【対談】フジテレビだけに留まらない!テレビ業界全体の凋落の兆候 - BLOGOS編集部
※この記事は2016年05月01日にBLOGOSで公開されたものです
苦境が指摘されるフジテレビの内実について、社員として80年代から低迷期に至る23年間を見てきた吉野嘉高氏が著した『フジテレビはなぜ凋落したのか』(新潮新書)が話題を呼んでいる。この本を「かなり誠実な本であった」と評するのは、ライバル局・日本テレビで長年プロデューサーを務め、現在はドワンゴでニコニコドキュメンタリーを手掛ける吉川圭三氏だ。
今回、編集部では、テレビ局が抱える課題について二人に語り合ってもらった。(大谷広太、永田正行)
■プロフィール
吉川圭三:1957年東京都生まれ。ドワンゴ会長室・エグゼクティブ・プロデューサー。1982年に日本テレビ入社。『世界まる見え!テレビ特捜部』『特命リサーチ200X』、『1億人の大質問!?笑ってコラえて』、『恋のから騒ぎ』などの番組を手掛ける。2013年から、ドワンゴに出向している。早稲田大学卒。吉野嘉高:1962年広島県生まれ。筑紫女学園大学現代社会学部教授。1986年フジテレビジョン入社。『とくダネ!』などの情報番組、ニュース番組のディレクターやプロデューサーのほか、社会部記者などを務める。2009年同社を退職し現職。早稲田大学卒、中央大学大学院修了(法学修士)。
■エリート意識を嫌った故・氏家日本テレビ会長
吉川:吉野さんの「『フジテレビはなぜ凋落したのか』は、よくあるフジテレビ"バッシング本かなと思って手に取ったのですが(笑)、読み始めたらあっという間に読み終わってしまうほど魅力的な本でした。フジテレビの中に23年間いらっしゃった方が書かれただけあって、巷間よく言われている「長期政権の日枝会長が~」といったステレオタイプな批判でもありませんでした(笑)。僕は、この本を他のテレビ局の人たちはもちろん、新聞、出版、ネットメディアも含む全メディアの人たちに読んでほしいと思いました。
フジテレビの不振の原因として挙げられている、「上も悪かったが、下も悪かった」という言葉が、胸に突き刺さるんです。日本テレビが不調なとき、自分自身の失敗した番組を振り返ってみて、「作ったやつも悪いけど、上も悪かったよな」と思っていたなと。社員が自分でブランド意識みたいなものを持ってしまって、研鑽や研究を怠りやるべきことを忘れて浮かれたり油断したりしていたケースもありました。
故・氏家齊一郎会長は、行き過ぎたエリート主義みたいな風潮が出てきて、「自分は会議室でふんぞり返って下の人間にやらせて文句だけ言っている」といった状況を忌み嫌っていました。要するに、テレビ局だって“モノを作ってなんぼ”の会社なわけで、本来は現場的な仕事が多いはず、「質実剛健」が良いと常々言っていました。※注 氏家齊一郎氏(1926~2011)は元日本テレビ会長・民間放送連盟会長。1990年頃から10年に渡る日本テレビ3冠王を牽引した。
例えば、東洋経済が毎年発表する「大学生が就職したい会社ランキング」でフジテレビに日テレはいつも負けていたことについて、会長に「このままでいいんですか?」と聞いたことがあります。「視聴率三冠王で絶好調なのに、なぜウチは合コンでもモテないし、ランキングにも入らないんですか」と(笑)。
すると氏家会長は「あんなのに載って浮かれていたらお終いなんだ。うちは放送ネットワークも持っているが、ある意味『製造業』でもあるんだ。汗をかく。知恵を絞る。それが仕事だ。見ている視聴者の気持ちから離れて自分の会社がそんな一流な会社と思い込んでエリート意識なんか持ってはいかんのだよ。」と答えたのです。ランキングに取り上げられるような浮ついた雰囲気は必要ないと考えていたのでしょう。
吉野:フジテレビはその時代、視聴率は日テレに後塵を拝していたのに気持ちだけは“一番”でした。世間の評判は良いしエリート意識も強かった。そこに油断があったと思います。氏家さんが指摘したように「浮かれていた」部分があったのでしょう。
■”仲間ありき”の発想だったフジテレビ
吉川:フジテレビには「楽しくなければテレビじゃない」という社内の憲法とも呼ぶべきスローガンがありました。しかし振り返ると、バブル経済が崩壊、大企業がバタバタ倒産し、阪神大震災やオウム事件や酒鬼薔薇聖斗などの事件が発生したというような社会状況の中で、視聴者にしてみれば、「楽しくなければテレビじゃない」という気持ちではなかったというように思います。フジテレビにおいては「お台場カジノ構想」もありましたが、テレビ局が本業以外に手を出そうとする傾向もあります。
