それはそうと世界陸上。

 夜型の僕には、さあ、原稿書きを始めようかと思う頃、ちょうど始まるから始末が悪い。気がつけば、机に背を向け、テレビ画面を眺めている。現実から逃避する材料として、これほど適したものはない。

 当たり前の話だが、世界陸上は現地生中継だ。実況と解説が、東京のスタジオに送られてくるモニター映像を見ながら伝えるオフチューブ方式ではない。テレビからは、現地の様子が生々しく伝えられる。リアリティがあるので、多少なりとも現地に行った気分が味わえる。

 もし、いま僕が、ベルリンの五輪シュダディオンにいたら何が見えるか。スタンド観戦している自分をつい想像している。

 テレビ画面の映像と、スタンドから見える光景とが、陸上の総合競技会ほど違うケースも珍しい。

 三段跳びや走り幅跳びが行われる場所は、たいていバックスタンドの前だ。正面スタンドに座っている人に、その様子は伝わりにくい。サッカーのゴール裏で行われる走り幅跳びもしかり。逆サイドのゴール裏席に陣取る人の肉眼には、豆粒のようにしか見えてこない。最大の目玉種目である100mでさえ、詳しいことはよく分からない。スタジアムに詰めかけた大方の人はその肉眼に、テレビより詳しい情報を収めることはできないのだ。

 そもそも、100mを9秒58で走るスピードに、目が追いついていかないのだ。観戦する場所によっては、誰が勝ったのかさえサッパリわからない。

 たいていの場合、男子100m決勝が行われる日のチケットは入手困難になるが、その割に「納得度」は低い。生の絵を楽しみに現場に駆けつけているというのに、号砲とともに、スタジアムに備え付けのオーロラスクリーンに目を向けている。テレビで見ていた方が何倍、いや何十倍もよくわかる。昨年の北京五輪では、頑張って可能な限り良い席をゲットした。正面スタンドの1階席のゴールに近い位置だった。しかし真横ではなかった。真横は記者席だった。
 途中までは良い感じで観戦できたが、残り20mの微妙なつばぜり合いは、確認できずに終わった。100mを見るベストポイントは、記者席という特定の人しか入れない、狭いエリアに限られている。

 つまり、舞台が巨大な割には、各種目が行われるエリアは狭い。すべての観衆が共有できるのは、トラックを周回する種目に限られる。800mとか1500mあたりが、そう言う意味では見頃な種目になるが、問題はそれだけでは終わらない。たいていの場合、2つ以上の種目が同時に進行しているので、一つの種目に、じっくり目を凝らしにくい環境にあるのだ。各所の状況に、目を絶えず目を配っている必要がある。

 各種目の開始時間を心得ていないと、気がつけば、逆サイドですでに始まっていたりする。フィールドやトラック周辺には、競技役員もたくさんいる。選手だけがくっきり鮮明に、視界に飛び込んでくるわけでもない。ともかく現場は、とても雑然としたムードに包まれている。観衆はその中に、ほったらかしにされている感じだ。観衆にこれほど不親切な競技も珍しいのだ。

 しかし、もう2度と見に行くもんか、とは一切思わない。このほったらかしにされている感じにこそ「生」の魅力は詰まっている。広い競技場の各所で、いろんな種目が脈絡なく、次から次へと進行していく非日常性的空間に、気がつけば酔いしれている。テレビ観戦を通してはまず味わうことができない、忘れかけている感覚というべきか。テレビ観戦と、現場の生観戦とでは、いかなる場合も、異なる印象を受けるもだが、世界陸上は最たるものだと思う。家にこもって、地味に原稿書きをしていると、その何とも言えない開放的なムードに、ひときわ心地よさを感じる。飛び込んでいきたい衝動に駆られるのだ。

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