「便利な製品」を卒業したアップルが目指すもの
(写真:アップル)
先月の発表会で、iPhoneシリーズやApple Watchなどアップルの人気製品群が一新された。新発表の製品を見て「何も変わっていない」、iPhoneを見て「よくなったのはカメラだけ」と言う人たちもいる。でも、実はコレ、毎年繰り返されている不毛な議論だ。
新たなiPhoneは「新駅」のようなもの
2007年の初代iPhoneからアップルはずっと製品の基本品質と総合的バランスで勝負をしている。ガジェット好きの人を一喜一憂させる大掛かりな仕様の変化は2〜3年に1度のペース(今回追加されたカメラ操作は、それに当たると思う)。
新製品でそうした機能以上に力を入れているのが基本性能だ。つまり、目に見える部分では画面表示性能とカメラの画質の向上、見えにくい部分ではプロセッサの性能向上に焦点を絞っている。
というのも、アップルはプラットフォーマー企業で、その製品に魅力を加えているのはアプリやアクセサリを作る周辺の開発者たちだからだ。アップルが一時的な売り上げアップを狙って、ギミック的な仕様変更を行うと、それによって開発者たちが振り回されることになる。
だから、アップルはつねにやり過ぎないように注意しながら、開発者たちが新たなチャレンジや前進ができるように、土台のブラッシュアップに努めている。
いい土台としての新作iPhoneの魅力はなかなかわかりにくい。例えて言えば、まだ開業したばかりで周囲に何もない新しい電車の駅のようなものだ。
しかし、実際にこの駅ができたことで人流が変わり、賑わいや新たな文化が生まれ、地の利を生かした商業施設や文化施設ができて街としての魅力が醸成されるように、新しいiPhoneもそれが出ることによって新しいアプリが登場して製品の魅力が醸成されていく。
新たなiPhone16もAI性能を大幅に向上させたプロセッサや、いつでも簡単にカメラを呼び出せるデザインといった特性を生かしたアプリが増えて初めて、本来の魅力が伝わる。ただ、未来に向けてのポテンシャルの話なので、想像力があまり働かない人には「何も変わっていない」と映ってしまう。
だが、せめて製造業の関係者にはそうした表層だけを見ずに、いずれアップルを追い抜けるように、もっと深い部分を見て学び、一刻も早く中長期の戦略に投資し始めてもらいたい。
というのも、ここ数年、アップルが小さなギミックよりも、はるかに多くの労力を割いているのは、大企業にしかできない人々の価値観や社会の仕組みさえも変えてしまいそうな「大きな枠組み」であって、それらは一朝一夕ではなし得ないからだ。
そうしたさまざまな大きな取り組みの中で、今回紹介したいのが、人々の健康を守る取り組みだ。先月行われた新製品発表会では、新商品以上に大きな印象を残している。
10億人の運命を変えるApple Watchの新機能
さて、ここで1つ質問しよう。
「日本でおよそ900万人。世界では10億人」。これは何の数字だかわかるだろうか?
答えは睡眠時無呼吸症候群という疾患の潜在的患者数だ。睡眠中に一時的に呼吸が止まり、身体が十分な酸素を取り入れられなくなるというもので、治療をしないままでいると、高血圧、2型糖尿病、心疾患のリスクが高まるなど、時間の経過とともに重大な健康への影響をもたらす可能性がある。
テレビの健康番組などで、芸能人が医療機関に泊まり込んでその兆候があるかのテストをしている様子を見たことがある人もいるだろう。医療機関に泊まり込む必要があることからもわかるように、この疾患の発見は厄介でお金もかかる。
こうした中、アップルは数年前からリリースしていたApple Watchの睡眠記録機能を拡張し、臨床的にも認められた形(厚生労働省からも認可を受け、医者が診断の際に役立つ情報を書き出す機能も用意した形)で、「睡眠時無呼吸の兆候」を検出してユーザーに教える機能を開発した。日本では、10月第2週には厚労省から最終承認が降りてこの機能が利用可能になる。
ウェアラブルデバイスでこの疾患を検出できるようにしたのは世界初の快挙だ。
最近、自宅での簡易検査を提供している医療機関もあるが、その方法は血中酸素濃度を測る専用機器「パルスオキシメーター」をつけて寝るなど大掛かりな割には偏った情報しか取れない。そもそも、これはすでにある程度、自分は睡眠時無呼吸症候群かもしれないという自覚があるからこそ受ける確認用のテストだ。
