信長の妹・お市の方とともに、柴田勝家は秀吉を討てる可能性はあったのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第29回「伊賀を越えろ!」では、本能寺で信長を討った光秀の追手や落武者狩りを退けながら、織田軍因縁の地・伊賀を家康一行が苦しみながらも抜ける姿が描かれました。第30回「新たなる覇者」では、驚異の速度で京に戻り光秀を討った秀吉が、天下取りに向けて動き始めることに。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

織田信長の死後、織田家の主導権を巡って羽柴秀吉と対立した柴田勝家は、1520年ごろに尾張の土豪の子として生まれたと言われています。勝家の出生や出自は記録がなく不明点が多いのですが、信長よりも10歳近く歳上のようです。

柴田勝家の半生

信長の父・織田信秀に仕え、信秀の死後は信長の弟・信行(信勝)に仕えました。勝家は、信秀の跡目を巡って信長と信行は対立しており、信行の重臣として信長に戦い(稲生の戦い)を挑みます。この戦いに信行・勝家は敗れ、一度は赦免されました。

その後、勝家は信行を見限り、信行がふたたび謀反を起こそうとした際には信長に密告しました。信行は信長に殺され、勝家は正式に信長に仕えることになります。

ただ勝家は、すぐに重用されることはありませんでした。

彼が重用されるのは信長が美濃を攻略し、上洛を開始するころからです。勝家は畿内攻略戦の一角を任され、姉川の戦い、石山本願寺戦、長島一向一揆戦、比叡山焼き討ち、朝倉攻め、浅井攻め、長篠の戦いと、信長の主だった戦いにほぼすべて参戦しています。

勝家の最大の長所は武将としての戦闘能力でした。その勇猛さは織田家でも抜きん出ており「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれ、敵に恐れられたと言われています。

勝家は、長篠の戦いを終えた時期に織田軍団の北陸方面司令官となりました。朝倉氏滅亡後、一向一揆らの蜂起もあり、なかなか安定しなかった加賀の平定を任されます。同時に武田信玄亡きあと信長が最も恐れた、上杉謙信の抑えとしての役割も担うようになります。

信長にしてみれば、謙信と武勇で対抗できるのは勝家しかないと考えたのでしょう。実際、勝家は手取川の戦いで謙信と交戦しています。この戦いで勝家は、謙信に敗北しました。しかし翌年に謙信が病で亡くなると、勝家は反転攻勢に出て上杉軍を撃退します。

このころ織田家中では筆頭家老だった佐久間信盛が追放され、このことで勝家は譜代家臣として筆頭家老の地位に。もっとも、重要な畿内の方面軍は明智光秀が務めており、役割としての勝家の地位は、方面軍の一人であることに変わりはなかったようです。

武田氏が滅んだ1582年3月に、勝家は本格的な上杉攻略を開始していました。上杉は圧倒的カリスマである謙信が亡くなったあと、その跡目を巡って景勝・景虎の養子2人による対立が発生。結果的には景勝が勝利し、後継者の座についたものの家中は混乱していました。勝家はそこを見逃さず、一気に上杉に対する攻勢に出ます。

本能寺の変が起こる6月2日には、上杉方の重要拠点である魚津城を包囲していました。その翌日(3日)には魚津城を陥落させます。勝家が本能寺の変を知ったのは6日でした。勝家は、ただちに全軍を撤退させ居城の北ノ庄城に戻ります。

勝家は情報を集め、大阪で四国攻めの準備をしていた丹羽長秀に連絡を取って光秀討伐の準備にかかります。しかし、ここで勝家は致命的なミスを犯しました。正面の敵・上杉を交戦状態のままにしてしまったのです。

秀吉は反転し京に戻るにあたり、すばやく正面の敵である毛利と和睦しました。それゆえ後方からの攻撃を受けることなく京へ反転できたのです。もちろん、この和睦もリスクをともなう賭けではありましたが、勝家は上杉に何の手も打たなかったため、本能寺の変を知った上杉は当然のように反撃を開始。

このため勝家が京に進軍できる状態になったのは18日で、すでに光秀は秀吉に討たれていました。勝家は、正攻法の戦闘には強かったのですが、こうした機動的な判断に鈍いところがあり、また外交的センスも乏しく、秀吉との大きな差が出てしまいます。

