いわき市中央卸売市場の競り。「常磐もの」の主役・ヒラメが並ぶ(筆者撮影)

国際原子力機関(IAEA)は7月4日、東京電力ホールディングスと日本政府が進める福島第一原子力発電所の「処理水」の海洋放出計画について、「国際的な安全基準に合致する」と評価する包括的報告書を公表した。

「処理水」とは、原発事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)の冷却作業で生じた放射能汚染水を、多核種除去設備(ALPS)で処理したものを指す。放射性物質のトリチウムが除去できずに残され、また現在総量のうち7割が処理途上であることから本稿ではかぎ括弧付きで「処理水」と表記する。

計画では「処理水」は大量の海水によって希釈し、トリチウムの濃度を国の基準の40分の1未満にしたうえで、沖合約1キロの海底から放出する。東電と政府は放出開始に向けて動き出したが、反対を表明していた中国は輸入水産物の検査対象を日本全体に拡大。韓国では政権がIAEAの報告書を評価する一方、野党は強い反対姿勢を崩さない。そして日本国内各地で開催されている意見交換会でも、強い反対や不安の声が上がっている。

他方、この海洋放出に一貫して反対してきた福島県漁業協同組合連合会(福島県漁連)はメディア対応の窓口を一本化し、厳しい緘口令を敷いている。なぜだろうか。

聞こえてこない漁業者関係者の「心の内」を知るために7月中旬、福島県いわき市を訪ねた。

12年かかった漁業復活を前に

いわき市漁業協同組合専務理事の新妻隆さん(64歳)には、事故直後、海に流入した放射性物質の行方を追うテレビ番組の取材でお世話になった。まだ試験操業が始まる前で、固く操業自粛を守る漁業者の心情を尋ねた時、「放っておいたら(禁漁せずに被害を広げた)水俣と同じになってしまうから」と返した言葉が印象に残っていた。科学的な適切性は別にして、過去に学ぶ姿勢に好感を持った。

2013年に始めた試験操業では、県の放射能検査に頼らず、水揚げがある日は自主検査を実施。県の2分の1の自主基準値(放射性セシウムの場合で1キログラム当たり50ベクレル)を設定、厳格に守り抜いてきた。その試験操業も2年前に終わり、いよいよ本格操業に向かう時節を迎えていた。

「実績を積んで消費者の信頼を得られるようになって、最近は福島だからと毛嫌いされることも少なくなりました。原発の爆発の後遺症もだいぶ薄れてきた印象ですね」。新妻さんは穏やかに答えた。

ただし原発の廃炉については不安が絶えないという。

「1号機や3号機の下なんてどうなっているかわからないでしょ、デブリが落っこちて。あれを引き揚げて安全に処理するのに30年、40年かかる。また何かが起こるって不安はあります」と語り、理由として世界的にも処理の実績がなく、「手探り状態」であることを挙げた。


新妻隆・いわき市漁協専務理事(撮影・筆者)

次に「処理水」の海洋放出について聞くと、「私たちは海洋放出には絶対反対。陸上で管理してほしい。廃炉に時間がかかればその間に技術も確立して、いい方法も出てくる。放出って今やるべきことなのでしょうか」とストレートに答えた。

東電や政府から安全性について何度も説明を受け、「科学的には理解している」が、だからといって「了解した」とは言えないという。

「風評被害がどうなるかわからないですからね。情報を正しく理解して物事を判断する人って何人いますか。人の話を聞いて、ああそうなんだ、じゃあそうしようという人が大部分でしょう」

「わめかず、静かに反対」する理由

他方で新妻さんは、「風評を気にしていたら前に進めない」ともいう。

「風評は漁業者にはどうすることもできない。われわれはしっかり検査をして、おいしい魚介類を消費者に提供する。風評被害の払拭は国や東電が考えてやっていくことです」

いわき市漁協では9月から漁獲量を上げていくことを決めたという。今は震災前の2割程度だが3年後には5割近くに引き上げるのが目標だ。漁業者は「わめかず、デモもせず」「静かに反対」を続けながら漁業の復活を目指すという。

一方、国は風評被害による損害を賠償するための基金として2021年度補正予算で300億円、また2022年度には全国の漁業者を支援するための基金に500億円を計上している。それでも福島県漁連は「処理水」の海洋放出に反対する姿勢を崩していない。

2015年に東電の社長と交わした「関係者の理解なくして放出しない」との約束にこだわるからだ。

そこには東電や国の対応への根本的な不信感もある。

「事故を起こしたのはしょうがないけど、事故のつけまで福島に負わせようとするのは腹が立ちますね。『一番お金がかからないのが水で希釈して海に流す方法』と言うのを聞くと、安易な方法を選んだのだなあと思います」

その一方で漁業者の複雑な心情も垣間見えた。「処理水」をめぐって漁業者はこれまで数えきれないほどの意見交換会をしてきたが、そこでは意外な発言も飛び出したという。

「『国、東電で決めたんだから、奴らは絶対にやるぞ』『漁業者の意見を反映して何かをするなんて話じゃないんだ』って意見も出されました。つまり『辺野古みたいになる』っていうこと、沖縄の。『反対しても意味はない。こちらの考えを言うだけで終わりでしょ』と言う漁業者もいました。冷めていますからね、漁業者って」

インタビューの最後に、新妻さんはこう口にした。

「私は、スムーズに廃炉に移行するために福島県民には我慢してもらう、という声が強くならなければいいな、と思っています。『お前らいつまで駄々こねてんだ。廃炉に向けて日本政府がやっていくんだから、我慢しろ』、そんな社会的風潮が出てこなければいいなと思っているんです。なりかねないですから、日本では。そうなるとわれわれは被害者だけど『反逆者』にされるかもしれない」

