「明暦の大火」で多くの遊女が蒸し焼きに。全焼失した元吉原が進化した”新吉原”とは?

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Japaaan読者の皆さんこんにちはんこんにちは。ライターの小山桜子です。さて、前回は吉原遊郭が幕府が公認した遊廓となった初期の頃の「元吉原」についてご紹介しました。

今回は続けて「新吉原」について。

明暦の大火で元吉原焼失!

元吉原がようやく幕府に公認され、順調な営業に乗り出した矢先、1657年の明暦の大火で江戸の大半が焼失。もちろん元吉原も全焼失し、多くの遊女が蒸し焼きになり亡くなりました。

当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」

「火事と喧嘩は江戸の華」とは言うものの、記録によると江戸全体で堀に落ちて死んでいた死人だけでも2万3千人を超え、どの堀も埋め尽くされて平地のようになったという惨状。全体では6〜10万人もの死者が出たといいます。

遊女を含め多くの人々が念仏を唱え、助けを求めながら死んでいったといいますから、元吉原の亡くなった遊女の事を思うと手を合わさずにはいられません……。

新吉原に移転

さて、そんな悲しみをばねに、吉原遊郭は更に飛躍します。幕府の命令により焼け野原になった浅草浅草寺裏に移転が決まりました。

浅草寺裏というのは当時の名前で千束村と言い、 現在の東京都台東区千束三~四丁目に相当する場所です。ここから吉原は「新吉原」として元吉原とは比較にならないほどの大発展を遂げるのです!

新吉原の規模とは

吉原は縦が京間で百三十五間、横が百八十間の長方形で、総坪数は二万七百六十七坪、東京ドームが約一万四千坪ですから、いかに広い敷地だったかが分かると思います。

周囲には忍返が植えられた黒板塀がめぐらされており、更にその外側にお歯黒どぶと呼ばれる堀がぐるりと取りかこんでいました。

遊女の逃亡を防ぐために設けたもので、堀の幅はおよそ二間(約三・六メートル)。遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところからその名がついたといいます。

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江戸の田舎だけど大繁栄!

まわりには吉原田圃と呼ばれた田んぼがひろびろと広がっていたということで、いわゆる江戸の都市の中心ではなかった事が分かります。

しかしそんな田舎の吉原が、「夜と昼朝とへ落る日千両」(夜は吉原、昼は芝居街、朝は日本橋の魚河岸に毎日千両ずつ金が落ちる)と詠まれるほどの繁栄を喫する地となるのです!

参考文献:永井義男「図説 吉原入門」