1994年、入団当初の大家友和氏。ここから通算24年のプロ野球選手としての生活がスタートした。(写真:(C)YDB)

プロ野球の新人選手選択会議、通称「ドラフト会議」が10月26日に開催された。話題となった清宮幸太郎選手の7球団競合など、意中の球団からの指名を受けた選手やそうでなかった選手など、毎年繰り広げられる悲喜こもごものドラマから目が離せない展開となった。
一方で、プロ指名を受けた選手たちが直面するのが、「お金と契約」である。入団時の交渉はもとより、2年目以降からは、毎年の雇用契約の更新、いわゆる契約更改もオフシーズンの風物詩となっている。『プロ野球のお金と契約』の著者であり、メジャーで通算51勝を成し遂げた大家友和氏が自身のドラフトをお金と契約の面から振り返る。

松坂大輔投手やダルビッシュ有投手、田中将大投手のように高卒選手でプロ1年目から即戦力になれる選手はごく一部です。打者でも同じです。投手でいえば、直球だけでなくすでにプロで通用する変化球を持ち合わせていないといけません。そんな高校生は甲子園に出て「怪物」と騒がれたり、高校入学時からスカウトが足繁く視察に通ったりする逸材です。

大半の高校生にとって、ドラフトで指名されるための勝負は高校3年夏の甲子園を目指した地方大会や、甲子園本大会での活躍に懸かってきます。私の場合、高校3年春まで控え投手だったので、まさに最後の夏に滑り込みでドラフト指名の対象に食い込んだようなものでした。飛躍のきっかけをつかむ舞台、それが3年春の京都大会でした。

強豪の北嵯峨戦で、先発のチャンスが私に回ってきたのです。冬場のトレーニングの成果もあり、制球難という課題も解消されていました。4対3。チームを勝利に導く完投勝利を収めることができたのです。

高校からのドラフト指名、決め手は最後の夏

夏に向けた練習試合などでも登板機会が増えました。そして、夏の大会で初めてエースナンバーを背負うことになったのです。北嵯峨戦での投球によって、直球に力があるという評判が立つようになりました。甲子園出場を懸けた夏の京都大会では、プロのスカウトも試合に足を運んでくれるようになっていました。

ずっと控えだった投手が突然、覚醒したかのような現象に、プロのスカウトもチェックする必要があったのでしょう。迎えた夏の京都大会は初戦から3試合連続完封勝利。準決勝では再び北嵯峨に4対3で完投勝利を挙げることができました。目標だった甲子園出場まであと一歩に迫りました。しかし、甘くはありませんでした。京都大会の決勝で残念ながら敗れ、大舞台には届きませんでした。

プロ野球のドラフト会議は本来、戦力均衡を目的に12球団がバランスよく選手を獲得できるための制度として設けられました。一方で、希望球団に入団できないのは選手にとって不利な制度だという不満が、人気球団、選手の両サイドから上がることもあります。

その中で過去のドラフト会議では、逆指名、自由獲得枠、希望入団枠、さらに高校生と大学・社会人を分けて指名するなど、幾多の試みが行われてきた経緯があります。


今年10月26日に行われたドラフト会議では早稲田実業の清宮選手が7球団競合となった。優先交渉権を獲得し右手を突き上げる日本ハムの木田優夫GM補佐(左から三人目)。(代表撮影)(写真:共同通信社)

しかし、密約説や裏金問題など負のイメージがつきまとったことも事実です。そこで、現在は再び本来の趣旨に基づき、人気選手に指名が重複した場合でも抽選が実施されるようになっています。

契約金も1億円と出来高が最大で5000万円、年俸は1500万円が上限と定められています。

メジャーにはかつて契約金に上限の規定はなく、2009年にドラフト全体1位で指名された大学生のスティーブン・ストラスバーグ投手は難交渉の末に契約金750万ドル(当時のレートで約7.5億円)に4年契約の年俸を加えて総額1510万ドル(同約15億円)で契約したケースもあります。2012年以降の現行ルールでは上限が設定されていますが、それでもドラフトの上位指名選手は、日本のドラフト1位選手の何倍もの契約金を手にすることができます。

