智積院の前を走る京都市電(撮影:南正時)

日本では1960年代から70年代にかけて、全国の主要都市から路面電車が次々と廃止されていった。その主な理由は「クルマの通行の邪魔」というものだった。

一方、同時期にドイツ、スイス、オーストリアなどの主要都市を訪れたとき、駅から一歩外に出るとまず目についたのが路面電車であった。チューリッヒ中央駅前の通りは車の乗り入れ禁止で、並木道を電車と人だけが通っていた。それらの都市を訪れるたび、路面電車がその都市の文化水準を表しているようで好感を持ったものである。

京都、大阪、神戸…消えた路面電車

国内でも、広島のように市内交通の主力を担い続けている街をはじめ、近年は富山や福井、そして2023年8月にLRTが開業する宇都宮など、路面電車の復権がみられる。

だが、モータリゼーションの犠牲となって姿を消した都市は数多い。主なところでは川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、北九州市、福岡市が挙げられる。京都市内には京福電鉄、大阪市内も阪堺電気軌道が路面電車として現存するが、いわゆる「市電」は両市とも全廃された。東京都電も荒川線が残るのみである。このほか、地方都市も秋田、仙台、金沢など各地に路面電車が走っていたが廃止となった。

今回は、消えてしまった路面電車の姿を振り返ってみたい。

今も市電の廃止が惜しまれる都市の1つが京都であろう。京都の路面電車は明治中期の1895年、私鉄の京都電気鉄道によって開業。これが日本最初の営業用電車だった。その後京都市営となり、路線を大きく延ばして1950年代後半から1960年代にかけて全盛期を迎え、路線は最大で76.8km、1日平均約56万4000人の利用があった。


東寺をバックに走る京都市電(撮影:南正時)

だが、1960年代以降は車社会の進展による乗客の減少が始まり、順次路線廃止の道を歩んだ。「都市近代化は地下鉄建設、路面電車は時代遅れ」といった行政側などのキャンペーンもあったという。市電廃止反対を求める署名は約27万人にも達したというものの、その声は届かず1978年に全面廃止され、83年の歴史に幕を閉じた。

市電が廃止されてからの京都市内の交通事情は、ダイヤが不確かで地元民から苦情が出るほどの混雑ぶりの市バス、代替交通とはいいがたい地下鉄など周知の通りである。古都でありながら「古いモノは時代遅れ」という矛盾に満ちた発想は、日本最古の電車発祥の地を否定するものであったと筆者は思っている。


智積院から見た京都市電(撮影:南正時)

東京に次ぐ規模を誇った大阪市電

大阪市の路面電車は1903年に開業した、日本初の公営による「市電」であった。最盛期は約118kmと東京都電に次いで日本第2位の営業路線を誇った。だが高度経済成長期に入ると道路渋滞の要因になるなどとして廃止論が強まり、大阪市議会は1966年3月に市電の全廃を決定。1969年3月31日限りで全線廃止された。当時の政令指定都市で市電全廃を決定したのは大阪が最初である。

神戸にも全盛期には35.6kmの市電路線網があった。こちらもモータリゼーションの進展などで乗客が減少、大阪の後を追うように1971年に全線が廃止された。

京阪神の三都から市電は姿を消したものの、京都、大阪、神戸市電を走っていた電車の一部は廃止後に広島電鉄に譲渡されたのは嬉しいことである。


広島電鉄に譲渡された元大阪市電の車両(撮影:南正時)

福岡県では西鉄(西日本鉄道)が北九州市と福岡市に路面電車網を展開していた。とくに北九州市内には、門司区・小倉北区・八幡東区・八幡西区の市街地を東西に貫く北九州本線(29.4km)を幹線として戸畑線、枝光線、北方線の支線を張り巡らせており、総称として北九州線と呼ばれていた。

北九州線は八幡製鉄所をはじめとする工業地帯を結ぶ足として、電車も大型の3車体連接車を投入し高速運転していたが、1970年代に入ると製鉄所の事業縮小とモータリゼーションにより乗客が減少、2000年11月に全廃された。ちなみに、路面電車タイプの車両で運行している筑豊電気鉄道の黒崎駅前―熊西間は、かつて北九州線だった区間である。


利用者の多かった西鉄北九州線は大型の連接車を運行していた(撮影:南正時)

福岡市内線は貫通線、循環線など6つの路線があり、一部は宮地岳線(現在の貝塚線)に乗り入れていた。こちらの全廃は北九州線より早く、最後まで残った循環線も1979年2月に廃止された。


