(画像:「不適切にもほどがある!」Instagram <futeki_tbs> より)

宮藤官九郎の脚本による『不適切にもほどがある!』(TBSテレビ系)がさまざまな反響を呼んでいる。

なかでも話題なのは、このご時世に「コンプラ(コンプライアンス)」をまるで無視したかのようなセリフや行動のオンパレードという点だ。

いまこうしたドラマをつくる意図はなんなのか、そしてテレビにとってのコンプラはどうあるべきなのかを考えてみたい。

昭和と令和を行き来するドラマ

『不適切にもほどがある!』の物語は昭和61年、いまから約40年前の1986年から始まる。

主人公は、阿部サダヲ演じる中学の体育教師・小川市郎。野球部の顧問もしている。妻を亡くし、現在は高校生の娘・純子(河合優実)と2人暮らしだ。

煙草は吸いまくる、部員たちには罰としてケツバット。下ネタもところかまわず。いまの時代から見れば、“歩くハラスメント”といったところだ。

ただ、当時は小川だけがそうだったわけではなく、年齢や性別に関係なく、少なからぬ人々が同じ価値観で生きていた。

するとそこに、男子生徒・向坂キヨシ(坂元愛登)の母親が小川の言動に腹を立て、学校に猛然と抗議をしにやってくる。実は彼女は、2024年の令和からタイムスリップしてきたフェミニストの社会学者・向坂サカエ(吉田羊)だった。

コンプラに人一倍敏感な彼女は、小川を激しく糾弾する。そして何気なく乗った路線バスで小川も令和にタイムスリップ。昭和と行き来しながら、令和のコンプラと闘っていくことになる。

とはいえ、クドカン脚本ならではのコメディの魅力は健在で、キョンキョンら当時のアイドルや聖子ちゃんカットのような若者の流行など小ネタやオマージュも満載。

さらに純子とキヨシ、純子が憧れるムッチ先輩(磯村勇斗)の3人、そして小川と彼が令和で出会う犬島渚(仲里依紗)という2組の恋愛と友情もコミカルに描かれ、変に理屈っぽいものではない。

社会のコンプラ、テレビのコンプラ

だが全体の軸になっているのは、やはりコンプラを軸にした昭和と令和の対比である。見ていると、「昭和と令和はこんなに違っていたのか」と改めて思わされる。

たとえば、タバコ。昭和の場面では、小川をはじめとした大人たちがところかまわずタバコを吸っている。職場の中は煙で充満。またバスの座席にも灰皿がついていて車内で吸うのもOK。いまなら考えられない光景である。

社会のルールや価値観も、昭和と令和では大きく変わっている。第1話と第2話では、特に職場のことがテーマになっていた。

第1話では、秋津真彦(磯村勇斗の二役)が会社の後輩にハラスメントで告発されている。秋津はただ「頑張ってね」と言っただけなのにと戸惑うが、会社の担当者は、いまはそういう時代だとまったく受けつけない。

するとその居酒屋にたまたま居合わせた小川が頑張れと言っちゃなぜいけないのかと反論し始める。

また第2話では、テレビ局のバラエティ番組制作部署に勤める犬島が、産休から復帰した途端に働き方改革の波にもまれ、思うように自分のペースで仕事ができなくなり苦悩する。

しかし上司は犬島の訴えを聞く耳をもたない。そこに犬島への届け物を持った小川が現れ、昭和の働きかたのどこがいけないのかと口をはさむ。

そして最新の第3話では、下ネタ満載の昭和のテレビ番組とセクハラに過剰なまでに配慮する令和のテレビ番組が対比的に描かれる。

そして配慮のしすぎでどうすればよいかわからなくなった令和のテレビ関係者たちに、「出演する女性が自分の娘なら」という想像力をいつも働かせればいいのではないかと小川が訴える。

こう見ると、犬島の職場をテレビ局に設定しているのがひとつポイントなのだろう。もちろんテレビ局も企業のひとつなので、業種に関係なく関係するコンプラの問題がある。

だがその一方で、テレビというメディアが映像や言葉の表現に携わる仕事であるがゆえに出てくるコンプラの問題がある。その両面を視野に入れた物語が、今後も展開することになるのかもしれない。

“対話”を演出するミュージカル場面

演出という点で、このドラマを見て最初「エッ!?」と驚くのはミュージカル場面だろう。

毎回クライマックスになると、いきなりミュージカルになって阿部サダヲをはじめ出演者、店にいる客やオフィスの社員まで全員が歌って踊り出す。そして昭和と令和それぞれの立場からの考えや意見を歌で伝えるのである。

こういう演出にした意図はどこにあるのだろうか?