吉野:テレビ番組の広告収入が漸次減少していく中、各局が「放送外収入」の確保に躍起になっているのはご存じの通りです。「お台場カジノ構想」も放送局の新たなビジネスモデルを探る試みとしては確かに画期的だったかもしれません。しかしフジテレビ自体がカジノを運営するわけではないもののカジノを中核とする企業グループの一角で商売をするイメージが公益性の高い放送局としてふさわしいかどうかは意見の分かれるところでしょう。日本ではギャンブル依存症の人が成人人口に占める割合は約5%と世界的にみても際立って高い水準です。それなのにギャンブル依存についての議論がタブー視されて、これまでに十分でなかったところも気になります。
吉川:一方、バブル崩壊後、日本テレビは時代の空気を読むと言うか、ジャーナリスティックなことにもある意味、熱心だったと思います。直接それを描くという事ではなく、その時のムードを番組に反映させるとか。
僕自身で言えば、『世界まる見え!テレビ特捜部』で、アメリカ同時多発テロ事件、アラブのジャスミン革命などについて"世界はこの事件をどう見たか"という企画に挑戦していました。困難もありましたが、東日本大震災も決定打になり、社会全体に「浮かれている場合じゃ無いぞ」という雰囲気が出てきて、多くのテレビマンたちが少しずつ方針を変えて行ったのではないでしょうか。
吉野:そこが分岐点になっていると思います。日テレは真摯に社会と向き合って、視聴者の考えに寄り添っていこうとしていたと思います。それに対して、フジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」という過去の成功を掲げて再出発しようとしてしまった。これは方向性としては逆だったのではないでしょうか。3月時点で、ほとんど決定していた夏の『24時間テレビ』の内容も全て一新されたのを覚えています。
「楽しくなければ~」というのは、仲間内で楽しいことを考えるという、いわば"仲間ありき"の発想なんですよね。自分たちの楽しいことを見せていけば、視聴者もついてくるだろうという発想がある。どちらかといえば制作者中心です。今にしてみれば、「フジテレビのDNA」などといったこだわりを捨てて、現実の変化をきめ細かく観察し対応していれば、これほどまでに転落しなかったのではないかと思います。自分たちのアイデンティティーを社会変化への対応よりも優先したところが成否を分けたのではないでしょうか。
先日放送が終了したドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』なども、現実と向きあおうというフジテレビドラマの新たな方向性であればエールを送りたいのですが、むりやり恋愛話をくっつけているようで、ストーリーや演出にリアリティーがやや欠けているような印象でした。 女子学生に聞くと、賛否が割れているようです。
吉川:フジテレビは仲間内で盛り上がる傾向がありましたね。
「オレたちひょうきん族」の時代は、ある種の密室、アンタッチャブルな空間が黒光りしていた時代だったんですよね。あの番組がやったのは、それまでタブー破りだった、"舞台裏を見せる"という手法です。それを他の番組や他局も真似をして、舞台裏やタレントの私生活を見せことが陳腐化してきた。その時点で、視聴者のワクワク感、ドキドキ感も小さくなっていったと思います。僕自身「ひょうきん族」は大好きでした。ただ、フジテレビはどうしても、その後もあの成功体験を繰り返そうとしてしまっているように見えました。
もうひとつ、別の意味では日本テレビの場合はある種の"DNA"があったように思います。例えばバラエティでは「天才たけしの元気が出るテレビ」。あれは「ひょうきん族」と大体同じ時期で、いろんな実験をしていた番組でした。それに続く形で元「元気」のスタッフで「進め!電波少年」を作る土屋敏男が出てきた。その「電波少年」にいた古立善之というのが、「世界の果てまでイッテQ!」を作っています。このように、なんとなく、時代に呼応してドキュメントバラエティーの"DNA"が良い形で継承されているように思います。
