日米開戦前からこんな巨人機開発してたなんて、アメリカ怖い!

ハワイ拠点に日本本土の爆撃を計画

 1946(昭和21)年8月8日、アメリカのコンヴェア社(現ロッキード・マーチン)が開発したB-36爆撃機が初飛行しました。

 B-36は、アメリカ本土とヨーロッパを往復できる、当時としては例のない超長距離飛行が可能な大型の戦略爆撃機として開発された機体です。開発は1941(昭和16)年4月に始まりましたが、当時、ドイツが第2次世界大戦で支配地域を拡大していくなか、イギリス本土もいつドイツに占領されるかわからないという不安から、アメリカ陸軍航空軍(アメリカ空軍の前身)がドイツに対する戦略爆撃を実施可能な巨人機として要求を出したのが端緒でした。


国立アメリカ空軍博物館に保存・展示されているB-36J爆撃機(画像:アメリカ空軍)。

 その後、日本との間で戦争が始まると、アメリカ陸軍航空軍はハワイを拠点に日本各地を攻撃できる爆撃機として開発を推し進めます。そして実機の完成を待たずに100機の初期生産をコンヴェアに命じています。なお、計画では初号機の納入は1945(昭和20)年8月とされていました。

 ただ、試作機の完成に目途が立った1945(昭和20)年5月、ドイツが降伏。それから3か月後の同年8月15日には日本も降伏します。結果、B-36は第2次世界大戦に間に合いませんでしたが、予定通り1945(昭和20)年8月20日に完成披露が行われ、それから1年後の1946(昭和21)年8月8日、初飛行に成功しました。

温存された結果、実戦経験は皆無

 B-36の特徴は、エンジン10基を搭載しているという点でしょう。初飛行を含め、当初は最大出力約4000馬力の空冷星型28気筒レシプロエンジン6基を搭載していましたが、推力が不足気味であったため、後日、両翼に2発ずつジェットエンジンを搭載するようになりました。その結果、プロペラ駆動のレシプロエンジンと、ジェットエンジンを合わせて10基積むという、他に類を見ない超大型爆撃機となったのです。

 ただ、燃料を節約する観点から、ジェットエンジンの使用は離陸時と、目標上空からの離脱時などに限られ、巡航時はジェットエンジンは停止されたといいます。


国立アメリカ空軍博物館に保存・展示されているB-36J爆撃機(画像:アメリカ空軍)。

 B-36の乗員数は15名、爆弾倉は4つあり、そこに最大約39.6t(8万7200ポンド)もの爆弾を積むことができたそう。この量は第2次世界大戦において多用された4発爆撃機B-17「フライング・フォートレス」の最大5.8t(1万2800ポンド)と比べて約7倍の量であり、対日戦の主力であったB-29「スーパーフォートレス」が持つ最大搭載量9.1t(2万ポンド)と比べても約4.5倍近い、とてつもない量でした。

 部隊運用は1948(昭和23)年から始まり、トータルで380機あまりが生産されましたが、最新鋭の戦略爆撃機として温存された結果、1950(昭和25)年から始まった朝鮮戦争には投入されませんでした。

 また1951(昭和26)年にはより高性能なジェット爆撃機B-47が登場し、さらにアメリカの核戦略自体が弾道ミサイル中心にシフトしていったことなどにより、B-36は一度も実戦に参加しないまま1959(昭和34)年2月に退役しています。

 なお、1950年代初頭には本機を純ジェット化したYB-60という試作機も開発されています。同機は主翼や尾翼、機首部分などを新たに設計し、ジェットエンジン8発搭載に改められていましたが、ライバルのボーイングが開発したB-52の方が飛行性能などで勝っていたため採用されず、試作で終わっています。