1988年1月18日、本格的な3ナンバーボディを採用した高級車として「セドリック・シーマ」「グロリア・シーマ」を発売。そのコンセプトは、「日本的な味を持った世界に通用する“新しいビッグカー”」だった(写真:日産自動車

20〜30年以上経った今でも語り継がれるクルマが、続々と自動車メーカーから投入された1990年代。その頃の熱気をつくったクルマたちがそれぞれ生まれた歴史や今に何を残したかの意味を「東洋経済オンライン自動車最前線」の書き手たちが連ねていく。

1988年1月に日産自動車(以下、日産)から「シーマ」は誕生した。女優の伊藤かずえさんが長年乗り続け、日産がレストアしたことが報道された、あのシーマである。


日産の手によってレストアされたシーマと、長年乗り続けている女優の伊藤かずえさん(写真:日産自動車

発売当時は、「セドリック/グロリア」の上級車種という位置づけで、車名も「セドリック・シーマ」「グロリア・シーマ」と、取り扱い販売店系列により区分けされていた。

初代シーマは所有欲を満たす1台だった


初代シーマは、小型乗用車の寸法枠にこだわらず、『ダイナミックな走りの跳躍感と気品・優雅さ』を感じさせる、スポーティーかつフォーマルな4ドアハードトップ・スタイルを採用。ボディサイズは、全長4890mm、全幅1770mm、全高1380〜1400mm(写真:日産自動車

発売前年の1987年に、トヨタは「クラウン」に3ナンバー専用車種を加えており、シーマはその競合という位置づけになる。ただし、シーマはセドリック/グロリアの名を頭に持ちながら、それらとはまったく別の造形が施された。そして、セドリック/グロリアで初採用となっていた4ドアハードトップのみの車体構成となっている。つまり社用車など法人用ではなく、あくまで個人所有の最上級車種として商品化されたといえる。


初代シーマのサイドシルエット(写真:日産自動車

3ナンバー専用車種ということで、搭載エンジンは排気量が3.0リッターのV型6気筒と、それにターボチャージャーによる過給を装備した2種類のラインナップだった。ことにターボエンジンは、アクセルを全開にすると、車体の後ろを沈み込ませるほど猛然と加速し、荒馬のような印象を与えるすごみを持っていた。これもシーマ人気を高めた要因のひとつである。

エンジン出力のすごみだけでなく、電子制御エアサスペンションを用いることにより、しなやかな乗り心地を提供したのも初代シーマの特徴であった。エアサスペンションとは、空気圧を金属バネに替えて衝撃吸収に用いる方式で、空気圧を変えることにより柔らかくも硬くも調節できる。走行状況に応じて、コンピューター制御で空気圧を最適化し、走行安定性と快適性を両立し、優れた乗り心地をつねに維持する技術として、1980年代に日産以外でも各社で開発が進められた。


ホーンボタン部分とステアリングホイールが分割した独特な形状も初代シーマの特徴(写真:日産自動車

室内では、ハンドル中央のホーンボタンのところにオーディオの操作ができるスイッチが並べられ、これをいつでも操作できるようにと、ホーンボタンはハンドル操作に合わせて回転することなく、外側のハンドルだけがスポークとともにまわる独特な手法であったことも、シーマを運転した印象のひとつとして今も記憶に残る。


ソファーのような厚みがあり、高級感のあるシート(写真:日産自動車

座席は、ふっくらとした厚みのある形をしたクッションで、居間のソファーを思わせ、贅沢な気分を見た目にももたらしていた。柔らかく体を受け止めるその座り心地は、いまなお体に蘇ってくる。

豪勢な雰囲気と、ターボエンジンの荒々しい全開加速との落差もまた、初代シーマの懐かしい思い出のひとつである。

爆発的なヒットで社会現象に

発売開始の初年で3万6400台が売れ、月平均すると3000台超えの数字となり、バブル景気を象徴する“高級”の代名詞となる。その人気ぶりから「シーマ現象」という言葉も生まれた。好景気を背景に、シーマのような高級車をはじめ、ほかの高級品が度を越して売れる姿を指す言葉として、シーマ現象は使われた。


