紫式部ともゆかりある廬山寺(写真: k-hiro/PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第29回は、夫に先立たれて悲痛な気持ちで過ごしていた紫式部の逸話を紹介する。

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紫式部の夫は「痔」の症状から2カ月後に死去

何気ない記述が、後から振り返った時に重要な意味を持つ。「日記」をつけたことがある人は、そんな経験が一度くらいはあるかもしれない。

正暦2(991)年から寛弘8(1011)年 の分が伝存している、 藤原行成の日記『権記』にも、そんな意義のある記述が少なくない。長保3 (1001)年2月5日には、こんな記載がある。

「右衛門権佐宣孝朝臣又申痔病発動之由」

右衛門権佐の藤原宣孝が、痔の病を申し出てきたという。

宮中の門を護る役所は「左衛門府」と「右衛門府」に分かれており、それぞれに「督」「佐」「大尉」「少尉」という官吏が所属する。「右衛門府」の「佐」についていた宣孝は、今では「紫式部の夫」として知られる。

大河ドラマ「光る君へ」では、佐々木蔵之介が藤原宣孝役を好演。ドラマでは睡眠中に宣孝の呼吸が止まるという、睡眠時無呼吸症候群を思わせるシーンが放送されたが、実際には痔に苦しんでいたらしい。

これだけでも貴重な情報だが、この記載から2カ月後の4月25日、宣孝は40代半ばから後半にかけて死去したとみられている。どうも、ただの痔ではなかったようだ。

例えば、大腸がんの場合、早期には自覚症状がほとんどなく、進行すると便に出血が見られたりする。痔の症状と似ているため、放置しがちなのは現在でもよくあることだ。

宣孝の死因については諸説ある。疫病に罹患しての急逝ともいわれるが、もしかしたら、大腸がんのような下血を伴う内臓疾患を抱えていたのかもしれない。

紫式部は結婚して3年足らずで未亡人となり、当時まだ2歳の娘・賢子(大弐三位)を育てていくことになった。

結婚生活では「待つ身の辛さ」を実感した式部

紫式部が、父の為時と元同僚で親戚関係にある宣孝と結婚したのは、長徳4(998)年頃のこと。式部は20代で、宣孝は40代だったとされている。

式部は、父が越前守になると、ともに越前に同行するものの、父の任期終了を待たずして、宣孝との結婚生活を送るために京に戻った。結婚の翌年には、第1子となる娘の賢子(大弐三位)が誕生している。

順風満帆のようにみえるが、結婚生活は必ずしも幸せなものではなかったようだ。式部より20歳も年上となる宣孝には、藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘など妻が多数おり、その間には隆光、頼宣、儀明、隆佐、明懐らの子も産まれていた。

なかなか自分のもとに訪れない夫の宣孝のことを、式部はホトトギスに例えながら、こんな歌も詠んでいる。

「たが里も とひもやくると ほととぎす 心のかぎり 待ちぞわびにし」

ホトトギスは誰の里にも訪れるもの、だから私のところにも来るんじゃないかと、待ちわびている――。

夫が自分以外の女性のもとにばかり通っていると思うと、待つ身の式部としては、さぞつらかったことだろう。

だが、宣孝は女性たちとうつつを抜かしてばかりいたわけではない。仕事のほうも、かなり精力的にこなしている。

前述した『権記』を見ると、長保元(999)年10月21日には、「弓場始」(ゆみばはじめ)という、宮中弓場殿での弓術始めの儀式が行われて、「右衛門権佐宣孝を所掌とした」と記載されている。

そうかと思えば、11月11日には、賀茂臨時祭の調楽が行われ、宣孝が「人長」、つまり舞人の長として、大いに張り切ったようだ。『権記』には次のように記されている。

「今日、調楽が行われた。殿上のあちこち、下侍の前において、盃酒の饗宴が行われた。右衛門佐の人長は、甚だ絶妙であった」

そして、11月27日には、神社に参向して神々に対して幣帛を捧げる、宇佐神宮の奉幣使として京都を発っている。

大河ドラマでは、神楽の人長や奉幣使に任じられたことについて、まひろ(紫式部)が「11月はお忙しくなりますね、大事なお役目を2つも」というセリフで、忙しい夫をねぎらう場面もあった。

多忙さが知らず知らずに身体に障ったのだろうか。もしくは、さまざまな場所に出入りするなかで、疫病を患ったのか。いずれにしても、エネルギッシュな宣孝だけに、その死は式部にとって、よりショッキングな出来事だったに違いない。

将来が心細くて仕方がなかった

突然、夫を亡くした式部は『紫式部日記』で「年ごろ、つれづれに眺め明かし暮らしつつ」、つまり、「長い間することもなく、物思いに耽って夜を明かして、日暮れまでぼんやりと過ごしながら」と書いているように、放心状態にあったようだ。


源氏物語に登場する野宮神社(写真: skipinof /PIXTA)

最愛のパートナーを何の前触れもなく亡くした、という点では19世紀から20世紀への転換期に2度もノーベル賞をとった、科学者のマリー・キュリーも同じ経験をしている。夫のピエールが46歳で馬車の事故によって亡くなると、やはり茫然自失となり、こんな感覚に陥ったという。

「太陽も花も、もう好きにはなれません。見ると胸が痛むから。あなたが世を去った日のような暗い天気のほうがまだ心が落ち着きます」

式部もやはり失意のなかで、外の世界の変化についていけなかったようだ。自身の心境について「花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき来にけりとばかり思ひわきつつ」として、こんな心境を吐露している。

「花の色も鳥の声も、春秋に移ろいゆく空の景色、月の光、霜雪などの自然風景を見ては、そんな季節になったのだなとは思いながらも……」

続く言葉として「<いかにやいかに>とばかり、行く末の心細さはやるかたなきもの」とあるように、先行きの見えない将来への不安だらけだった。現代語訳すれば、次のようになる。

「心に思うのは<いったいこれからどうなってしまうのだろう>と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった」

一方、宮中では、藤原道長もまた近しい人の死を体験していた。宣孝の死から約8カ月後の長保3 (1001)年12月22日、道長の姉にして、一条天皇の母・藤原詮子がこの世を去ることとなった。

そのため、式部は見舞客からの返歌として、次のように詠んでいる。

「なにかこの ほどなき袖をぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に」

「ほどなき袖」は「ほどなき身の袖」ということで、つまりは「取るに足りない私のような者の袖」という意味になる。現代語訳は、次のようなものだ。

「取るに足りない私が、なぜ夫の死のみを悲しんで袖を濡らしているのでしょうか。国中の人が喪服を着ている時に」

悲しみから逃れるように物語を書き始める

やがて式部は悲しみから逃れるかのように『源氏物語』を書き始めた。式部の綴った物語は、多くの読者の心をとらえ、その評判はやがて一条天皇や道長の耳にも届く。

そして、この『源氏物語』をきっかけにして、式部は道長の娘で、一条天皇の中宮である彰子のもとで、仕えることになるのだった。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)