山口百恵

写真拡大

復帰のオファーは1度もなかった

 1980年11月に三浦友和(72)と結婚した山口百恵さん(65)は同時に引退した。今年は三浦と百恵さんにとって節目の年だ。2人がグリコのCMの撮影で初めて会ったのは1974年。今年は出会いから50年なのである。映画「伊豆の踊子」での共演も同年だ。三浦が22歳、百恵さんが15歳だった。さて、百恵さんは戦後最大級のスターでありながら、どうして復帰しなかったのだろう。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

【写真】山口百恵にピッタリと寄り添う三浦友和、30歳誕生日パーティーで

 昭和期は結婚と同時に引退する女性芸能人が多かった。時代背景もあったのだろう。1985年に元大関の若嶋津六夫氏(67)と結婚した高田みづえ(64)、1991年に芸能プロダクション会長と結婚した小林麻美(70)の2人も引退した。

山口百恵

 もっとも、子育てなどが一段落すると、復帰する人が多い。高田と小林も限定的ではあるものの、芸能活動を再開した。百恵さんはどうして復帰しなかったのだろう。

 百恵さんの復帰話は1990年代を中心に何度も報じられた。しかし、三浦に聞いたところ、具体的な復帰話は一切なかったという。

「音楽業界からの本人への直接の依頼は1度もありませんでした」(三浦友和、週刊新潮2020年7月30日号)

 意外である。ただし、三浦と百恵さんがオファーを知らされてなかった可能性はあるそうだ。

「引退まで所属していたホリプロには、そんな話があったのかもしれません。あったとしても当時の堀(威夫)社長、妻の担当だった小田(信吾)さんが妻の意思を尊重し守って下さったと想像しています」(同)

 百恵さんがオファーを受けるはずがないと確信したホリプロが、百恵さんに何も告げぬまま仕事を断っていたかも知れないわけだ。百恵さんにオファーを断る手間をかけないためである。つまり百恵さんに復帰の意志がないのは関係者の統一見解だったわけだ。

 百恵さんは結婚前、「仕事はやめよう」と決めた。結婚前の1980年9月に発行され、340万部を売り上げた自伝的エッセー『蒼い時』(集英社)にそう書かれている。三浦との暮らしを最優先するためだ。

「私は彼のためになりたかった」(『蒼い時』より)

 昔も今も人の価値観や選択はさまざまだが、百恵さんは最初から専業主婦という生き方を望んでいた。

「私は三浦さんの奥さん、という言い方に誇りすら感じる」(同)

 一方で芸能界を敬遠したが、その理由も『蒼い時』や三浦の著書を読むと分かる。芸能マスコミの取材攻勢に辟易したのである。

 結婚前には百恵さんと複数の芸能人の男女関係が一方的に報じられた。昭和期に散見された「スター交歓図」の記事である。百恵さんは事実無根であるとして刑事告訴した。

 取材攻勢は結婚後も続いた。三浦の自伝的エッセー『被写体』(マガジンハウス)によると、テレビの女性リポーターが花屋を装い、家に入ろうとしたこともあったという。

復帰は考えたこともない

 東京・高輪の超高級マンションから都下の国立市の1戸建てに引っ越した1988年のころだ。当時、百恵さんは免許取得のために教習所に通っていたが、取材陣と揉み合いが続いたこともある。教習所通いも難しかった。

 病弱な百恵さんの母親への直撃取材もあった。業を煮やした三浦が法務省の人権擁護局に訴えに行ったこともある。前代未聞のことだった。

 さらに1989年4月、当時4歳だった長男・三浦祐太朗(40)の幼稚園の入園式で、母子は取材陣に取り囲まれる。祐太朗が怯えて泣いたことから、百恵さんは堪えられず、体を張って取材陣を排除した。

 三浦家には次男の貴大(38)もいた。百恵さんは2児を守ることに懸命で、芸能界のことを考える余裕はなかったのではないか。

 事実、百恵さんは復帰を考えたことが1度もないらしい。三浦は自伝的エッセー『相性』(小学館)にこう書いている。

「取材の方々の中には、『奥さんが芸能界に戻りたいと言ったら、どうしますか?』という質問をされる方もいます。突然言われたら、という仮定の話に答えるのは難しいのですが、重い話ですよね。だってそんな妻の気持ちに30年以上気づいていない自分がいるわけだから。そんな大きな気持ちを心の奥にしまい込んでいた妻に気付いていないのだったら、夫失格でしょう。事実だったら失礼な男です」

