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●『最後から二番目の恋』以降断り続けた女優業

2002年、『Popteen』の読者モデルになると、益若つばさの世界は変わった。身につけるものが飛ぶように売れることから「100億円ギャル」と呼ばれるようになり、経済効果をもたらすその現象は「つばさ売れ」と称された。しかし、その“流行発信源”は、埼玉県越谷市から1時間半をかけて渋谷に通っていた17歳の少女だったことも揺るぎのない事実である。

地元のイベントなどにも積極的に参加し、バラエティ出演時には埼玉をネタにすることもあった益若。そんな彼女に、“問題作”のオファーが舞い込む。魔夜峰央氏のマンガを原作とし、二階堂ふみとGACKTがダブル主演を務める『翔んで埼玉』(2月22日公開)。埼玉県人が東京都民から迫害を受ける様がユーモラスに描かれ、その世界に飛び込む覚悟はもちろん、演技の仕事を断り続けていた益若にとっては大きな決断だった。

埼玉県越谷市が育んだ、平成を代表するモデル・益若つばさ。「埼玉」と「平成」をテーマに、一時代を築いた女性の原点を探る。

○■『ケンミンSHOW』『さんま御殿』にも感謝

――益若さんは、アメリカ帰りの転校生・麻実麗(GACKT)の家政婦・おかよ を演じています。逃げ惑う姿含め、試写室は笑いが絶えませんでした。

うれしい! よかったです。私が観たときは、硬そうな大人の方々が多くて(笑)、一緒に観たヘアメイクの友達と私ぐらいしか笑ってなかったんです。どちらかというと気まずいというか、「面白かったのかな?」という手応えがない状態だったので、絶対にもう一度映画館で観ようと思っています。先ほど取材していただいた方も、「みんな笑ってました!」とおっしゃっていたのでちょっと安心しました。

そして、何よりも「こんな豪華な方が出ていたんだ!」という驚きも大きかったです。初めて映像を見た時に、すごいところに呼んでいただけたんだということが実感できて。映画の世界に素直に入り込めてなかったような気もしますので(笑)、あらためてゆっくり観たいです。

――そもそも、「益若つばさ=埼玉」のイメージがあったので、すんなり受け入れることができました(笑)。

ありがとうございます。たぶん、埼玉がテーマだった『ケンミンSHOW』や『さんま御殿』に出演させていただいたおかげで、今回の出演にもつながったと思います。演技のお仕事はほとんどしたことがなくて、『最後から二番目の恋』(12)以降はお断りしていたんです。自信がなさすぎて……。

――『最後から二番目の恋』は、なぜ出演することになったんですか?

その時もお断りしようとしていたんですけど、周りの大人の方々から「人生で一度も挑戦したことがないものを否定しない方がいい」「木曜10時のフジテレビだよ?」と説得されて(笑)。悩みに悩んでの挑戦でした。

●「埼玉から渋谷109」往復3時間の記憶

――悩んだ末の撮影はいかがでしたか?

正直、めちゃくちゃ楽しかったです(笑)。それまで何となく観ていたドラマが、現場を体験させていただいたことによってもっと魅力的になったというか。すごくやってよかったと思えましたし、貴重な経験になったことは間違いありませんが、どうしても緊張してしまって。セリフを忘れてしまうんじゃないかとか、自分が足を引っ張ってしまったらどうしようとか不安になって、眠れない日が続いて。その後もオファーしていただいた時に、「またあの時の緊張感に襲われる」と思うと、自信なくなっちゃって。本当に申し訳なかったのですが、お断りさせていただいてました。

そして今回、『翔んで埼玉』のお話をいただいた時も「どうしよう!」と思ったんですけど、あれから数年は経っていたので。自分の仕事も落ち着いて来ましたし、普通のドラマだと悩んだかもしれませんが、埼玉が舞台です。きっと私が埼玉出身で、私だからこそ演じられる役だからオファーしてくださったと思ったので、受けさせていただきました。何よりも、その前からマンガは読んだことがあって。「埼玉をめちゃくちゃディスってる!」という噂を聞いて、どんなものか読んでみたら、本当に半端なくディスってて(笑)。悩んだ点といえば、埼玉がめちゃくちゃディスられている映画に出て、怒られるかもしれないという不安でした。でも、私は埼玉県民。自分が出ることに意義があると思いました。

――なるほど。『最後から二番目の恋』で感じていたようなプレッシャーや不安はありましたか?