その点、「ひょうきん族」と「笑っていいとも!」だけでなくフジテレビの「なるほど・ザ・ワールド」といった番組のDNAはもったいなかったなと思います。あの番組では、多くの国に毎回行って、我々がリサーチしてもまったく捕まえることができなかった希少なネタを毎週提供していました。あれから、海外取材系のパクリ番組が横行しましたが(笑)、「なるほど・ザ・ワールド」ほどの海外コーディネートのネットワーク、情報量、面白さは、当時とてもじゃないけど我々は出来なかった。土屋なんかも、あれに刺激を受けて、世界に出るジャーナリスティックなバラエティを作りたいと言っていたと記憶しています。
■数字を分析しすぎることの弊害も
吉野:現在大学で学生に講義をしているのですが、テレビに対する“ワクワク感”が消えつつあるのかなということを、教壇に立っていてヒシヒシと感じます。昔はテレビの話をすると学生たちも目をキラキラさせて聞いていてくれていたのが、最近ではあまり食いつきが良くない。メディアとしての求心力が低下しているように思います。社会の個人化が進み、一人ひとりテレビに求めるものが多様化していることも一因でしょう。ではメディアの求心力がインターネットに移ったかというと、そうでもありません。ネットだと、個人の多様な興味に個別対応することはできてもテレビのように国民の“最大公約数”的関心事を提供しにくい。だから求心力も生まれにくいということだと思います。
吉川:若い世代に対する求心力が弱ってきている。だからNHKもおじいさんとおばあさん相手の番組ばかりになる。
気がかりなのは、現場のテレビマンが「テレビを見てテレビを作っている」気がすることです。つまり、ランキングを見て、視聴率のいい番組の一部分を引っ張って番組づくりをする。それで、「なぜ当たらないんだろう?」という議論をしている。映画や演劇、本、個人的な体験も含めて、様々なところからアイデアを引っ張ってきて、作っていくのが良いんですけれども、全てがある種、閉ざされた日本のテレビ界・芸能界の中で自己完結しているのが日本のテレビの特徴だなと思っているんです。
吉野:同感ですね。数字のプレッシャーにさらされる中で、「このパターンを組み合わせれば必勝だろう」といった姿勢で番組を作っている。「そこに情熱はあるのか?」と思ってしまいます。
著書の中では、かつてフジテレビで脚光を浴びていた人材を「テレビバカ」と呼んでいます。彼らは、とにかく番組を作るのが好きという人間で分析なんかしていませんでした。
吉川:分析し過ぎると「このタレントが出たからダメだったのかな」「つけ麺を出すと数字が上がったな」という具合に本質を分析せずにデータに頼り、同じような番組が増えていくだけになってしまうんですよね。
■クレーム対応に労力を割かれるテレビ局
吉川:吉野さんが著書でも指摘されているように、コンプライアンス的にもがんじがらめ。責任を取ってくれる・あるいは回避できる方法を一緒に考えてくれる上層部も居ないということで、表現がどんどん萎縮していっていると感じます。吉野:今、テレビ局は上からは安倍政権、下からは視聴者と、挟み撃ちのような状態にあります。確かに、取材、制作現場での横柄な態度やマナーの悪さなど反省すべきことはありますが、一般の人からのクレームに対する危機管理対応にものすごい労力を割かれています。そのため危機管理上、問題が起きる前に先回りしてリスクを取らずに無難にコンテンツをまとめる傾向があります。結果、似たり寄ったりの番組が量産される。これが悪循環になっています。
吉川:それはテレビ界におけるもっとも重要な課題の一つなんじゃないかと思います。上層部、あるいは権限を持った方々は、テレビ表現は確かに悪影響を与えるものも一部ありますけれども、反面でどうすればそうした表現の自由度を担保できるか、タブーやアンタッチャブルな問題にどうやれば取り組めるかを真剣に考えなければいけない時がきています。さらに怖がらないで知的な番組にも挑戦してほしい。
ドラマだけでなく、バラエティや報道も、本来は時代を反映するものですが、今の日本のテレビ番組が時代を100%反映して、時代と呼吸しているとは到底思えません。むしろNHKの方が様々な制限がある中で、攻めるところはキチンと攻めているという印象があります。
先日もNHKスペシャル「新・映像の世紀」と共同でニコニコ生放送をやりましたが、過去のイギリスやアメリカの政策・軍事・経済方針を非難するなど、かなりタブーをえぐっています。NHKですらここまで腹を括っているんだから、民放も危機意識を持つべきです。