西鉄福岡市内線は1979年2月までに全廃された(撮影:南正時)

日本初のワンマン電車は名古屋市電だった

筆者にとって思い出深い路面電車が名古屋市電である。名古屋は筆者が青春時代を過ごしたところであり、1964年の東京オリンピックの際は栄交差点で市電と聖火リレーを出迎えたことなどさまざまな記憶がある。


1964年の栄交差点。東京五輪のマークを掲げた百貨店の前を市電が行き交う(撮影:南正時)


名古屋駅前の渋滞に巻き込まれる名古屋市電(撮影:南正時)

名古屋の路面電車は、1898年に名古屋電気鉄道によって京都に次ぐ日本で2番目の電気鉄道として開業し、1922年に市の運営となった。その後は着々と路線を広げ、新たな施策も次々と採り入れた。「急行」の運転や、1954年には下之一色線で日本の路面電車として最初のワンマン運転を実施したことは特筆される。筆者は18歳の時、このワンマン電車を撮影に尾頭橋へ出向いたことを記憶している。名古屋市電は1959年3月の東山公園―星ヶ丘間開業によって総延長106.3kmに達したが、1960年代になると部分廃止が相次ぎ、1974年3月には全線の営業運転を終えた。

岐阜市内には名鉄(名古屋鉄道)の路面電車があった。岐阜市内線は、岐阜駅前から長良北町、忠節まで7.6kmを結び、忠節からは郊外へ延びる鉄道線、揖斐線へ直通運転していた。岐阜市は車社会の進展、促進などの理由から路面電車に対して否定的で、名鉄が廃止を表明した後に市民らによる存続を求める声もあったものの、同じく市内を走る軌道線の美濃町線などとともに2005年4月に廃止された。

東北地方では、かつて仙台と秋田に市電があった。今は地下鉄が走る仙台は、1926年に市電が開業し、中心部の環状路線と4方向に延びる支線からなる路線網があった。しかし、この都市も車社会を優先して1966年には軌道敷への自動車の進入を認めるようになり、定時性の低下から乗車人員は減少の一途をたどった。1976年3月末限りで全線が廃止されてしまったが、一部車両は保存され、地下鉄富沢車両基地内の仙台市電保存館で往年の姿を見ることができる。


1976年に全廃された仙台市電(撮影:南正時)


交差点を走る仙台市電(撮影:南正時)

秋田市電は明治時代に開業した馬車鉄道が始まりで、のちに電車に切り替えて秋田電気軌道と改称、1941年に市営化されて秋田市電となった。路線は全線で約8kmと短かったが、戦後の最盛期にはラッシュ時最大6両の続行運転を行ったという。廃止は早く、クルマ社会の進展により1966年3月31日に正式廃止となった。

路面電車は「文化水準」の証?

北陸は近年、富山のライトレールや福井鉄道の低床車両導入など、路面電車の動きが活発な地域であるが、北陸3県の県庁所在地の中で最大規模の金沢市は路面電車がない。かつては北陸鉄道金沢市内線が存在したが、モータリゼーションの進展などにより1967年2月に全線が廃止されてしまった。北陸新幹線の効果により金沢には多くの観光客が訪れているが、もし路面電車が残っていれば、と筆者はドイツ、スイスの路面電車のことを金沢市とオーバーラップさせるのである。

さて、消え去った各地の路面電車を振り返ってきたが、最後に触れたいのは東京都電である。都電は最盛期には営業キロ約213km・40の運転系統を擁し、1日平均約175万人が利用する日本最大の路面電車であった。クルマ社会の到来と共に次々と廃止され、現在はほとんどが専用軌道の荒川線(早稲田―三ノ輪橋・12.2km)が残るだけになったが、レトロ車両の投入や下町の雰囲気が感じられる沿線の人気などで利用者は多く、観光資源ともなっている。


日本橋を走る都電(撮影:南正時)


車体更新・ワンマン化される前の都電荒川線7000形(撮影:南正時)

先述の京都市電とともに、今も残っていればと筆者が思うのは横浜市電である。港町を闊歩する路面電車、これこそ横浜の文化を表す市内交通ではなかろうか。観光活性化にも大きく寄与したことだろう。「路面電車はその都市の文化水準、都市環境の高さを物語る」が筆者の持論である。


「鉄道最前線」の記事はツイッターでも配信中!最新情報から最近の話題に関連した記事まで紹介します。フォローはこちらから

(南 正時 : 鉄道写真家)