川崎憲次郎が語る「野村克也と落合博満」(後編)

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野村監督のひと言でシュート習得

 私は1998年に最多勝のタイトルを獲得し、投手として最高の栄誉である沢村賞を受賞することができました。それが達成できたのは、シュートという武器を手に入れたからです。

 捕手出身の野村さんには「投球の時にどういう考え方をしているんだ? 内角のストレートにストライクは入らないんだ」と、よく指摘されていました。なぜなら、私は内角に投げるとボールが甘くなって、ホームランを打たれることが多かったのです。

 プロ2年目の1990年には12勝を挙げましたが、被本塁打26本はリーグワーストで、13敗も最多敗戦でした。

 そのことを知っていたのでしょう。野村さんが監督に就任した時、こう言われました。

「川崎、シュートを覚えてみないか。オレが打てなかったんだから、投げてみろよ。じつは、ホームラン打者がよだれを垂らして、内角高めのストレートを待っているのを知らないだろう。そこから10センチ、内に入れるだけでどれだけ打ちづらくなるか、わかるか」

 ただ当時の私は若く、球速もあったし、ストレートで三振をとることに生き甲斐を感じていました。だからシュートという球種に対して見向きもしませんでした。ところが、ある時期から完璧に投げたと思ったストレートを合わせられ、簡単に打ちとれなくなったのです。

 それで1996年に0勝に終わった時、「このままではやばい」と思い、初めてシュートを練習しました。

 私のなかでシュートと言って思い浮かべるのは西本聖さん。右打者の内角に食い込んでいく軌道で、キレも曲がり幅もすごかった。ただ私には「このシュートは投げられない」と思い、できるだけ「曲げないシュート」にしたのです。曲がり幅は10センチあるかないか。それでも完全にマスターするには1年以上かかりました。

野村ミーティングは講演会

 1998年のオープン戦でシュートを投げたら、相手打者がこぞってどん詰まりする。「なんで?」と自分でも半信半疑でした。ただ面白いように打ちとれるから、ピッチングがラクになりました。

 昔と比べると三振の数は減りましたが、内野ゴロは劇的に増えました。その頃には、投手としての楽しみは「三振」から「内野ゴロ」にシフトチェンジしていました。結果、四球も減り、防御率も向上して、最多勝につながったわけです。

 あと野村監督と言えばミーティングが有名ですが、春のキャンプの時は夜7時から1時間半、みっちりやりました。ミーティングというよりも"講演会"みたいな感じで、最初の2日間くらいは「人として」というテーマでした。要するに、野球を通しての人材育成なんです。

 よく言っていたのが、「野村克也−野球=0だが、オレみたいになるな。時間を守れ、あいさつを忘れるな。プロ野球人生を終えてからのほうが長いんだ」という言葉でした。

 プロ野球選手である前に、ひとりの社会人であることを忘れるなということでした。プロ野球という特殊な世界に身を寄せていると、当たり前のことが当たり前ではなくなることがある。それで勘違いする人もいると思うのですが、野村さんはそういう人間にはなるなと、口酸っぱく言っていました。


落合監督就任1年目の2004年、開幕投手に指名された川崎憲次郎氏(写真左)

開幕投手に指名された理由

 落合さんはキャンプでのミーティングはなく、その代わりに練習に時間を費やしていた感じです。ただ、2004年のキャンプイン前日のミーティング、ナインを前に中日の監督として最初に語った言葉は今も忘れません。

「オレの仕事は選手のクビを切ることだ!」

 就任1年目、トレード補強もせず、前年と同じ戦力を鍛えて選手層の底上げをしようとしました。そんな落合監督からこうした言葉が飛び出し、我々選手たちは身が引き締まる思いでした。

 これは落合監督と私がお互いユニフォームを脱いでから聞いた話なのですが、2004年限りで私を引退させるのは最初から決まっていたそうなんです。しかし、どういう形でユニフォームを脱がせるのがいいのか。思えば2004年の1月2日、私は就任したばかりの落合監督から電話を受けました。

「今年の開幕投手は川崎、おまえでいくから」

 開幕戦を任せることによって、私のモチベーションを上げることが最大の目的だったということです。中日に移籍してからの私は、ケガばかりで戦力になれず、焦りもあったしモチベーションも下がっていました。その言葉をもらって、「もう一度やってやろう」と思ったのは言うまでもありません。

 ただこの年も結局3試合にしか投げられず、中日が優勝を決めた翌日(10月2日)、落合監督に呼ばれ、こう告げられました。

「来年、中日はおまえと契約しない。辞めるか、他球団で続けるかだ。引退するなら、明日投げろ」

 引退を決めた私は家族をナゴヤドームに呼び、10月3日、古巣・ヤクルト相手に引退試合をさせていただきました。古田敦也さん、宮本慎也、岩村明憲を三振に打ちとり、現役に別れを告げました。試合後、両軍ナインに胴上げをしてもらい、最高の野球人生を送ることができました。驚いたのは、クールな印象の落合監督が涙を流してくれたこと。落合監督の発する言葉はぶっきらぼうに聞こえますが、そこに至るまでの経緯があって、とても気遣いのこもった温かいものなんです。

 一見、対照的な野村さんと落合さんですが、いつも選手のことを第一に考えてくれるという点では同じでした。