対してApple Watchでは、日々使う睡眠記録機能の延長線上で、睡眠疾患の兆候を発見できる。Apple Watchの加速度センサーを使って睡眠中の正常な呼吸パターンの中断に関連する手首の動きを検出するという仕組みで、睡眠時の呼吸がアルコール、服薬、姿勢などの影響を受けることを考慮して30日ごとの呼吸の乱れをもとに診断を行う。
こうした情報は、ユーザーが許可すれば医師にもPDFファイルとして共有が可能で、より深い診断の材料として使うことができる。
こうしたことができる機器は現在、Apple Watchをおいてほかにない。しかも、アップルはこうした技術を持つ会社を買収したのではない。同社は2015年、大学などの研究機関が健康に関する課題の研究をするために、iPhoneやApple Watchで健康データの提供を許可してくれる被験者を募る「ResearchKit」という開発基盤を提供。これを通じて、世界の研究機関で重要な疾病に関する研究が一気に進んだのである。
「呼吸の乱れ」を診断する機能も、そうやって長い年月を経た研究が身を結んだもので、他社が一朝一夕に真似できる機能ではない。
アリゾナ大学ヘルスサイエンスの睡眠・サーカディアン・神経科学センターのサイラム・パルサザラシー所長は、「睡眠時の呼吸の乱れの存在を確実に特定できるようにすることは、睡眠時無呼吸のような、診断が見過ごされがちで深刻な疾患を発見するために役立つ。これは公衆衛生の改善において大きな前進だ」と評している。
十数億人を助ける「AirPods Pro 2」
もう1つ質問しよう。
「日本ではおよそ1500万人で世界では十数億人」ーーこれは何の数字だろう?
答えは難聴者の推定人数だ。耳の聞こえの悪さは年長者の問題だと思っている人も多いが、実は日々、大音量で音楽のライブを聴いている人など若者でも少なくない。耳の聞こえが悪くなると、そのうち何度も聞き返すのが辛くなり、孤立感を生むようになる。
アップルのヘルスケア担当副社長で医学博士でもあるサンブル・デサイ氏によると「脳が音を処理しないことに慣れて衰えてしまう問題もある」。その結果、認知能力の衰えが加速するという。「それにもかかわらず80%の人は聴力テストを受けていない」(デサイ博士)。
まもなくリリースされる無料のアップデートで、アップルはAirPods Pro2に「耳の健康」に関する一連の新機能を追加する。その1つが「ヒアリングチェック」と呼ばれる聴力テストの機能で、純音聴力検査と呼ばれる標準の臨床的アプローチに基づいており、厚労省も認可をしている。
左右片耳ずつ行われるテストで、AirPods Pro2を通してさまざまな周波数の音が再生されるので、それが聞こえたら画面をタップするという極めて単純なもの。数分間で完了し、診断結果が表示される。
「難聴の可能性がある」と診断された場合は、AirPods Pro 2を使って得られたテスト結果をPDFとして出力して医師に見せることもできる。どの周波数の音がどれくらい聞こえているかをグラフにしたものだ。
難聴を予防するための技術も
多くの人にとって縁遠い聴力検査が受けたければ1日に何度でも無料で受けられる、というだけでも画期的だが、機能はそれだけにとどまらない。
AirPods Pro 2では、そもそも難聴を予防するための技術として毎秒4万8000回のスピードで周囲の音を検知して、耳にダメージを与えそうな大音量の場合には、音の特性を損なわずに音量を下げて耳へのダメージを抑える。
実は、デサイ博士は大音量の音楽コンサートに参加する時も、可能であればAirPods Pro 2を耳につけたまま参加することを推奨している。ちゃんと演奏されている音楽の音質は損なわれずに楽しめ、それと同時にダメージを与える音量から耳を守ることができるからだ。
アップルはミシガン大学公衆衛生大学院および世界保健機関(WHO)と長年にわたってApple Hearing Studyという難聴に関する研究を続けてきたが、その調査によれば「3人に1人は聴覚に影響を及ぼす可能性のあるレベルの大きな環境騒音に日常的にさらされている」という(通勤時の地下鉄、自宅の芝刈り、スポーツイベントへの参加など)。