1991年8月に発売された2代目シーマ。初代はセドリック・シーマ/グロリア・シーマだったが、2代目では独立したブランドとして登場。その開発コンセプトは、『“4席重視”思想に基づいた快適な室内と高質な走りを追求したエレガントプレステージサルーン』だった(写真:日産自動車

初代シーマの大反響を受け、1991年に2代目へモデルチェンジした。より上級の高級車を目指すにあたり、車体は4ドアハードトップではなく、一般的な4ドアセダンに変更された。4ドアハードトップはしゃれた外観ではあるが、車体中央に前後のドアを支える支柱がないことにより、車体剛性では不利になり、より高出力エンジンを搭載し、かつ高速走行での操縦安定性を的確にするには、外観の見栄え以上に車体骨格の強さが求められる。


2代目シーマのインパネまわり(写真:日産自動車

ガソリンエンジンは、V6から排気量4.1リッターとなるV型8気筒となった。これは、1989年に誕生した「インフィニティQ45」と同じである。

サスペンションは、初代がエアサスペンションであったのに対し、2代目では油圧式のアクティブサスペンションに変更された。4輪それぞれに油圧調整機能を持ち、コンピューター制御によって走行状況に応じて減衰力や車高が調節される。一般に、フラットライドといわれる路面の凹凸を実感させない、滑らかな乗り心地を維持する機構だ。

初代以上の存在感を示せなかった2代目


2代目シーマのリアビュー(写真:日産自動車

やや荒々しい初代の加速感を、より上質な加速へ進化させる自然吸気のV8エンジンへの転換や、きめ細かい制御を可能にする油圧のアクティブサスペンションへの変更など、“技術の日産”にふさわしい、技術主体の進展だった。しかし、外観は、スペシャリティカーとして存在した「レパード」の3代目Jフェリーに通じる、後ろのトランク部分が尻下がりになる造形となり、高級車としての泰然としたたたずまいを薄れさせた。

また、ガソリンエンジンや油圧式電子制御サスペンションなど、共通性を持つインフィニティQ45との位置づけもやや曖昧なところがあり、絶対的最上級車種であった初代シーマと比べ存在感が低下しはじめてもいた。進化による洗練はあったかもしれないが、初代のような他に類を見ない存在感は希薄になり、シーマそのものの意味が消えかかった2代目といえるのではないか。そして、1996年に3代目へフルモデルチェンジをする。

日産の最上級車種として、トヨタの「セルシオ」と競合する形で1989年に生まれたインフィニティQ45は、セルシオが圧倒的静粛性と乗り心地で独自性を出したのに対し、技術の先進性で日産らしさを持つものの、“高級車とは何か”という価値が曖昧であった。このため、インフィニティQ45は初代で国内販売を終えることになる。


1996年に発売された3代目シーマ。そのコンセプトは、「行動派のための最高級パーソナルサルーン」だった(写真:日産自動車

そして3代目シーマが、インフィニティQ45の代替としての務めも果たす役割を担った。このため、車体もひとまわり大柄な寸法になった。ただ、2代目同様に、シーマを選ぶ理由が曖昧さを残した。

日産混迷の時代、シーマの進化に陰り

1990年代半ば以降、日産は経営状態が優れず、メルセデス・ベンツとの提携などの話題が持ち上がり、最終的にはルノーとの提携が決まる。そうした曲折が、シーマの進化を止めたといえるかもしれない。そしてカルロス・ゴーンが社長となり、グローバルな車種展開のなかで、シーマは2001年に4代目となり、続く5代目とともに、それぞれ10年近くの長い販売期間を持つ車種となり、最終的には廃止となった。


2001年1月12日に発売された4代目シーマ(写真:日産自動車


2012年4月25日に発表された5代目シーマ(写真:日産自動車


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1990年の前後、北米での販売戦略のため、トヨタはレクサス、日産はインフィニティ、ホンダはアキュラという上級ブランドの展開をはじめたが、その行くべき道は、トヨタ以外は曖昧な状態が続いたといえるのではないか。また、バブル経済が崩壊したあと、上級車種や高級車をどう方向づけるかも、日産とホンダはあやふやなままときを過ごしたといえそうだ。斬新な企画の初代シーマも、その独創性を継続しきれず、30年余の歴史に幕を閉じることになるのである。

(御堀 直嗣 : モータージャーナリスト)