吉野:NHKスペシャルには反骨精神があるものの、定時のニュースは政権の広報のようになってしまっているように感じます。たとえば防衛大学校卒業生の任官拒否の問題ではニュースではグラフを示しながら「景気が良いから民間に就職する人が多かった。ご覧のように、過去にも景気が良い時は増えている」といった説明で景気と任官拒否の関連のみを強調していました。しかしテレビ朝日などは、防衛省職員への取材を踏まえて、景気はもちろんですが、安保法制も影響した可能性を指摘していました。
また、ニュースは構成要素の並べ方によってイメージが変わってくるものですが、与党と野党で意見が対立している場合、NHKでは最終的に与党の意見が強く印象に残るような映像素材の順列組合せになっているのも気になります。
■骨のある番組を複数持っておくべき
吉川:NHKはNHKなりの困難も抱えていますが、日本テレビも長寿番組が多いので一旦崩れ始めるとあっという間に終わってしまう可能性があります。どうにか軌道修正しながら走らせているというのが現状ですから、とても万全とは言えません。長寿番組を持っている局ほど、実験をしなければいけないと思うんです。フジテレビ、TBS、テレ朝も、これからの可能性を考えるような研究開発をしているのか、非常に不安を感じます。吉野:私は、その点については前向きに見ています。日本テレビのスタンスは、原発賛成だと思っていましたが、3月に放送された「NNNドキュメント」は深夜の時間帯ではありましたが、ネガティブな部分もきちんと報じ、問題提起していました。多様性がまだ許されているんだと感じましたし、そういう実験ができる土壌はあるのではないでしょうか。気概さえあれば、まだまだやれることはあると思います。
吉川:「NNNドキュメント」は、骨のあることを結構やっているんですね。そういう骨のある番組を、テレビ局は少なくとも複数持っておかないといけませんね。
バラエティやトークや情報番組に関しても、芸能界という特殊な世界が織り成す、予定調和、共同体という、ある種の閉鎖空間になってしまっているのではないでしょうか。
アメリカには「サタデー・ナイト・ライブ」という番組があって、去年の10月にはヒラリー・クリントン本人が場末のバーで夫のクリントン元大統領に対して愚痴ったり、最近はドナルド・トランプの格好をしたコメディアンがかなりアンタッチャブルなコント表現をしています。そのうち本人も出て来るでしょうがスタッフはかなり厳しい条件をトランプに提案するでしょう。世の中の現状に対し、コメディアンや制作者たちがしっかり知性を持ってコントという形でボールをちゃんと投げ返している。今の日本でそれは絶対できませんね。それをやれば面白くなるというわけではありませんが、僕は誰かやったほうがいいと思っているんです。
■タブーに挑むアメリカのドラマ制作
吉野:日テレはHulu、フジテレビはNetflixと提携しました。こうした動画配信サイトは「黒船」「日本のテレビに脅威」などと言われていますし、僕自身はオリジナルのドラマが非常に面白くてハマっているので、本当に日本のテレビ局の脅威になるんじゃないかなとも思っています。こうしたドラマが面白い理由のひとつには、タブーが無く、リアリティーあることだと思います。日本のドラマは消毒されて無菌状態になっていますから、心に届いてこないんですよ。
吉川:僕もアメリカのケーブルテレビやNetflixなどで展開されているドラマを見ていると、表現の幅が非常にあると感じます。カーチェイス、麻薬問題だけでなく、マフィア、政権内の内幕、家族間の問題、人種の問題、同性愛、経済格差など、アメリカの"現実"を描いている。ある種タブーでもあるのですが、これらを扱うことをしないと、自分たちは生き残っていけないんじゃないかというような危機感も彼らにはあるのだと思います。
Netflixの「ハウス・オブ・カーズ」であればデヴィッド・フィンチャーなど、ハリウッドの映画会社のパイプを通じて、ケーブルテレビ、地上波、そしてネットメディアが一流の映画系人材をちゃんと呼び寄せてやっている。そしてネット配信であれば放送コードもないので、それも計算に入れています。
「黒船」という一言で括られていますが、ドラマを作っている日本のテレビ局は、そういう事態を意識して、いかにしてテレビの表現を広げ、高めていくかを考えないといけないのではないでしょうか。そうしなければ、むしろ日本のテレビが"辺境の地"のドメスティック・メディアになってしまう可能性もあります。
