合宿地として知られる御殿場のスポーツセンター「時之栖」で、高校の母校が試合をするというので、観戦に出かけた。

 後輩の試合とはいえ、スタンドから試合を見ていると、気がつけば、いつものように記者目線になっている。「上から目線」になってしまうわけだ。

 言いたいことが山ほど浮かんでくる。と、同時に、言われるべきことを山ほど抱えながらプレイしていたに違いない僕の高校時代も思い出す。

 それなりに一生懸命やっていたと思うけれど、あまりにも術がなかった。頭の中身を空っぽにしたままプレイしていた。いま振り返れば、明らかにそう思う。もし、○年前にタイムスリップできれば、とも思ってしまう。いまの知識をもって、プレイに臨むことができたら、もっと良い選手でいられたことは間違いない。当時と同じ体力、技術レベルだったとしても、だ。

 そう言えば、何年も前の話になるけれど、僕は、いま解説者をしている当時の日本代表選手に向かって、失礼にもこんな台詞を吐いたことがある。「キミと僕と身体を入れ替えることができたら、僕はキミより断然良いプレイができる自信があるんだけれどなぁ。イメージは僕の方が良い!」

 冗談ついでとはいえ、一瞬、相手が浮かべたムッとした表情はいまでも忘れることができない。自信過剰な僕の態度にも、いまさらながら怖さを覚えてしまうのだが、一方で、あながち的外れではないような気持ちを、いまなお心のどこかにこっそり抱えている。「もう一度、俺にやらせてくれ!」

 母校のサッカー部の試合を見ていると、その気持ちはさらに強くなる。

 現役高校生の試合が終わると、対戦校の卒業生とのOB戦が始まった。つまり僕にも、プレイの機会が与えられていたわけだ。何代も上の先輩たちが、勢いよくピッチに飛び出していく中で、しかし、僕はスタンド観戦を決め込んだ。

 最後にサッカーボールを蹴ったのは何年前になるだろうか。フルコートのピッチでは7、8年やってない。フットサルも3、4年やってない。ピッチの上でボールを操る自分自身の姿を、僕はもう想像することができない。イメージはあっても、身体がそれに従うことはまず不可能。「もう一度、俺にやらせてくれ!」は、すっかり叶わぬ夢になっている。

 観戦者としての僕の目が、僕のプレイを許さないからだ。

 一応、僕は「サッカー観戦のプロ」を自負している。そのプロとしての厳しい目が「キミはもうサッカーはやるべきではない」と、プレイすることに待ったをかけるのだ。もし、そこで強引に出場すれば「口ほどにもない奴」と、もう一人の自分に冷笑されるに決まっている。つまり、自分自身に辻褄が合わなくなる。

 それはともかく、そんなこんなを思いながら、後輩のプレイを見ていると、やっぱりもったいない気がする。もっと頭を使いましょう! と、僕が高校時代にできなかったことを求めたくなる。観戦のプロになって分かったことだけれど、頭の中身を少し入れ替えるだけで、プレイはかなり上達する。1ランクも2ランクも上の選手になれる。で、サッカーは上手くなればなるほど、楽しくなる。

 ただし、僕らの時代にはない良い点もあった。

 現役の試合が、1軍対1軍と2軍対2軍の計2試合用意されていたことだ。部員のほぼ全員が、試合に出場できることだった。

 僕らの時代に2軍戦はなかった。セルジオ越後さんが日本サッカー界の問題点だと常々指摘している「補欠を大量に発生させる社会」そのものだった。

 どの競技もそうだと思うけれど、補欠ほどつまらないものはない。日本代表でも、試合に出た人と出ない人との間には、計り知れない温度差がある。出ない人はなんにもおもしろくない。でも、そうした態度を外に見せてはいけない。監督批判もできない。

 とはいえ、監督が替われば、メンバーはがらり一変する。それは、オシムに言わせれば「監督の趣味の問題」となる。

 補欠とレギュラーが表裏一体の関係にあるのがサッカーの特徴。そしてこれこそが、サッカー選手の一番の悩みになる。選手にとって監督が「恩師」にあたるケースはそう多くない。

 その昔、もし僕が補欠だったら、どうしていただろうか。部活を辞めていた可能性は高い。サッカー好きのライターになっていなかった可能性は大ありだ。でも、2軍戦があったら、辞めていないかも知れない。つまり補欠は、ファンを減らす危険をはらんでいる。

「補欠禁止!」

 2軍戦を見ていると、僕は改めてそう叫びたくなるのである。

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