AirPods Pro 2は、すでに難聴になっている人にも役立つ。聴力検査の結果を基に自動的にチューニングを行ったヒアリング補助機能、つまり補聴器の代わりとなる機能も提供しているのだ。
補聴器は、性能が高いものを買おうとすると高価だが、デザイン的に優れていなかったり、独特の音の調整の仕方に馴染めないなど課題もある。このため難聴なのにもかかわらず、補聴器なしで我慢する人も少なくないという。
AirPods Pro 2の場合、聴力検査の結果に基づいて自動的にその人の耳の特性に合わせたチューニングが行われるだけでなく、デザイン的にもつけていても誰も不自然に思わないというのも大きな強みだ。愛用しているセレブも少なくない。
補聴器や、より手頃な解決策として普及している集音器では、誰か1人だけが話している時は聞き取れるが、複数の人が同時に話し始めると聞き取れないという問題があるが、AirPods Pro 2では自分が見ている先にいる人の声だけを大きく再生するといった機能もある。
心電図機能や転倒検知機能も備わっている
Apple Watchはこれ以外にもすでに、日本だけで71.6万人いると言われる心房細動を検査できる心電図機能のほか、事故に遭った場合、それを検知してユーザーの意識がなければ代わりにGPS位置情報を添付して自動的に助けを呼ぶ機能や、転倒時に助けを呼ぶ機能を備えている。
最近では精神の健康の領域にも踏み込み始めており、うつ状態などを軽減できるように毎日の「心の状態」の記録をつける機能も搭載。このほか、月経周期や日々の体温の変化を記録する機能や、日々の活動を運動として記録・管理する機能も備わっている。気がつけばApple Watchは、使う人の健康状態を誰よりも詳しく把握するデバイスに成長しているというわけだ。
今年10周年のApple Watchだが、登場したばかりの頃は腕時計の伝統をデジタルで再創造することと、抜きん出たファッション性、そしてフィットネス機能という3点だけに焦点を絞っていた。
ただ、ここが大手の強みで、それでも世界で数億人が使うようになったことで、あることが起きた。たまたまフィットネス機能の一環としてつけた心拍数を計る機能を使って、自らの心臓疾患を発見し、命を救われた人が続出し始め、アップルに感謝状を書き始めたのだ。
これがきっかけでアップルはResearchKitなどの開発を始める。これはアップルがいかに顧客の声に耳を傾け、そこから新しいトレンドを掴み、素早く製品開発に役立てているかの証左でもある。
強みの背後にはプライバシー保護の姿勢
こうした機能の実現には、医療系技術もさることながら、アップルのプライバシー保護に関する取り組みもモノを言っている。他社が利益のためにユーザーのプライバシーを蔑ろにする行為をつねに批判し、自社はプライバシーを保護する側だと主張してきた。
そうやって積み重ねてきた信頼が、アップル製品は安心して自分の健康情報を預けられる機器という認識を生み出し、来年以降は自分の最もプライベートな頼みごとをお願いできる電子秘書、Apple Intelligenceを広めていく上でも重要になってくる(Apple Intelligenceは日本への対応は来年以降だが、今回発表された16番台のiPhone以降から使える。正確には昨年登場のiPhone 15 Proシリーズも対応している)。
気がつけば、「何も変わっていない」と思わせるほど小さく積み上げてきた健康機能が、今では簡単には追いつけない高山のようにそびえたっている。アップルが現在、立っている境地に辿り着くのは並大抵のことではない。
日本に限らず、ガジェットが好きな人には一時的に「便利」と思わせる機能を過剰に重宝する傾向がある。その期待に応えて毎年CESなどのイベントに合わせて、積み重なることのない打ち上げ花火的な新機能の開発に注力することは消耗線でしかない。
そんな数千人を喜ばす数週間の話題に投資するよりも、5〜6年くらいかけないと実現はしないが、実現したら世界の75億人の暮らしを変えるような価値提供を目指して、少しずつ改善を積み上げていったほうが企業のブランド力にもつながるのではないだろうか。
さて、最後にもう1つ質問しよう。あなたはこれでもまだ先日発表された新製品をみて「何も変わっていない」と言えるだろうか。
(林 信行 : フリージャーナリスト、コンサルタント)