115系ワンマン車G編成を2本併結して伯備線を行く。電動車2両の運転台取り付け改造車でクモハ115はオリジナルの顔 (日羽ー美袋間、写真:久保田 敦)

鉄道ジャーナル社の協力を得て、『鉄道ジャーナル』2021年5月号「岡山の近郊形にエール」を再構成した記事を掲載します。

今回の「鉄道ジャーナル」取材は、昭和の車両をテーマに岡山地区を走る113系や115系電車を追い掛けた。これらの形式は「近郊形」と呼ばれ、国鉄を代表した車両だが、誕生から半世紀内外を経過した今、JR東海からは姿を消し、JR東日本も風前の灯。その中で、数を減らしつつもまとまった数がまだ活躍するJR西日本の様子を紹介する。鉄道ファンがどのような点に関心を持っているか、その一端として読んでいただければ十分である。

湘南色は車内も懐かしのボックスシート

2月中旬のある日の朝、岡山駅に立つと、瀬戸大橋線ホーム8番線に湘南色のD-27編成が到着する幸運に恵まれた。115系3両のD編成グループに2本(D-26、D-27)だけの復刻色。したがって、115系・113系全64本中の2本という希少な存在だ。なにしろD編成は数が多く、それだけに運用範囲も山陽本線は姫路から三原まで、瀬戸大橋線と宇野線、赤穂線、伯備線新見までと広範に及んでいるので、切妻貫通先頭車の編成以上に遭遇はむずかしい。


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そしてこの湘南色編成を含む6本は、体質改善の更新を施工していない車号300代の編成でもある。鉄道ファンとしての視点で見れば、昔のままのボックス席を配したセミクロスシートの滋味を味わえる。迷わず、折り返し7時40分発宇野行きに乗車した。

113系や115系は誕生まで遡ると、それより以前の吊掛式旧性能電車の寸法を基準に座席配置がなされたため、座席の幅およびピッチが狭い。その後1970年代後半に登場した115系1000代から急行形に準じた寸法へと改善が図られ、113系も2000代で追随した。115系300代というのは、主要寸法は当初のままながら製造工程の合理化のため窓をユニットサッシ化するなど近代化を図った番代区分であり、発展途上の車両と言える。

現存の体質改善40N・30Nと呼ばれる車両はそのほとんどが座席ピッチ拡大後の車両なので、窓配置がゆったり見えるタイプである。したがって、それらと比較すると外観の差異も捉えられる。もっともドアに開閉ボタンを装備する改造で戸袋窓が変形しているなどの変化はあり、まったく昔のままではない。屋根上のベンチレータも撤去されている。

「宇野みなと線宇野行きです」と、線区愛称の呼称を聞いて岡山を離れ、茶屋町まで瀬戸大橋線を進む。朝の同線は四国からの特急や「マリンライナー」、普通列車が次から次に来る。茶屋町までは基本的に単線のため、駅という駅で行き違いがある。

そこで見ていると、瀬戸大橋線と宇野線方面の普通列車には初代「マリンライナー」用の車両を2両ワンマン車に改造した213系が半数近く運用されている模様で、115系は3両のD編成のみが入る。ほかに朝晩と高校生の下校時間の頃合いに、113系4両のB編成がわずかにある。115系D編成の運用では、体質改善車も300代のセミクロス車も混用されているようだ。


115系D編成のうち6本は車号300代の車両で組成されるボックスシートを残すタイプ。その中のさらに2本は湘南色をまとう(岡山ー大元間、写真:久保田 敦)

300代の車内は、まさしく往時を彷彿とさせた。座席生地の茶色は国鉄当時の青と異なり、枕カバーも被せてあるが、座席フレームはグレーのペンキ塗り。壁は無地のモスグリーン、床は濃いグレー。荷棚は金網で、その荷棚や吊革を下げるステンレスパイプを支える上方のブラケットは白ペンキで塗装してある。上部にある支柱類はできるだけ天井色に同化させるという、往時の考えを読んだ覚えがある。目立つ色の吊革を採用する近年とは対照的だ。座席幅が狭い分、真ん中の通路は広い。

これでJNRの扇風機でもあればなあ…などと昔を思い出してみながら、茶屋町の高架駅から宇野みなと線に分かれる。ちなみに、瀬戸大橋線方面の115系普通は四国への乗り入れがなくなり、児島までとなった。宇野みなと線はローカル風情がひとしおで、かつて四国連絡の寝台特急が走っていたことも遠い記憶。格が下がった線路にピッチングが大きくなる。貫通路あたりは連結器のヒンジや緩衝装置が発する音なのか、騒々しさが増す。

終点の宇野は、海に接していたかつての位置からセットバックして久しい。入れ違いに発車する黄色の300代編成を見送り、通学生が去った後に無人の駅を出ると、広い駅前広場の公園と駐車場が広がる。

