が出てきたりすると、もう事件にはならんなあ。ご苦労さま」と言われた。当時の大阪の捜査当局はそんなふうにみられていた。新聞をはじめとするメディアもまた、独自取材で「関西の闇」に迫ることはほとんどなかった。

バブル経済とその破綻を象徴

1991年の元日の紙面でイトマンと許氏らの絵画取引について特報した。以後、事件が捜査の俎上にのぼると、取材陣の人数は雪だるま式に増え、毎日のように原稿を書くことになった。取材を始めて1年余り、明けても暮れてもイトマン。経済事件と聞くだけではゲップが出そうだった。

朝日新聞のデータベースによると、1991年に経済分野で最も頻繁に名前が登場したのは伊藤氏、2位が許氏、3位が河村氏だった。前年まではまったくのランク外だった3人がこれだけ登場した大阪の新聞紙面(東京本社版には半分も載っていない)には批判もあった。

読者のみならず、社内からも複雑すぎて事件の全体像が見えないと指摘された。まとまった記録を残さないと、後に「何があったかわからない」となりかねないと考えて、初公判が終わって以降執筆したのが、先に触れた『イトマン事件の深層』である。

河村氏らが起訴された同年8月13日、大阪ミナミの料亭の女将、尾上縫氏が有印私文書偽造などの容疑で大阪地検特捜部に逮捕された。7425億円の架空預金証書を偽造し、その証書を担保に4210億円をだまし取った容疑だった。ピーク時の借り入れは1兆3450億円にのぼった。

こちらの図式は単純だったが、イトマン事件と並び、日本中の大手金融機関を巻き込んだバブル経済とその破綻を象徴する事件だった。この日の大阪も32度を記録する暑い一日だった。

30年後のいま、異常な低金利が続き、コロナ対策などを名目に巨額の財政出動が繰り返されている。流れ出す金はどこに向かうのか。尋常ならざる事態はふつうの人々の目には触れないところで進行し、暴騰と破裂はあるとき一気にやってくる。バブル崩壊の痛みの記憶が消えるころ、次の危機がやってくるのかもしれない。