真田昌幸の甲冑(写真: 清十郎/PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は羽柴秀吉が台頭する中で生じた、徳川家康と真田昌幸の軋轢と、両軍の戦いを解説する。

天正12年(1584)3月、家康は織田信雄(信長次男)と結び、秀吉と戦をする。小牧・長久手の戦いである(詳細は、「小牧長久手の戦い」家康が秀吉と対立深めた真意を参照)。当初は秀吉軍が優勢であったが、時に家康軍も奮闘し、秀吉の別働隊に大打撃を与えた。家康の言葉によると「1万余り討ち捕らえた」という。

家康は戦勝を過大宣伝?

家康は、池田恒興・森長可らを討ち取った長久手での戦勝を過大に宣伝したとも見られ、畿内周辺では秀吉方の戦死者は実は3000人ほどではないかとも噂されていたようだ。

ロシアによるウクライナ侵攻でも、両軍のネット・SNSを駆使した情報戦が展開されているが、戦国の世にもそうしたことはあったのである。

信雄・家康方は局地戦で勝利することはあったが、最終的には秀吉方に押されていく。同年11月中旬には、信雄は和議に応じた。人質(叔父の織田長益ほか)を出し、南伊勢と伊賀国を割譲することになった。家康も次男の於義伊(後の結城秀康)や重臣・石川数正の子どもを秀吉へ差し出している。徳川家中では於義伊を秀吉の養子として差し出したものと認識する者もあったが、やはり人質には違いなかった。

小牧・長久手の戦い終結後、秀吉は次々に敵対勢力を追い詰めていく。和泉国・紀伊国の一揆を鎮圧し、四国の長宗我部元親も攻めて降伏させる(1585年8月)。北国の佐々成政も攻められ、8月中に降伏した。信雄と家康が秀吉との対決に際して共闘を呼びかけた勢力が、次々に秀吉の軍門に下っていったのだ。

それに伴い、秀吉の官位も上昇した。天正12年(1584)11月には従三位権大納言、翌年3月には正二位内大臣、7月には従一位関白となったのである。天正14年(1586)には、朝廷から豊臣の姓を賜ることになる。

秀吉がこの世の春を迎えようとする一方で、家康は1つの困難に直面していた。それは、小田原北条氏との領土問題にも関わることだった。

本能寺の変後の天正壬午の乱(1582年)において、徳川家と北条家は甲斐国などで戦をする。

その年の11月には両家は和睦。家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぎ、甲斐国・信濃国は徳川領、上野国は北条領とする国分が行われた。そして、北条氏が領していた甲斐国都留郡と信濃国佐久郡は徳川方に引き渡すこと、徳川方は上野国沼田領を北条方に引き渡すことも決められていた。

真田方は割譲を拒否

ところが、沼田領は信州上田城の真田昌幸が支配していたことから一悶着起こる。当時、昌幸は家康の傘下にあったので、沼田領の割譲を要求されたのだが、昌幸はこれを拒否したのだ。真田側にとって、拒否は当然のことであっただろう。

だが、徳川にとっては、沼田領の北条氏への割譲が実現できなければ、北条氏との関係にヒビが入ることにもなりかねない。天正13年(1585)、真田昌幸は徳川から離反。代わって、越後の上杉景勝に接近し、同年7月には軍事的保護を得る。

真田の行動に怒った徳川は、同年閏8月、真田が籠る上田城を攻撃した。これが第1次上田合戦である。『三河物語』によると、徳川方は鳥居元忠・平岩親吉・大久保忠世・諏訪頼忠・柴田康忠・保科正直らを上田に差し向けた。

城に攻め寄せた徳川軍は、二の丸まで乱入し放火しようとしたが、柴田康忠が「放火してしまえば、城内の敵方が出てこれまい。火を放つまでもなかろう」と渋ったという。

柴田は城内の敵とぶつかり、戦功を立てたかったのだろう。結局、火攻めにしなかったこともあり、城内からは敵が次々に繰り出してくる。退却する徳川勢は敵に追撃され、痛手を受ける。

『三河物語』によると「諸部隊の人々が、四・五町逃げる間に、三百余人が殺された」という。

大久保忠世は神川(上田市)まで退却したものの、鳥居元忠の配下の兵士が隊列を乱し退くのを見て、たった1騎で向かった。それに従ったのが『三河物語』の著者・大久保彦左衛門忠教である。