先日、カンヌで行われた映像フェスティバル(MIP)に行って来ましたが、やはり韓国のドラマはまだ売れているんです。世界で通用するようなドラマづくりをしていて、必死で世界に出ようとしているんですよね。韓国は人口が少ないので海外に出ざるを得ないのでしょうが、少子化が進む日本でもテレビ局にはそういう意識をもっと持ってもらいたいと思います。
吉野:自主規制して表現の自由の幅が狭まっているのでしょうね。テレビの可動域はもっと広いはずなのに。
吉川:おっしゃるとおりだと思います。岩波書店の「チャップリンとヒトラー」(大野裕之著)という本によれば、ヒトラーと生まれた日が4日違いのチャップリンは周囲の反対を押し切って、「独裁者」という映画を作り、ヒトラーを風刺して、ちょび髭姿で演説して笑いを取りました。あれによってヒトラーの演説回数が激減したと言うんですね。すごく勇気のあるコメディアンがいたものだなと思います。
吉野:そういうことはもう誰もやらないし、やろうとしない空気が業界を覆っています。日本で特定の政治家を風刺するコメディアンはいないですね。安倍首相は「笑っていいとも!」にゲストとして呼ばれたし、「ワイドナショー」にも出演する予定でした。(熊本・大分の地震のため取りやめ)自分がバラエティーに出るのはよいけれどコメディアンにマネされるのは嫌だということはないはずですが、どうでしょう。日本のコメディアンも政治ネタをタブーにしないでやればいいのに。そうすればテレビに新しい風が吹いてきます。
吉川:あの時は「笑っていいとも」で安倍首相も当たり障りのない身辺の雑談に終始していましたね。誰か一歩を踏み出せばいいのですが、空気に縛られて「あれ言っちゃいけない」という不文律が頭をよぎってしまう。先日、俳優の佐藤浩市さんが朝日新聞デジタルのインタビューで、最近のテレビドラマについて「テレビドラマはイデオロギー性を避け、若い視聴者におもねって失敗し、それならお年寄りが安心して見られるようにと医療ものと刑事ものに走った」と指摘していました。
みんなもの凄い危機感を持っていることは確かですが、発言したり実行する方はあまりいない。僕みたいに会社を移ったらやれた、ということはありますが…。
吉野:現場にいると、なかなか出来ないことも多いんですよね。
■上層部、経営層はどう向き合うのか
吉野:でも、若い人たちの間では、マスコミを敵視しているひとも少なくないんです。一歩踏み出すと、むしろネットではバッシングに遭う可能性もあります。吉川:テレビの信頼性・魅力を担保するためにはどうするか、民放連も含めて、上層部が真剣に有効な対策を議論しなければならない問題でしょうね。
吉野:BPOの放送倫理検証委員会だけが言うべきことを言ったがために安倍政権の矢面に立っているような感じですね。民放連は機能不全を起こしています。高市総務相が番組の政治的公平性を理由に放送局の「電波停止」に言及したとき、民放連は団結して抗議声明を出すべきでした。おそらく最初に声を上げた者が貧乏くじを引いて、安倍政権から睨まれるのがわかっているから、お偉いさんたちはビビッてへたり込んでしまったのでしょう。テレビ報道は権力に対して委縮していて危機的状況です。保身に走っている場合ではないのに。※注 BPOは番組倫理・番組向上機構。NHKや民放連等が出資して設立された任意組織。
吉川:上層部、経営層が、どう今の政府に向き合っていくのか、SNSやネットから押し寄せる視聴者からのいろんなクレームにどう対応するのか。きちんと新しい方法を考案して、内外の事例なども研究して、識者のアドバイスを真摯に聞き、下の世代に伝えないとまずいですね。蓋をするのが一番まずい。「出る杭は打たれる、アウトサイダーは排除され無菌状態になる、ちょっと踏み外すことをすると叩かれる」、という現状への警鐘も含めて、この本は業界に一石を投じたと思います。
このままでは「フジテレビの凋落」だけで終わらず、テレビ業界全体が地盤沈下していく可能性を危惧しています。
僕はテレビに育ててもらったので、皆さんで色々知恵を出してテレビによみがえってほしいと願っています。テレビ局は内部に強力な制作機能を持っているし、いまなお最強の放送インフラなんですから、心から復活を期待しているんです。
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