新妻さんとの対話を通して、福島の漁業者の心の奥底に、原発事故後に日本の社会から受けた強烈な存在否定(バッシング)や差別でできた心的外傷(トラウマ)があり、それが国策に反対する彼らの行動を用心深く、抑制的にしているのではないかと感じた。彼らを苦しめ、孤立させてきたのは国や東電だけではないのだ。

「福島の消費者は動じない」仲買人・小売業者の強気

漁業者だけでなく広く水産関連業者の思いにも触れようと、いわき市中央卸売市場の朝の競りを訪ねた。

7、8月は沿岸の底曳網漁船の操業が休業期のため、「常磐もの」と呼ばれる地元で獲れた魚は通常期の1割に満たなかった。それでも刺し網や釣りで獲ったヒラメや鯛、ホウボウやイシモチ、ホッキ貝、ワタリガニなどが並ぶ区画に朝6時から仲買人たちが集まり、熱気あふれる競りの風景が見られた。

この市場の競りを仕切る仲買会社「いわき中水」の須藤智明営業本部長に話を聞いた。

須藤さんは震災後しばらく地元産の魚がなく寂しかったが、その後、地元の消費者が試験操業で獲れた「常磐もの」を食べるようになって、魚の値段も回復してきたと言う。

「地元に限れば風評被害というのはありません。外では厳しいかもしれませんが、地元では処理水放出の影響はゼロだと思います。消費者は国に安全と言われれば信じるし、われわれが売れば買うだろうと思います」

意外にも「処理水」放出後については強気な見通しだった。

同様の声は小売業者からも聞いた。

いわき市四倉に本店のある大川魚店は明治43年創業の老舗。鮮魚の小売りと加工品の販売をしてきた。全国向けに通信販売もしていたが、2011年の東日本大震災では店が津波で浸水し、その後の原発事故の影響でしばらく業績悪化に苦しんだ。


大川魚店4代目社長・大川勝正さん(撮影・筆者)

しかし5年後の2016年に同じいわき市内の泉町に姉妹店を出店。2018年には郡山市内の百貨店に、そして2023年にはJ R常磐線いわき駅の駅ビル(エスパル)に新しい店を構えた。

売り上げは震災前に比べ4割増えたという。エスパルにある食堂を併設した店で「処理水」の海洋放出について4代目の大川勝正さん(48歳)に聞いた。

「心配する人もいますが、大した問題にはならないと思います。震災後はほんとにひどかった。いわれのない誹謗中傷とかがありました。あれを10だとすると、今回は何かあっても1か2だろうと思います」

理由は震災時にはみな原発や放射能について無知だったが、この12年で勉強して知識を身につけたからだという。大川さん自らも東電から何度か説明を受けて、「処理水」の放出自体には問題がないと考えているという。しかし懸念もある。

「東電は説明も仕組みも完璧ですが、運営になると時々ポカをします。福島第一原発では何千もの人が働いているんで、ちゃんとミスなくやれるのか。しかも何十年もの間続けて。私らは何回もポカされて、そのたびにズッコケてきた。タンクを作った頃は周りに水を漏らしちゃって、そんな報道があるたびに店が静かになった。だから不安がないわけじゃありません」

地元の消費者に支えられて売り上げ好調な中、大川社長は「処理水」の海洋放出には楽観的だ。しかし、一度ミスが生じた時に起こる事態の怖さを忘れてはいなかった。

それは営業を再開した直後にツイッターで外国産の水産加工品などを宣伝すると、「汚染された魚を売るのか」と書き込まれ、出張販売先では面と向かって「福島の魚屋お断り」と言われた経験があるからだ。

漁業者と共通するトラウマを感じる。「処理水」海洋放出の影響を受ける当事者たちは前向きの姿勢をとるが、心に原発事故で負った傷を抱えて走っているのだ。

海洋放出開始が迫る中で

今回、取材した漁業・水産関係者は「処理水」海洋放出の科学的、技術的安全性については東電や政府の説明を信用していた。他方で、放射性核種トリチウムの生態系の中での長期的影響や、汚染水の処理技術と運用の信頼性に疑問を持ち、注意深く見守る市民もいる。

同じいわき市にある「いわき放射能市民測定室たらちね」。2013年に設立された、市民からの寄付金で賄われるNPO法人で、福島県内外の食物に含まれる放射性物質の測定や、海の環境放射能の測定などを行ってきた。

2022年の秋、緊急募金をして2500万円もかけてトリチウムを測定できる測定器を購入。専門家と連携して、今後、福島の沿岸部や、東電が作った「処理水」放出口近くなどで海水や魚介類を採取、データを集積して海洋放出の影響を監視し続けるという。

事務局長の木村亜衣さん(44歳)は「万が一のことがあっても、準備は万端」と言う。


早朝からサーファーが集う福島の海(南相馬市北泉海水浴場 撮影・筆者)

「処理水」の問題はこれまで福島県内、それも漁業関係者の問題として矮小化されてきた。

しかし福島の海は日本全国に、中国や韓国をはじめ世界の国々につながっている。「処理水」放出に異議を唱える海洋環境のステークホルダーたちも多い。

7月のIAEAの報告書は「日本政府の決定を支持するものではない」と慎重な但し書きをつけている。国民や近隣国との合意形成など、政府による「方針決定」のプロセスは検証されていないからだ。

国はこの夏にも放出開始を決定する構えだ。だが、外交問題に発展し、国内の合意も十分な見通しが立たない中、「処理水」海洋放出という国策の行方は不透明なままだ。

(七沢 潔 : ジャーナリスト 中央大学法学部客員教授)