前回はドラマで、今回は映画。スケールが全然違っていて、撮り方やセットも何もかも、こんなに映画ってすごいんだと知ることができました。ドラマよりスタッフさんの人数も多くて。一人だけ、素人丸出しのような感じだったと思います(笑)。GACKTさんや二階堂(ふみ)さんもすごく優しい方で助けていただいて、監督からもアドバイスいただきながらの撮影でした。

――GACKTさんとの共演こそ、緊張しそうな気が……。

バラエティでもお会いしたことなかったので、私にとっては架空の生き物(笑)。現場では気さくに接してくださって、演技指導も熱心にしてくださいました。

監督と一番最初に会った時、「本当に素人なので、教えてください」とお願いすると、「戦争の映画を観て、そのぐらいの気持ちで臨んでほしい」と言われて、『火垂るの墓』(88)をあらためて観ました。隠れ埼玉県人の役で、追われる時にただ逃げるわけではなくて、「生きるか死ぬか」を意識することが大事だと。エキストラの方々も本当に必死で、過呼吸で倒れてしまう方がいるくらいでした。

――映画には県民性のみならず、戦争や差別についてもあらためて向き合うきっかけになりますよね。

今回、インタビューを受けていて思うのは、観てくださった方が予想以上に多くのことを考えてくださっていること。私は映画を観て、「埼玉をバカにしている」とは全く思わなくて、すごく愛のあるイジりだったりとか、郷土愛だったりとか、隣の県との助け合いとか……笑いの中にもたくさんのことを考えさせてくれるような作品でした。

○■埼玉は「住」「食」、東京は「衣」「遊」

――益若さんは高校時代、よく渋谷に遊びに行ってたんですよね。

埼玉から1時間半、往復で3時間。16歳の頃から、友達と一緒に109に通っていました(笑)。当時、埼玉には欲しい洋服がそんなに売ってなかったんです。越谷にはレイクタウンがありましたけど、雑誌に出ているような洋服が欲しかったので、いつも109に通っていました。

――ということは、地元にお目当ての洋服があれば行ってなかった。

行ってないと思います。昔からファッションが好きで、雑誌をいつも読んでいました。

――過去のブログでは、「埼玉県という東京とは少し離れた場所で、なんでこんなにファッションとかメイクに執着心があったかはわからないけど、とにかく夢中で楽しかった記憶がある。で、なんでこんなファッションで電車1時間乗って都内に行っちゃったんだろうって思い出もある。笑」(2014年9月2日)という投稿もありました。振り返ってみて、いかがですか?

なんでそんなに通ってたんですかね。当時は、自分がほしいすべてのものが東京にあると思っていました。埼玉は「住」と「食」で、東京は「衣」と「遊」。スナップ写真撮ってもらってから撮影に呼ばれるようになって、埼玉から始発で渋谷に行くこともありました。そして、渋谷から埼玉に帰ると、日焼けサロンでバイト。よくそんな生活続けていたなと思うくらい、すごくハードで(笑)。今みたいに地下鉄では電波が通らなかったので何もやることがなくて、移動中はブログの文面を作ったりしていました。

●テレビは「いつ切られてもしょうがない」

――それだけ大変でも、当時の益若さんにとっては大切な場所だったんですね。

埼玉にいた普通の高校生が、今まで読んでいた雑誌に出させてもらえる。その喜びはすごかったですね。仕事とは感じなかったですし、それを仕事にしようとも全く思わなくて。本当に思い出作りで、いつ辞めてもいい。そう思っていました。

――仕事として意識するようになったのはいつ頃だったんですか?

子どもを生んでからです(2008年に男児を出産)。初めて芸能事務所に入ることになって、「芸能人になりたくない! 私は読者モデル! 別にテレビにも出たくない」と必死に抵抗していたんですけど、『情熱大陸』のオファーがあって。当時、『情熱大陸』を観たことなかったので断ってたんですけど、周りの方から「バカか!絶対に出るべき!」と言われて。それが初めてのテレビ出演です。そこからテレビのオファーがたくさん来るようになって。その後もたくさんのバラエティに出演させていただいて、自分が想像していなかった展開で、今こうして埼玉の映画に出演させていただくことになりました(笑)。子どもを生んだ直後は、「これからどうやって生きていこうかな」とぼんやりと考えるぐらいでした。

――なぜ、芸能人になることを拒んでいたんでしょうか。

「芸能人になりたくない」というか、「なれるわけがない」という気持ちが大きかったですね。読者モデル出身でテレビに出ている人は、当時いなかったので、私みたいな異端児が出られるわけない。そう思っていました。「君は誰?」「どこから来たの?」みたいに不思議がられることも多くて、今思い返すと本当にラッキーだったと思います。

――それでも平成を代表するモデルになったわけですから、分からないものですね。今では読者モデル出身で芸能界デビューする人も珍しくなくなりました。

そうですね。なーちゃん(鈴木奈々)やローラも一緒に雑誌に出ていましたし、にこるん(藤田ニコル)も私と同じ『Popteen』出身。みんなで出ていたので、友達同士で楽しくテレビに出ている感覚でした。

――お子さんがきっかけで、仕事として意識するようになり、その後の将来設計には変化もあったんじゃないですか?

