祖母が倒壊家屋の下敷きに…私が見た熊本地震(1) - BLOGOS編集部

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※この記事は2016年05月03日にBLOGOSで公開されたものです

大谷広太(BLOGOS編集部)

私は小学校1年生の2学期から高校を卒業するまで、現在の熊本市東区で育った。2005年、父の実家がある阿蘇郡西原村小森の大切畑地区に両親が家を建てたため、それ以後は私にとっての”実家”とは、この大切畑の家ということになった。

そんな私が、生まれ育った故郷を離れる決断を受け入れた祖母を連れ、東京へと戻って数日が経った。

羽田空港まで迎えに来た親戚に祖母を預け、ひとり山手線の車窓から平穏無事な東京の町並みを眺めていると、わずか2時間ほど前まで居た熊本とのあまりの違いに、あれは夢ではなかったのか?と不思議な気持ちになった。

それだけではない。荷解きをするために自分で倒したキャリーバッグをそのままにしておいた癖に、ふと「ああ、地震で倒れたのか」と思ってしまう。ここが東京であるとわかっていても、「あれ、このあたりはどこの塀も倒れていないし、屋根にブルーシートが掛かっている家もない」などと思ってしまうという、おかしな感覚が続いている。

あるいは息子を連れ、近くの公園へ遊びに行ったときのこと。大きな石が石垣のように積まれていて、そこを登っていく息子を見ながら、崩れやすくなってはいないかと、必要以上に不安に思ってしまうこともあった。ちょっとどうにかしていると自分でも思うが、本当に1日、2日の間にはそうだったのだ。

今日現在も、私の両親は「り災証明書」を受け取れず、実家の建物には応急危険度判定の「赤紙」(=危険)が貼られており、これからの見通しも不透明なままでいる。今回の帰省は全く個人的なことではあり、取材などでは無かったのだが、書き留めておいたメモをもとに、この場を借りて私が見聞きした熊本地震についてを数回に分けて書いてみたい。

■"前震"発生時は楽観的だった

4月16日(土)、熊本市内に住む妹が仕事の都合で欠席するのを除いて、我が家では福島に住む母方の従姉妹の結婚式への出席を予定していた。

両親は前日の金曜日に上京、私の家に一泊し、16日、横浜市に住む弟ともども郡山に向かうというプランだった。

14日(木)、いつも通りの時間に帰宅して夕食を摂っていると、会社の同僚たちから次々と「熊本が震度7ですが大丈夫ですか」という内容の連絡が入ってきた。にわかには信じられなかったが、慌ててテレビをつけると、確かにその通り報じられていた。

Twitter上には「熊本城の石垣が一部崩れている」という情報も写真付きで出回っていた。熊本在住の友人たちに連絡を取ると、大きな揺れではあったがみな無事で、「動物園からライオンが逃げているという噂もネットで流れている」と苦笑している、そんな雰囲気だった。

熊本市内に住む妹からも、近所の人たちと空き地に避難しているが、強い余震が続いているという連絡が入る。両親からも、大きな揺れで家の中はいろいろなものが棚から飛び出した、という話だった。結婚式から帰ったら片付ければ良い、と。

一方、益城町では負傷者も出ていると報じられるようになった。位置関係としては、おおざっぱに西から熊本市、益城町、西原村、そして南阿蘇村ということになる。それぞれ、決して遠い距離ではない。

翌日の熊本空港(益城町)のフライトは、午前便が欠航になった以外、もともと両親が予約していたお昼すぎの便も含め、予定通りに運行された。

実家の裏手にある集落の墓所。祖父の墓石も倒れたが、そのうち業者に頼んで元に戻せば良い、という程度の認識だった。

テレビでは引き続き、地震(この後、これらは”前震”だったことが判る。)について報じていてはいたけれど、母も「帰ったら家の片付けをしなくちゃ」「たまに震度3や4を観測する程度の熊本にしては、これだけ大きな地震と余震が続くのは珍しいことだね」といった呑気な話をして過ごした。それ以外は、いつもと全く変わらない、久しぶりに集った家族の団欒だった。

■家屋が倒壊、祖母が下敷きに

私も含む全員が就寝中で気がつかなかったのだが、家族のグループチャットには、妹から午前1時42分、続けて3時03分にもメッセージ。数時間後に”本震”とされる大きな揺れに続いて、この間も震度5クラスの揺れが何度も起こっていた。

この直後、目を覚ました妻が妹からののメッセージに気づいて私を起こしにきた。「熊本でまた大きな地震が起きたらしい」ということだった。飛び起きてテレビを付けると、再び「震度6強」を観測し、前回以上に大きな被害が出ているようだった。

それと同時に、父の携帯電話が鳴った。神奈川に住む伯母からだった。私の実家の隣には、祖母の家があって、リタイアした伯父も数年前に熊本で再就職し、祖母と一緒に起居していたのだった。

私が慌てて電話を取ると、伯母は慌てた口調で「おばあちゃんの家が潰れて、下敷きになっちゃっている」と告げた。伯父とはこの第一報の後、連絡が取れないという。ガラケー使いの伯父には電話をするしか無く、あのような非常時のことであもあり、回線がすっかり混み合っているようだった。

両親を叩き起こし、皆がテレビの前に集まった。部屋の灯りは付けないままだったと記憶している。多分その場に居る誰もが状況を飲み込めなかったと思うが、伯母の緊張した声を聴いて、私は内心「もうダメだ」と思った。口には出さなかったが、家に居た全員がそう思ったのではないだろうか。

