今年もまた高校野球をめぐる論争が起きました。東海大四高の西嶋投手が投じた超スローボールに対して、そのような投球をすることで「世の中をなめた少年」になってしまうのではないかと危惧する元アナウンサーの男性のつぶやきが議論を呼び、最終的にはメジャーリーガーのダルビッシュ有さんまで参戦する事態に。元アナウンサーの男性は当該のつぶやきを削除し、求めがあれば本人に直接謝罪するなどとし、発言を撤回しました。

振り返れば過去にも似たような議論は数多くありました。連投による選手の酷使が議論を呼んだ2013年春の済美高校・安楽投手、意図してファウルを打ちつづけるカット打法の是非が議論を呼んだ2013年夏の花巻東高校・千葉選手、古くは元巨人・松井秀喜選手を相手に5打席連続敬遠をした1992年夏の明徳義塾高校の戦略などです。

これらの例に共通するのは、野球のルールにおいては何ら問題ない行為(※花巻東・千葉選手の例では準々決勝後に大会本部から、高校野球でのバントの定義に関する特別規則に抵触する可能性があると通達され、事実上禁止された)が、その是非をめぐって議論になった点です。超スローボールを禁じるルールも、連投を禁じるルールも、ファウルを打つことを禁じるルールも、敬遠を禁じるルールもないにも関わらず、それが議論となる。

これは多分に「野球」と「教育」をないまぜにして語ることによる問題ではないでしょうか。高校野球はスポーツを通じた高校教育の一環です。ゆえに、「野球」というスポーツの問題として語る視点と、「教育」の問題として語る視点がゴッチャになりがち。その結果、噛み合わない議論を呼んでいるように感じます。「教育としてはダメだろう」と語る人と、「野球としては問題ない」と語る人がぶつかり合うような形で。

西嶋投手をめぐる元アナウンサー氏の発言も、根底では「教育」について意見を述べたものであったのでしょうが、スポーツ中継担当歴が長いというキャリアなども相まって「野球」の問題として受け止められたことが、いわゆる炎上に至った一因であろうと思います。

誰しもが年を重ねれば自分なりの人生訓を備えますし、親ともなれば人間教育の経験者であるかのように自分を感じるもの。しかし、実際は「野球」が草野球レベルから甲子園レベル、プロ野球レベルまであるように、「教育」にも個々人の程度の差はあるはず。草教育レベルを脱して、他人を諭せるほどの経験・能力を持つ人は多くないでしょう。野球であれば「プロ野球」を参考にするという方法もあり得ますが、「プロ教育」と呼べるものに触れる機会は多くないわけですから。

高校野球を楽しむにあたっては、見る側にも分別が必要なのではないでしょうか。多くのファンは「野球が好きで、野球を見ている」のでしょう。ならば、そこで感じたことは「野球の問題」として語るのが肝要。野球において、それが是であるか、非であるかという観点で。「高校野球としては好ましくない」などという教育視点は込めずに。

そして、もし教育の問題をどうしても語りたいのなら、語る時期や語る相手も今一度考えたほうがよいでしょう。大会期間中にそれを語ることがふさわしいのか(今言われても選手が困るだけなのではないか?)。選手個人の名を挙げて、その選手の問題として語るべきなのか(選手が非難の対象となりはしないか?)。教育として好ましくないと感じる場面があったとしても、それを告げるべきは日本高等学校野球連盟や教育委員会など教育方針を定める側なのではないか(ルールそのものを変えるべきなのではないか?)、と。

高校生という「大人と子ども」の境目のような年代の少年たちだからこそ、見る者の心にも教育論がムクムクと湧き上がるのかもしれませんが、教え諭すのはご両親や学校の先生など身近な大人の領分。外野は外野らしく「野球」を楽しみたいものです。選手には選手の人生があり、それに口出しできるほど親しい間柄でも、彼らの人生に責任を持つ覚悟もない身としては。

(文=フモフモ編集長 http://blog.livedoor.jp/vitaminw/

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