プロデュース業をはじめさせていただいて、今も21歳の頃の目標と変わらないんですけど、自分が表に出なくても、商品が発展していくような人になりたい。それが今でも理想です。テレビは、そんな自分を宣伝できる、すごくありがたい場所だと思っていて。芸能人になりたいから出たいというわけでもないんですよね。ずっとそうなんですけど、「いつ切られてもしょうがないかな」って。それはそれでしょうがない。でも、そうならないように、いいものを作ろう。いいコスメを作り、いい洋服を作っていこう。それは、自分がいつかいなくなるかもしれないから。

――原宿に出店されている「EATME」もその一環ですか?

そうですね。いつかは私がディレクターを降りても続くブランドにしたいですし。もともと、あまり欲がないんですよね。テレビも楽しかったら出ているという感じで。自分のキャラと違うものに出るということをずっとしていなくて。「何でもやります!」という感じでもないんです。

――平成を振り返ると、益若さんから発信された流行もありました。ですが、本人の意図するところではなかったと。

流行を発信したいわけではなかったんですけど……今ならできないことですよね。あの頃の自分だからこそできた。若い子たちへの影響力も含めて、すごく一生懸命でがむしゃらだった感じが、共感してもらえたり。30代になって落ち着いた私は、当時の自分にきっと勝てない。そんなパワーがあったなと思います。

――一方で、今しか発信できないこともありますよね。

そうですね。影響力があったのは10代から20代の頃だと思うので、その当時の自分と闘ってもしょうがない。今の年齢だからこそできる発信をして、若い子たちが私ぐらいの年齢になった時に、「こういう道もあるんだ」と思ってもらえたらすごくうれしいです。

――そういう発信の1つとして、演技はやらないんですか(笑)。

おこがましいなと。でも今回、すごく楽しかったんですよね。またお声をかけていただいたら前向きに考えたいと思います。ひょっとして、それが30代でできる発信なのかもしれないですね(笑)。

○■「怒りの沸点」がない内面

――影響力があった時代にも、地元埼玉で積極的にイベントをやってらっしゃいましたね。郷土愛も昔から変わらないんですか?

正直なことを言うと……郷土愛がそんなにあるわけでもないんです(笑)。埼玉には自慢できるものはそんなにないんですけど……というぐらいの、いじられるスタンスの郷土愛ならあります。「こんなに埼玉すばらしい!」なんて、押し付けるような感じではなくて。『翔んで埼玉』もそんな感じですよね(笑)。観ると、すごく埼玉に行きたくなるわけでもないじゃないですか?

――気になりますよ!

気にはなりますけど、埼玉を押し付けるわけでもない。興味があればよかったら……私の郷土愛もそんな感じです(笑)。

――埼玉に対する思いはずっと変わってないんですね。

埼玉をすごいと思ったことはないですし、「東京に近くていいな」ぐらいで。でも、越谷の観光大使に任命していただいたんですよ。突然市長に呼び出されたので、怒られるのかと思いました(笑)。

――今回の出演も、こうして地元についてあらためて考えるいい機会だったんじゃないですか?

埼玉をフィーチャーをして、イジっていただけてありがたいです。埼玉だから成立したところもあるんじゃないかなって。イジられても嫌味じゃない。埼玉じゃなかったら、炎上するかもしれませんね(笑)。

――そういえば、埼玉はおおらかな人が多いというのは本当ですか?

寛大な人は多いと思います。私もイジられ慣れているので。あと、私は基本、沸点がないんですよ。

――(笑)。

結構、ズバズバ言いそうなタイプに見られがちなんですが、全然怒らなくて。県民性なんですかね。

――周囲の方は? ご家族、ご親戚、ご友人とか。

怒る人いないです。確かに穏やか! みんなイジられることに慣れてまっている……(笑)。

――劇中ではランキングの自虐ネタもありましたが、「温厚な人が多い県ランキング」とか1位になりそうですね。

そうですね! それが伝わる良い映画だと思います。とにかく、みなさん一生懸命演技をしていて。純粋に映画館で声を出して笑える作品だと思います。思った以上にディスっているのに嫌な気持ちがしないというか。真面目に取り組んでいるからこそ起きる笑いだったり。あとは、出ているキャストさんがすごく豪華です。私もすごくビックリしました。そんな中で出させていただいて、すごく光栄でした。

■プロフィール

益若つばさ

1985年10月13日生まれ。埼玉県出身。B型。2002年から『Popteen』読者モデルとして一躍脚光を浴び、身につけたものが瞬時に売れる現象から「つばさ売れ」「100億円ギャル」と称された。その後はバラエティー界にも進出し、2009年からは美容やアパレル関連の商品プロデュースを手掛けている。