 三浦家にとって百恵さんの復帰はありえない話だったのだ。

 さりとて百恵さんは14歳だった1973年にデビューし、21歳だった1980年には引退した。たった7年半しか活動していない。余計なお世話だが、戦後最大級のスターなのだから、勿体なかった気もする。

 そもそも、百恵さんはどうして芸能界入りしたのかというと、歌手への憧れゆえだったらしい。

「幼い少女がお伽噺のヒロインを夢見る、その程度の気持ちだった」(『蒼い時』より)。小学校高学年のときの話である。

 一方で百恵さんはこうも書いている。「歌手山口百恵の誕生を語る時、ほとんどの人がひとつの理由として経済的な状況から逃げるためだったのではないかと言う」(同)。芸能界入りの理由の1つが経済的問題であることを否定していない。

 百恵さんは母子家庭で、母親は体が弱く、妹もいたため、百恵さんがデビューする前の生活は楽ではなかった。『蒼い時』には苦労の一端が記されている。

 百恵さんがデビュー前の中1の夏休みに行った新聞配達のアルバイトのことだ。配達先は約200軒。中学生はバイクが使えないから、きつい。配達には午前4時から同6時過ぎまでかかった。

 今も昔もみんなが遊んでいる夏休みに早朝から新聞配達をやる中学生は数少ないはず。百恵さんは歌も演技も評価が高かったが、その骨太の生き方に惹かれるファンも数多かった。

 百恵さんはその後も母親を大切にした。ずっと一緒に暮らした。三浦の両親とも同居した。

もしも復帰していたら

 振り返ってみると、復帰を待望視する声は強かったものの、その可能性は最初からなかったように思える。一方で仮に復帰していたら、途方もないほどのビッグビジネスになっていたのは間違いない。

 まず、NHK「紅白歌合戦」に出て、記録的な高視聴率をマークしていていたのではないか。紅白スタッフは1990年代、超目玉ゲストとして百恵さんの招聘を目論んでいたとされる。

 2019年に百恵さんが出したキルト作品集『時間(とき)の花束 Bouquet du temps』(日本ヴォーグ)は20万部を突破した。専門書と呼べる手芸本がここまで売れるのは異例中の異例だ。百恵さんの本なので売れたのは言うまでもない。

 現役時代に所属していたソニーミュージックからは今なお数年おきに企画作品が出ている。昨年11月には百恵さんのディスコ&ソウル調の作品を集めた「GOLDEN☆BEST MOMOE DISCO & SOUL」がリリースされた。これも売れるから、発売される。

 ただし、当の三浦夫婦には百恵さんによるビジネスには関心がない。目立たない作業だった『時間の花束』の出版すら躊躇した。

「妻は迷っていたんですよ。でも還暦になる前のお話で、記念に出してみたらどうかと師匠の鷲沢玲子さんが背中を押して下さったことが決断の一番の大きな理由だと思います。妻とは『出すなら、(印税は)寄附を考えたほうがいいね』と話していて、実際にいろいろなところへ寄附をさせていただきました」(三浦、週刊新潮2020年7月30日号)

 2人は夫婦仲がすこぶる良いことで知られる。これも復帰がなかった遠因ではないか。2人が結婚以来、1度も喧嘩をしたことがないのは有名な話だ。「私は彼のためになりたかった」という願いも仲が悪かったら実現させるのは難しいだろう。

「(夫婦喧嘩は)なんのプラスにもならないのに、エネルギーを費やすのはもったいないと本気で思っている」(三浦著、『相性』より)

 背景には三浦の俳優人生が順風満帆だったこともあるだろう。ここ10年の映画の仕事を振り返っただけでもそれは分かる。「アウトレイジ ビヨンド」(2012年)では卑劣なヤクザの組長を演じ、好評を博した。

「64 -ロクヨン-」(2016年)で貫禄ある警察幹部を演じたと思ったら、「風の電話」(20年)では身内の死が重なって泣きじゃくる女子高生を懸命に慰めるやさしい男に扮した。

「ケイコ 目を澄ませて」(2022年)では視覚を失いつつある、老いたボクシング指導者を演じた。準主演である。作品は評判高く、キネマ旬報ベスト・テンの日本映画作品賞など映画賞を総ナメにした。

 ドラマはTBS「クロサギ」(2022年)に準主演級で出た。詐欺師の世界を裏で牛耳る黒幕役だった。ここまで息長く活躍する俳優は珍しい。演技の幅の広さが武器になっている。

 百恵さんは1980年10月5日に東京・日本武道館で行われたサヨナラコンサートでファンに向かって「幸せになります」と公約した。その約束を果たすためには復帰は不要だった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部