また、ドラフト会議とは違いますが、メジャーが2016年秋に選手会と合意した新労使協定による規定では、アメリカ、カナダ、プエルトリコを除く25歳未満の海外選手を獲得する際、メジャー球団が選手に支払える総額の上限があり、しかもマイナー契約となることが決まりました。

若手のキューバ選手との大型契約を抑制する狙いがあるとされていますが、日本ハムファイターズの大谷翔平選手のような日本のスター選手がポスティングシステムでメジャーに挑戦する際にも、この条件が適用されるようになっています。

私が経験したドラフト会議

私が指名されたときのドラフト会議は、1993年11月20日に行われました。このとき、横浜からドラフト3位で指名を受けました。この年のドラフト会議では、初めて大学、社会人の選手は希望球団を逆指名できる新方式が採用されました。3位以下の指名は前年下位チームから指名し、自動的に選択権が与えられたのです。4位は上位チームからと完全ウェーバー方式で、重複によるくじ抽選はありませんでした。

ドラフト当日は土曜日でした。事前の新聞報道などでドラフト指名される可能性があったため、授業を少し早く切り上げて、校内に用意された記者会見場へ移動して待機していました。上位が既定路線の逆指名だったため、盛り上がるのは3位以下となっていました。高校生選手にとっても、ここからが緊張の時間帯でした。そんな中で、横浜がドラフト3位で指名してくれたのです。自分の名前がテレビでアナウンスされ、安堵の表情を浮かべたことを覚えています。

すでに駆けつけていた地元紙やスポーツ新聞の記者の人たちに感想を聞かれ、その後は校内の敷地へ出て行って、仲間たちに胴上げされました。翌日の新聞には写真付きで掲載されました。高校入学時、兄と約束した入団テストを受けることなく、プロへの扉が開かれたのでした。

契約金6000万円、年俸450万円。それが私のプロ野球人生で初めて手にしたお金です。母が同席した食事の席で、京都に足を運んでくれた横浜のスカウト部長から、今まで目にしたこともない金額が提示されたことを記憶しています。

このときの契約金は、そのまま母親に渡しました。私の銀行口座を通過したかすら、さだかではありません。一部はこれまでの奨学金の返済に充ててもらいました。自分が兄にしてもらったように、弟の学費はここから捻出できると少しホッとしていました。母にありがとう、兄にありがとう、お世話になった人たちにありがとうございます。自分の中ではそういった感謝の気持ちしかありませんでした。

人生初の年俸交渉は「入団前」

めでたい契約の席上で、私は最初の「年俸交渉」を行っています。実は、最初に提示された年俸はもう少し低い金額でした。自分なりに高卒のドラフト3位入団の選手がどれくらいの年俸を手にしているのか、新聞記事などを参考にイメージしていました。新聞に出ている金額は推定であり、もちろん、正確ではありません。ただ、大きく的を外しているとも思えませんでした。そう考えたとき、自分の中で「提示額が少し低い」と思ったのでした。


そして、スカウト部長に「年俸をもうちょっとどうにか、してもらえないですか」と伝えました。スカウト部長からすれば、相手は17歳のガキくらいにしか思っていなかったはずです。そんな高校生がいきなり「年俸をもう少し上げてほしい」と言い出すのですから、驚いたに違いないでしょう。

こちらとしては、ごねるつもりも、駆け引きをするつもりもありませんでした。ただ、自分の中で、もし足元を見られているのなら、それは「あかん(だめ)」と思いました。

球団も家庭事情は調べているはずです。母子家庭で、家にお金がないことくらいすぐにわかります。「だから、これくらいの金額でいいや」と思われたのなら、納得するわけにはいかないのです。

高校を卒業してプロ野球にドラフト3位で指名されて入団する。そのことに対するきちんとした評価を欲しいと思ったのです。スカウト部長とはいえ、その場で提示額を変更することはできません。そんなことを言われるとは、思いもしていなかったでしょう。

球団が足元をみていたかも、わかりません。あくまで、私の気持ちの問題です。「1回、持ち帰らせてほしい」とスカウト部長に保留されました。しかし、次の交渉で上積みした金額を提示してくれました。気持ちよくプロへ来てもらおうという誠意だったのかもしれません。