小田原城天守閣(写真:KiRi/PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第33回は、北条軍と徳川軍の戦いを解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

旧武田領を巡って三つ巴の戦いに

「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれると、徳川家康は窮地に追い込まれながらも、伊賀越えを成功させて、無事に三河へと帰還。「信長の仇を討つべし」と方々に書状を出したが、言葉と裏腹にその腰は重かった。

羽柴秀吉がいち早く光秀を討ち、信長の後継者として台頭しようとするなかで、家康は旧武田領である甲斐、信濃、上野にいち早く目を向けている(前回記事「『秀吉が信長の仇討つ』家康が悔しがらないワケ」参照)。

なにしろ旧武田領は織田家の領土になってから、まだ日が浅い。そのため、信長亡き今、真っ先に近隣大名による争奪戦の餌食になると、家康は踏んでいたのだろう。

案の定、旧武田領に手を伸ばしてきたのが、越後の上杉景勝と、相模の北条氏直である。家康と合わせて、三つ巴の争いが繰り広げられ、「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱が始まることとなった。

動乱の引き金の1つとなったのが、甲斐で起きた旧武田家家臣や土豪、地侍による一揆である。

甲斐国のうち河内領についてはもともと穴山梅雪の領土だったが、梅雪は落ち武者狩りで、命を落としている。空白地帯を作らぬように、家康は武田旧臣で徳川方についた岡部正綱をすぐに派遣していた。

問題は、それ以外の甲斐国の領地である。『三河物語』によると、家康は一揆を鎮圧すべく、本多忠政を派遣。統治していた織田家の家臣、河尻秀隆を助けようとした。

ところが、河尻はこの援軍を「自分たちを討とうとしているのではないか」と警戒。忠政にご馳走をふるまい、油断させながら、寝ているところを長刀で突き殺してしまう。

織田家家臣は疑心暗鬼に

状況的には、織田家の家臣が、もはや誰も信じられなくなっていたとしても無理はない。一説によると、一揆を理由に家康は河尻を甲斐から引き離そうとしていた、ともいわれている。結局、河尻は一揆勢に殺されてしまう。

事態を受けて、家康は大須賀康高(大須賀五郎左衛門尉)や岡部正綱ら武田旧臣の者たちを派遣。甲斐の一揆を鎮圧させようと働きかけている。

しかし、2人が送り込まれてからも、しばらく一揆にてこずらされることになる。そんななか、援軍として大久保忠世(大久保七郎右衛門)が「婆口(うばぐち)」、現在の甲府市右左口に到着すると、大須賀はずいぶんと心強かったらしい。『三河物語』には、大須賀のセリフとして、こう書かれている。

「なに、大久保七郎右衛門がもう着いたか。もう大船に乗ったようなものだ」

 だが、『三河物語』の作者は、大久保忠世の弟にあたる大久保彦左衛門(忠教)であり、兄の活躍を強調する描写が多い。実際はそれほどすんなりといったわけではなかった。

天正10(1582)年7月3日には、家康自身が浜松から出陣。8000の軍勢を率いて、9日に甲斐へと入っている。

甲斐と同じく、信長の死によって領主のいない空白地帯となったのが、信濃と上野である。ともに「本能寺の変」を契機に、状況は一変している。

信長から信濃国を与えられていた森長可は領地を捨てて、美濃へと敗走。滝川一益にいたっては、対北条氏の最前線として上野国を任されていたため、すぐさま脅威に晒されることとなった。一益は、攻め込んできた北条軍を迎え撃とうとするが、敗走を重ねて完全に駆逐されてしまっている。

そんな東国の混乱ぶりについては、光秀を討った羽柴秀吉も気になっていた。だが、自身は織田家の家督相続問題に追われており、それどころではない。7月7日付の家康に宛てた書状で、次のような趣旨のことを述べている。

「信濃・甲斐・上野を敵方に渡さないでほしい」

家康はその書状を受けて2日後に甲斐へと入ったことになる。そして、甲斐・信濃一帯で割拠する国衆たちを味方につけるべく、徳川・北条・上杉が動き出すことになる。

しかし、上杉景勝は南下して信濃川中島を押さえるものの、家中に内乱が生じたことで、それ以上は進めなくなった。

一方、甲斐を押さえた家康はといえば、信濃の諏訪氏を味方につけるべく、重臣の酒井忠次が調略に動いている。だが、忠次は高島城の諏訪頼忠を説得できず、調略に失敗。足止めを食らうこととなった。

北条の大軍を8000で迎え撃つ

そんななか、上野国へと進出して勢いに乗る北条氏直は、碓氷(うすい)峠を越えて、信濃国へと侵攻している。川中島で対峙する上杉軍と停戦したのち、甲斐を狙うべく、さらに南下。若神子(わかみこ)城へと入っていく。

対する家康は8000の軍勢で新府城に本陣をしき、両者はにらみ合うかたちとなる。家康は北条軍と全面対決することとなった。

このときに、北条の軍勢は2万とも、4万ともいわれている。兵力としては圧倒的に劣勢のなかで、家康は堅い守りで、北条の攻撃をしのいでいる。

戦況を打開すべく氏直の父である氏政が 、弟の氏忠に1万の兵を与えている。そして新府にいる家康の背後をつくことで、南北から挟み撃ちにしようとした。

ところが、徳川勢の抵抗がないため、北条の兵たちは油断して、あちこちで略奪を始めてしまう。

そうして分散するところをねらって、徳川勢の鳥居元忠ら2000の軍勢が出現。北条軍を追い詰めている(『三河物語』)。

「急な敵の出現におどろく北条軍をそこここに追いつめて殺すと、全軍総敗退となり、 御坂を目指して逃げて行く。左衛門助殿もかろうじて命は助かり、 御坂を目指して逃げ落ちて行った」

鳥居元忠は、家康が今川氏の人質だった頃からの側近の1人である。

このときに名立たる者を300人あまり討ち取ると、その首を新府城に送った。そして若神子城にいる北条方にもよく見えるように首を晒して、相手の戦意を喪失させている。

思えば、このときは調略に失敗した酒井忠次だったが、かつて武田勝頼を相手に繰り広げた長篠の戦いにおいては、奇襲攻撃に見事に成功。重臣らしい活躍を見せている。

そして今回、北条氏直を相手どった黒駒合戦では、忠次と同じくベテラン家臣である、鳥居元忠が勝利に貢献することとなった。

こうして日替わりで家臣団からヒーローが出るのが、徳川軍の強みである。家臣たちが生き生きと活躍できる雰囲気づくりに、家康は日頃から心を砕いていたのだろう。

41歳で5カ国を治める大名となる

結局、そのまま徳川方も北条方も、決め手を欠いたまま、約80日あまりの膠着状態が続く。

和睦を申し出たのは、北条氏直のほうだ。北条に味方していた真田昌幸が寝返って、徳川方につき、ゲリラ戦を展開したことに、ずいぶんと苦しめられたらしい。

和睦の結果、北条は上野を、家康は甲斐と信濃を領有することが認められた。また、家康の次女である督姫は、北条氏直のもとへ正室として嫁がせることになる。徳川と北条の間には婚姻・同盟関係が結ばれることとなった。

こうして家康は、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を治める大名となった。41歳のときのことである。それから8年後、このとき手に入れた国をすべて手放し、関東へと国替えとなるとは、さすがの家康も予想しなかったであろう。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)

(真山 知幸 : 著述家)