大久保忠教は「銀の揚羽蝶の羽の九尺もある指物」を掲げ、敵に向かっていく。黒い具足を着用し、槍で真田方の兵士を殺していったのだ。そのとき、「倒したものの首をとることはなかった」と書かれているのは、手柄よりも敵を倒すことを優先したからだろう。

乱戦のなか、17歳頃とされる真田方の少年が忠教のところへやって来た。その少年は、忠教らを敵と認識していないようだ。

忠教の隣にいた天野小八郎が少年を槍で突こうとしたがそれを止めたのが、忠教だった。「子どもだ。可哀想だから、許してやれ」と制止したのである。混戦のなかでは、誰が敵か、誰が味方か、見分けがつかないことが多々あったようだ。

敵か味方かわからない、混乱が生じる

真田の配下の日置五右衛門尉も、敵と知らずに馬に乗って、徳川兵の間を通っていった。

それをめざとく見つけた忠教は「あれは、敵だ。突き落とせ」と叫ぶが「いや、敵ではない」という声も聞こえてきた。それでも忠教は「いや敵(日置五右衛門尉)だ。突き落とせ」と主張したので、最初は足立善一郎という者が走り寄り、日置を槍で突いた。その槍は日置の鞍に当たる。

日置の供の者も反撃してきて、足立善一郎も槍で突かれた。日置は忠教の目の前にやって来る。忠教はチャンスと思ったのだろう、日置の「胴の真ん中」を突こうとした。しかし、忠教の槍は、日置の供の者の槍によって、絡めとられ、跳ね除けられてしまう。

諦めずに、忠教はもう1度、日置を突こうとするが、態勢を整えている間に、日置は通りすぎてしまった。敵に向かって進もうとする忠教だが、退いてくる味方もいて、彼らは「この先は行ってはいけない。見知っている者(味方)は誰もいない」という有様であった。徳川方の劣勢は明らかだったのだ。

味方(徳川方)の中でも仲間割れに類することが起きていたようだ。

大久保忠世は、平岩親吉の部隊に乗り込み「あなたの部隊を、川を越えさせて、我らの部隊の後に付けてください。敵方がまとまらないうちに、我らが斬ってかかろうと思う」と提案。だが、平岩は忠世の提案をとんでもないと感じたのか、返事もしない。

業を煮やした忠世がふたたび平岩に呼びかけるも、平岩は頷かなかった。忠世は「日頃からそんな考えの奴だから、役に立たぬのだ。浅ましい」と捨て台詞を残して、平岩のもとを去る。

忠世は、今度は鳥居元忠のもとに向かい「平岩に援軍を要請したが、震えるばかりで物も言わぬ。そこで、元忠の部隊を我が軍の後から前進させてほしい」と主張するが、なんと鳥居も返事しなかった。

さすがの忠世も呆れて「下戸に酒を強いるようだ。役に立たぬ」と言うと、保科正直のもとに駆け込む。しかし、保科はこれまでの者以上に体を震わせ、返事もしない。そんな忠世が自分の部隊に戻るときに出会ったのが、大久保忠教だった。

出撃する気力も失う徳川軍

忠教は忠世に「敵が川を越せば、味方は敗れる。鉄砲隊を河岸にお出しなされ」と勧めるも、今度は忠世が無言となり、ただ手を振るのみだった。忠教が「手を振っていても、仕方がない。早く出撃を」と粘ると、忠世は「玉薬がない」と呟く。「玉薬がないということはないでしょう。早く出撃を」と忠教はさらに主張した。

すると忠世は「若造が何を言うか。我が方は、すべての者が腰が抜けて、出撃する者は誰もいない。腰が抜けたといえば、言った者が他人に弱みを見せたことになろう。だから、玉薬がないと言ったのだ」と本音を吐き出した。忠教はその言葉を聞いても、河岸に向かったようだが、敵は川を越えずに退いたので、忠教も引き上げることになった。

『三河物語』に記されたこれら逸話が、どこまで真実を伝えるものかはわからない。だが本当であるならば、戦を重ねた武将であっても、敗戦となれば、身体が震え、思考が停止するということだ。戦のリアルがわかり、興味深い。上田城の戦いで、徳川方は1300人余りが討たれたという。徳川は真田に負けたのだった。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)