奥野一成のマネー&スポーツ講座(37)〜転職の時代

 昨年度から始まった高校生向けの投資教育。集英高校の家庭科の授業で生徒たちに投資について教えている奥野一成先生は、野球部の顧問も務めている。お金や人生設計について学ぶ投資教育だが、3年生の野球部女子マネージャー・佐々木由紀と新入部員の野球小僧・鈴木一郎は授業とは関係なく、奥野先生から、より深く経済に関する話を聞くのが習慣のようになっていた。

 前回のテーマは就職。大学生になればあっという間に就職活動が始まる。「売り手市場」と言われるなか、OB・OG訪問やリクルーターとの面談、面接など、会社員である大人たちと接するようになった時、何を聞けばいいのか、何を話せばいいのかという話になった。

鈴木「それにしてもなんか『売り手市場』って、いい響きですよね」
由紀「これから就職する私たちに有利ってことだからね。でも実際に私が就職をするとしたら、どういう企業なんだろう、何を希望するんだろうって、思わない?」
鈴木「そういえば奥野先生に、『有名企業だからいいとは限らない』と言われてしまったしね。具体的に言えば給料がいい会社とか、そんなに忙しくなくて休みがちゃんととれる会社とか......」
由紀「私はやっぱり、自分が成長できる会社で働きたいと思うな」

 それは前々回の「就職人気企業ランキングを投資教育を学ぶ高校野球部生と考える。『企業に大事なのは成長するかどうか』」で、まさに奥野先生が勧めていた「就職先選び」だった。

由紀「その際、奥野先生が『仕事を通じて自分自身も成長できると、いつでも転職することもできる』とおっしゃっていたんだけど、転職って、何がいいのしら」

「実際は、僕も転職をしたことはないんだけどね......」と、奥野先生が会話に加わってきた。

奥野「でも、転職というのは大事な選択肢のひとつだと思うし、実は自分自身、それを意識してやってきたことがあるんだ」

鈴木「え、それってどんなことですか?」

【「スキル=自分の付加価値」ではない】

奥野「まだ会社に入ってもいない君たちに、いきなりこんなことを言うのもなんだけど、いつでも辞められるオプションを持つようにしておくことは大切だと思う。会社から言われるままに働かなくてもよいという心の自由度と言ってもいいかもしれないね。この自由度というものはもしかしたら『お金』とか『仕事』そのものよりよっぽど重要かもしれないよ。

 いつでも辞められるオプションを持つには何をすればいいのか。それは自分の付加価値を高めることだと、先生は思っている。付加価値を高めるというと、すぐに資格取得と結びつけて考える人も多いんだけど、そうじゃない。もちろん、付加価値を高めるために取得しなければならない資格もあるけれども、それ以上に大事なのは、他者のために自分は何ができるのか、をしっかり確立するとともに、実際に『何をしてきたのか』ということなんだ。

『仕事の実績』という言葉に置き換えてもいいかもしれないね。それはたとえば、会社員としてこれこれこういう仕事で実績を残してきましたと、大勢の前でしっかり言えるようにすることなんだけど、ここで注意しなければならないのは、スキルを向上させればただちに自分の付加価値が高まると勘違いしてはいけないということなんだ。

 スキルとは、訓練によって習得される技能や技術のことで、ビジネスの世界で言うと、専門知識、ビジネスマナーや、コミュニケーション能力、相手のニーズを的確に読み取り、説得力のある話をするプレゼンテーション能力、問題や課題を発見してその解決方法を論理的に考えて実行する問題解決能力あたりが主なところかな。

 こうしたスキルを身につけることは、もちろん大事なことなんだけど、何の実績も出していなかったら、意味ないよね。社会人になった時、何よりも問われるのは、どのような実績を持っているのか、ということなんだ。

 そして、『私はこういうことを成し遂げてきました』と言えるようになるには、15年くらいの時間は必要かもしれないね」

鈴木「ということは、若いうちは転職なんてダメということですか?」
由紀「私、転職を重ねていろいろな仕事を経験したほうが、自分の成長にもつながるような気がするんですけど」

【若くして転職できる理由は「若いから」】

奥野「これからの日本の労働市場が売り手市場になることを考えると、ますます転職しやすい環境になるのは間違いないだろうね。おそらく、社会人になって10年目くらいまでは、転職することは比較的容易になると思うよ。