ひとつは、コンプラという話題が硬くなりがちなため、ミュージカルにすることで雰囲気を和らげるということはあるに違いない。報道番組ではなくドラマ。あくまでエンタメである。実際、居酒屋や職場が突然華やかなステージと化す様子は、意外な俳優の歌とダンスが見られることも相まって無条件に楽しい。


「不適切にもほどがある!」第3話でのミュージカルシーン(画像:TBS公式 YouTubooより)

だが、それだけではないだろう。もうひとつ感じるのは、ミュージカルにすることで“対話”が強調されるということだ。

ミュージカル場面で、登場人物は昭和の価値観と令和の価値観を互いにぶつけ合う。この場面を普通のセリフによる芝居にするという選択肢も当然あるだろう。

しかし、ミュージカルの演出にすることによって、異なる価値観同士が互いを否定するのではなくひとつの音楽という共通の土台の上で語り合っている印象が強まる。つまり、“対立”ではなく“対話”であるという印象が強まる。

意見の食い違いはあるが、同じ土台の上に立って言葉を交わすことの必要性をミュージカルで表す。これこそ、討論番組などではなくドラマだからできる演出だろう。コンプラというテーマをドラマで取り上げる意味が、そこに凝縮されている。

コンプラが重要な課題であることは間違いないが、最初からはっきりした答えが用意されているわけではない。もちろん法令は順守しなければならない。しかし倫理的なことや社会規範などについては、事柄によってさまざまな考えかたがある。

おそらくこのドラマも、昭和は良かったと言いたいわけでもないし、昭和が間違っていると断罪したいわけでもない。むろん昭和世代から見れば、あの頃は良かったと思えるようなこともあるだろう。

だがノスタルジーに浸ろうというのがこのドラマのメッセージではないはずだ。コンプラを守るにしても、まずは率直に意見を述べ合うこと。その段階がまず必要ということだろう。

そして意見をぶつけ合うところに必ずしも対立ばかりが生まれるわけではない。異なる価値観が交わるところには笑いも生まれる。宮藤官九郎の巧みな脚本、相変わらず達者な阿部サダヲをはじめとした俳優陣の演技は、そのことも教えてくれている。

テレビはコンプラとどう向き合うべきか

むろんコンプラは、ドラマだけにかかわることではない。ある意味フィクションという言い訳が利かない分、バラエティのほうがよりコンプラを意識しなければならない場面も多い。

「これコンプラ大丈夫?」というようなワードをバラエティ番組で聞くことも増えた。難しいのは、どこまでが大丈夫で、どこからが駄目なのかということだ。

フジテレビの若手ディレクター・原田和実の企画・演出による『有吉弘行の脱法TV』(2023年11月13日放送)は、そんな現状に一石を投じる“コンプラバラエティ”として出色だった。

そこでの、「タトゥーはどこまで許されるのか?」を検証する企画。ラッパーなどミュージシャンは、タトゥーを入れていてもそのままテレビに映されることが多い。

だがお笑い芸人は、そうはいかない。ではタトゥーを入れているラッパーがお笑いライブでネタを披露しているところを映すのはどうなのか?

テレビ局の担当部署に判断を委ねたところ、ネタ作りをしている場面などの映像は問題なかったが、お笑いライブのステージに立つ瞬間にVTR映像が強制終了になった。理由は「前例がない」ということだった。

タトゥーをどこまでテレビに出してよいのか、というのは法律で決まっているわけではなく社会の価値観によるもの。

だがこの企画からわかるように、そのルールも一律なわけではない。音楽のステージの場面では映っていいが、お笑いのステージではダメとされる。

コンプラを考え直す契機に

「前例がない」というのはひとつの理由ではあるが、裏返せば明確な基準がないということでもある。

要するに、コンプラには曖昧な部分がある。ではそのあたりの線引きは、誰がどのように決めるのか。「前例がない」として、判断を先送りするだけでいいのか。

コンプラということが盛んに言われ始めて、もうかなりの時間が経つ。そのなかで、「コンプラ」という言葉が独り歩きしているように感じることも少なくない。

いま、コンプラをなんとなく杓子定規に適用するのではなく、問い直すべきところは問い直す段階に来ているのかもしれない。

『不適切にもほどがある!』は、ドラマとしての面白さを越えてそんなことに思いを至らせてくれるドラマである。

(太田 省一 : 社会学者、文筆家)