ワンマンのG編成は切妻全面の個性派車両

岡山へ戻り、次は山陽本線上り方面をたどり、赤穂線で折り返した。40Nと称する徹底した更新工事を行った113系B-19編成で雰囲気や座り心地の違いを味わい、その列車の終点の和気で後続を待った。すると、またもボックス座席のD-24編成に遭遇した。いささか古さが目立つタイプだが、これで新旧車両を本線輸送と支線で分けるとかの、運用上の区分はなさそうなことがわかった。

岡山都市圏を遠く離れ、兵庫との県境にあたる船坂峠を越える。往時の大幹線として勾配もカーブも緩やかだが、駅間は10kmも離れている。時速80kmあたりの定速で山間をたどる音は耳に優しく、平坦な直線を遮二無二走るより心地よい。乗客は3両に数えるほどしかおらず、人の出入りもないので、ボックスの向かい席に足を伸ばしてくつろぐ人の姿を久々に見た。

相生で赤穂線に乗り換える。岡山の電車は姫路までが運用範囲だが、朝と夕方以降に限られ、日中は相生が限界になる。ふと、到着したホームで転落防止ホロの隙間から車端をのぞき込むと、「日本国有鉄道」と「日本車輌昭和51年」の銘板が見えた。1976年生まれ、御年45歳か。

さて、京阪神輸送の延長線上にある姫路発播州赤穂行きの223系にフワフワと揺られると、播州赤穂では12時38分発の岡山行きに接続した。そこで乗車できたのは、ワンマン2両編成のG-06編成である。ワンマン列車には213系も入るが、異形式のため運用は分かれている。

岡山方の先頭車クモハ114が、切妻非貫通の個性的顔立ちである。前照灯を上部中央とし、行先表示を横に寄せたスタイルは元来の姿や切妻貫通型ともまったく異なり、むしろ通勤形103系、さらに言えばかつての西武鉄道401系(近江鉄道に転じて在籍)を連想させる。

乗り込んでみると、これまた形態分類の興味をそそる。側面の外観は滑らかな40Nだが、座席はボックス席が目に飛び込むセミクロスシート。そして視線を上げると天井も以前のまま、ダクトが中央を走る。ところが内装は改まっており300代編成の古びた印象はない。吊手両端のブラケットはステンレスパイプが天井まで届き、座席幅と間隔が少し広く感じる点から、改良された115系1000代が改造種車であることが伝わってくる。

ボックス席ながら窓の内帯は広く、113系にはなく115系にはあると区別してきたドアの手掛けがなく、引き残しがない。それに対して目を転じれば、前方の客室荷棚上部に機器箱が構え、運転室との間に配線を通すカバーが剥き出しでつながる等々と、独特な仕様を挙げたらきりがなさそうだ。通常はクハにあるトイレが、2両編成の後部の電動車クモハ115に装備されている。

ICカードで変わった乗降風景を見て岡山へ

車両の来歴も興味深い。2両目のクモハ115が1500代ということは、元来は中間車モハ115である。国鉄時代のシティ電車化に伴いオリジナルタイプの先頭構体を接合して先頭車とし、まずは3両編成とされた。その後、JR時代になってワンマン車とするため、さらにモハ114も切妻先頭車に改造した。その際にトイレを失うので、クモハ115を再改造してトイレを取り付けた、と読み解ける。


切妻先頭車の運転台背後に陣取ると、運賃表示器を取り付けた仕切りはやはり天井まで届いておらず、中央の扉も開けて、そこに運賃箱がセットされている。つまり運転室が素通しのため、ノッチやブレーキ操作の音がじかに聞こえる。横一枚の前面窓は意外に低く、後方に立って眺めると、やや視線を下に向ける格好になる。前面窓の中央に、客室確認用の丸鏡がついている。

2両編成全電動車のため加速の勢いはよい。ワンマン列車なので、無人駅で乗車した場合は整理券を取り、下車時は現金・きっぷを運賃箱に投入する方式だが、そのどちらを見ることもなかった。長船から西大寺へ進むうち、少しずつ乗客は増えたが、みなICカードを利用しており、ホームに立つリーダライタにタッチして乗降する。運転士は運賃収受に伴う負担が大きく減り、精算のやりとりに手間取り列車が遅れることも減ったとのこと。

数日後にはだか祭りを控えた西大寺で昼下がりながら乗客を増やし、東岡山から山陽本線に戻る。岡山の一つ手前の西川原は、岡山の次の北長瀬とともに2000年代に設置された新駅だが、駅の表記は「西川原・就実」で、車内放送も必ず「にしがわらしゅうじつ」と案内する。高架の近傍に就実大学・短大の校舎が見える。