私も自分の携帯電話を確認すると、妹からは2時24分、伯母からも2時38分、同58分の着信履歴と、3時02分にSMSがあった。

3時40分ごろ、父が同じ集落の消防団員の方とLINEで繋がっていたことを思い出し、連絡を取ってみた。すると、近所の人や消防団員が駆けつけ、油圧ジャッキやチェーンソーなどを使って、なんとか祖母を引きずり出したということがわかった。ほどなくして伯父とも連絡を取ることができた。「停電で集落の灯りは完全に消えていて、動こうにも動けない。今は庭に座っている」「少し寒い」という内容だった。

ちなみに、このときのことは、近くまで取材に来ていたFNN(伊藤アナ)が集落の救出の様子を報じていて、祖母が救急隊員に背負われて運ばれていく様子が翌日放送されたほか、避難所で受けたインタビューがTBS、テレビ朝日で翌週放送された。また、朝日新聞デジタルでも記事になっている。

テレビも益城町で発生した火災の情報などについて触れていたが、夜明け前のことであったし、実家の周囲がどんな状況になっているのか、想像で間に合わせるしかなかった。集落のすぐ上の方にある、「大切畑ダム」が決壊した、あるいは決壊しそうだ、という情報もテレビ、ネット両方で流れていた。下流域には避難勧告も出て、現地からも、水が流れる音がいつもより大きいという話だった。

そして空が白み始め、NHKでは南阿蘇村の空撮映像を映し出していた。山肌が雪崩れ、阿蘇大橋が落ちて無くなっていた。

■集落で生き埋めになった7人を救った消防団



私たち家族はそれから一睡もしないまま、朝を迎えた。

午前7時を過ぎた頃だっただろうか、父の携帯電話に、熊本赤十字病院のK医師から突然電話がかかってきた。助けだされた祖母は同病院に搬送され、黄色のトリアージのエリアに居るので、迎えに来て下さいということだった。面白いことに、祖母が父の携帯電話の番号を暗記していたため、連絡が取れたのだった。ほどなく、市内で車中泊していた妹が迎えに行き、祖母と対面した。祖母は茫然自失の状態だったのか、はたまた老眼鏡を失くしていたせいか、妹に「誰ですか」と尋ねたという。妹は泣いたという。12時前には帰宅の許可が降りた。二人の昼食は、車にあったドロップだけだった。

祖母は左大腿が挟まれていたが、無傷と言ってよい状況であった。
写真で見ると、祖母が助かったのが奇跡的だったということが判る。どの家も、垂直に崩壊したわけではなく、四隅のひとつに向かって斜めに崩壊していたため、1階部分にも空間が出来ていたのだった。

しばらくすると「爺さんがこの家は梁が立派だから、絶対壊れんと言っとったのに壊れた」「(祖父の名前を)何回も呼んだのに、返事もせん(伯父はすぐ近くから、返事をし続けたというが、祖母の耳が遠く聞こえなかっただけなのだ。)」などと皮肉を言えるほどには元気を取り戻した。

ちなみに祖父母は1995年1月16日、神戸で開かれた親戚の披露宴に参加していたのだが、昔気質ゆえか、親類が宿泊を勧めるのを断り、夜行バスでの強行軍を選択した。明け方、九州で阪神・淡路大震災発災の報を聞いたのだった。

何度も何度も、熊本とやりとりをしながら、私たち家族は不安な気持ちのまま、新幹線で郡山に向かった。新郎側の皆さんは、熊本から来たということに驚いていた。

披露宴の最中も、祖母と伯父は当然避難所生活、妹も市内で車中泊になりそうだというような連絡が次々に入った。ともに食糧にも事欠くという話に、流石に父も泣いていた。東日本大震災を経験している伯父からは、「5年経てば、笑い話に変わるようなこともあるから」と励まされた。

なお、集落では7人が一時生き埋めになっていたということだったが、皆口々に自分が生きているのは奇跡だと語っていた。ある人は、気がついたら目の前に2階の天井板があったと言い、またある人は、倒れてきた箪笥の扉が開き、その中に収まる格好になって助かったと言っていた。

地面から「ギー」あるいは「ジー」というような妙な音がしたという人もいた。音が聞こえたと思った瞬間、「ドン」という大きな揺れがきて、一気に電気は消えたという。寝ていたベッドから身体が宙に浮いたという話も聞いた。

その一方、人は助かったが、家畜は犠牲になった。乳牛を飼っている人は、建物の下敷きに牛の最期の鳴き声が聞こえたと言っていた。また、助かった乳牛も、ただ繋いでおくことしかできず、廃業もやむ無しという話だった。

ついでながら、7人を救助したのは消防や警察などによるものではなく、集落の人たちの自力によるものだったため、その組織力というか、団結力がちょっとした話題になっていた。

自警団を組織し、集落の農機具倉庫に寝泊まりし、交代で夜警を行っていること(実際に、集落に至る農道に怪しげな車列が現れ、近づいていくと猛スピードでバックしながら退散したという)、あるいはそれぞれの特技を活かし、近隣の施設から水を引き、ウォシュレットまで作ってしまったというエピソードなどは、テレビのクルーも大変興味を持って撮影しにきたという。(つづく