すべてが後手に回った柴田勝家

信長の弔い合戦という最大の利益を秀吉に奪われた勝家は、その後の織田の跡目と運営をめぐる争いでも守勢に回らされます。

それが、いわゆる清洲会議です。

通説では、勝家は信長の三男・織田信孝を跡目に推し、秀吉は織田信忠の嫡子である三法師を推したとありますが、最近の研究では勝家も三法師の擁立には反対せず、議題の中心は信長の遺領をめぐる分配だったようです。


秀吉は幼い三法師を擁立し、織田家の跡目争いを制しました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

勝家は北近江および長浜城を得ましたが、秀吉は河内、丹波、山城という京に近い要衝をすべて手に入れます。光秀を討ったという秀吉の最大の功績の前に、勝家はなすすべがありませんでした。

ちなみにこの会議で勝家は信長の妹・お市の方と結婚することになるのですが、この件については最近おもしろい説があります。通説には信孝がこの婚姻を勧めたとある一方で、勝家の書状には「秀吉と申し合わせ、主筋の方との結婚の承諾を得た」とあり、どうやら秀吉がこの結婚を勧めた、もしくは主導的な役割を担っていたようです。

もしもこれが本当なら、秀吉としては信長遺領分配での勝家の不満を抑える狙いがあったのかもしれません。

清洲会議で秀吉の政治力に敗れた勝家は、その劣勢を挽回するために清洲会議での結果に不満を持つ三男・信孝を抱え込み、さらに滝川一益と手を結んで秀吉に対抗します。しかし、ここでも勝家の外交センスの無さが顕わに。

勝家はふたたび自分の背後の敵・上杉を敵対のままにしてしまいます。逆に秀吉はこの状況を利用し、上杉に連携の秋波を送って味方にすることに成功。さらに秀吉は冬のあいだ身動きの取れない北陸の勝家の隙をついて信孝・一益を屈服させ、長浜城主であり勝家の養子である柴田勝豊を懐柔し、長浜城を奪取します。

じつは、この勝豊は養父である勝家と不仲であり、それを見越して秀吉は「勝豊殿に長浜城をお渡ししたい」と清洲会議で申し入れていました。勝豊は柴田家では不遇の身であり、秀吉にすぐになびいてしまいます。

長浜は、勝家にとって京に出るための重要な戦略拠点にもかかわらず簡単に秀吉に奪い取られてしまうという結果に。慌てた勝家は毛利に連携を提案し、秀吉を西から挟み撃ちにしようとしますが、毛利はそもそも本能寺の変で秀吉に味方することを決めており、この勝家の提案にのるわけもなく失敗に終わります。

何よりもこの時点で勝家の不利は誰が見ても明らかで、勝家に味方する畿内の諸将はなく、勝家配下の者にまで、すでに秀吉の手が伸びていた状態でした。

四面楚歌となる柴田勝家

追い詰められた勝家は、秀吉との直接対決で、政治的な劣勢を逆転しようと考えます。1583年3月、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の兵を率いて近江に出陣。

秀吉はこれに対し5万の大軍を率いて対抗します。両軍は睨み合ったまましばらく戦線は膠着しました。ここで一度は秀吉に対し降伏していた信孝が美濃で挙兵。

このため秀吉は、美濃にも対応しなければならなくなり、兵力を割いて秀吉自身が美濃へ転戦します。勝家はこの機を逃さず羽柴軍に攻め込み、主要な砦を瞬く間に落として戦術的優位に立ちました。

勝家は、秀吉が戻ってくるまでの一時的な勝利でよいと考えていたのですが、攻め手の大将だった盛政はこのまま羽柴方を崩そうと勝家の命を破り、最前線である賤ヶ岳に留まり続けました。そのため美濃から戻った秀吉本軍に攻められ、さらには秀吉の工作を受けていた利家が裏切って撤退したため総崩れに。

秀吉との決戦である賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家に劣勢を盛り返す余力は、もうありませんでした。4月24日、勝家はお市の方とともに居城である北ノ庄城で自刃して果てました。

家康にとっての賤ヶ岳の戦い


本能寺の変の後に家康は、光秀が秀吉に討たれたことを知ると、光秀討伐のために準備した兵をそのまま空白地帯になった甲斐に向けます。ここで家康は北条氏政と激しく争うことになるのですが(天正壬午の乱)、賤ヶ岳の戦いの前年に北条との和睦を成立させて甲斐信濃にその勢力を伸ばしている最中でした。

家康としては正直なところ、もう少し織田家の混乱が続けばよいと思っていたでしょう。それだけに柴田勝家があっさり滅んでしまったことは残念であり、意外なことでもありました。

こうして天下の趨勢が一気に秀吉に傾いたため、家康にとっては新たな危機が訪れます。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)