 ただ、若いうちに転職できるのは、自分に知識やスキルがあるからなんて、ゆめゆめ思ってはいけない。それは勘違いで、会社が社会人になって10年目以内の人を積極的に中途採用するのは、その人が持っている知識・スキルに期待しているからではなく、若さゆえの将来性に期待しているからなんだよ。ビジネスという戦場においては、単なる知識やスキルというものはすぐに陳腐化してしまうので、そういった知識や資格そのものが長く通用する世界ではないと認識するべきだ。だからこそ知識そのものよりも、『学び続ける意欲』や好奇心が大事なんだ。そういう姿勢で仕事に取り組む人のみが『実績』を残すことができる。

 そういう大事なことに気づかずに40代を超えると、転職は本当に大変で、なかなか転職できない。なぜなら若さというオプションを売ることで転職できた若い頃と違って、実績がない人を採用してくれる企業なんてないからだ。自社で実績を出せないビジネスパーソンはチャンスすらだんだん与えられなくなり、引き続き実績が出せない状態が続き、いつのまにか、その会社を辞めることが不可能になる。実績がないからだ。年齢を重ねると若さというオプションの価値が減耗していくので、本物の付加価値創出能力とそれを裏づける実績が必要なんだ。

 ただ、仕事の実績って一朝一夕にできるものじゃないよね。勉強をしながら実務をこなし、仕事に対する知見、経験を高めていくなかで、徐々に形作られていくものなんだ。

 その実績を手にするためには、自分に与えられた仕事に対して真剣に向かい合うことが大切だし、2、3年くらいは取り組まないと形にならない。それを、転職しやすいからといって、『この仕事は自分に合っていない』とか『もっと面白い仕事があるはずだ』という理由でジョブホップを繰り返していると、肝心の実績が身につかない。つまり40代になってから困ることになるんだ。

 本音を言えば、35歳になるまでの間は、今、自分がいる組織の中で実績を作ることに専念するくらいのほうがいいかもしれないね」

鈴木「若いうちは転職せずに、35歳以降から考えたほうがいいということですか」
由紀「でも、35歳以降って結婚して子供がいたりもするから、私だったら転職で不安定な生活になるようなリスクを抱えるのは嫌かも」

【自分の3年間をまとめる】

奥野「日本はこれまで終身雇用制度と年功序列賃金があったから、転職をせずに長く勤め続けたほうが、安定的にお給料も増えていくというメリットがあったけど、これからはそういう時代じゃないからね。

 厳しい話になるけど、実績のある優秀な人は、どの会社も欲しがるから、どんどん高いお給料でオファーされる。けれども、大した実績もないような、ごく普通の会社員には、どこからもお声がかからず、結果的に安い賃金のまま、同じ会社で働き続けるしかない。いや、働けるならまだマシかもしれないね。実績を出せないような人は、会社から解雇されてしまうかもしれない。

 まもなく日本もそういう時代になると思うんだけど、だからこそ、本当の意味で自分の付加価値を高めておくことが、一番の保険になるはずなんだ。いつでも会社を辞められるような状態にしておけば、嫌な上司にいじめられても精神を病んだりせずに済むしね。

 これは技術的な話になるけど、僕がやっているのはこういうことなんだ。3年に1度くらいの頻度で、自分のレジュメ(履歴書)を作っておく。この3年間で自分に何が身についたのか、どのような実績ができたのか、自分の売りは何なのかをまとめておくこと。実績をあげるために何を身につけなければならないのか、それ以上に何が社会・企業が抱えている課題なのか、を自己認識するいい機会になると思うよ。

 もっと言うと、それを日本語だけでなく、英語でも書いておくといいよ。そのためにも英語をマスターしよう。海外企業も含めて、いつでも転職できるようにしておけば、選択肢はもっと広がるはずだからね」

奥野一成(おくの・かずしげ)
農林中金バリューインベストメンツ株式会社(NVIC) 常務取締役兼最高投資責任者(CIO)。京都大学法学部卒、ロンドンビジネススクール・ファイナンス学修士(Master in Finance)修了。1992年日本長期信用銀行入行。長銀証券、UBS証券を経て2003年に農林中央金庫入庫。2014年から現職。バフェットの投資哲学に通ずる「長期厳選投資」を実践する日本では稀有なパイオニア。その投資哲学で高い運用実績を上げ続け、機関投資家向けファンドの運用総額は4000億を突破。更に多くの日本人を豊かにするために、機関投資家向けの巨大ファンドを「おおぶね」として個人にも開放している。著書に『教養としての投資』『先生、お金持ちになるにはどうしたらいいですか?』『投資家の思考法』など。『マンガでわかるお金を増やす思考法』が発売中。