「僕は、「お金もないし人脈もないし、バスケットボールは初心者レベル。大田区に何かのゆかりがあるわけでもなかった。何も知らなかったけどできました。」と、やればできるよというのを伝えたいんです。」

(株式会社GWC代表取締役 山野勝行)

 

サラリーマンからプロスポーツチームのオーナーになるという経歴を持つのは、B2リーグ・アースフレンズ東京Zのオーナー兼社長を務める山野勝行さんです。ただ、彼がバスケットボールに興味を持ったのは、サラリーマンをしていた20代後半の頃。バスケを題材として書かれた一冊の小説と出会い「面白いスポーツなのにどうして日本では観客動員数が少ないのだろう」と疑問を持つようになったのです。当時の山野さんは、自分自身は壁にぶつかっていると実感していた時期でもあり、これを機にバスケの道を志すようになります。

 

35歳をリミットと決めて歩みを進めた山野さんは、どのようにしてクラブの経営者となったのでしょうか。そして、その先に見据える夢とは。

 

選手としては活躍できないと感じていた子供時代

小学3年生の時に、野球を始めました。僕はそこまで上手くはなかったので、しっかりベンチを守っていたのですが、コーチをしていた父や、後から野球を始めてキャプテンになった3つ下の弟と比べられることもありました。中学の時は、生徒会活動に力を入れていました。高校ではハンドボール部に入ったのですが、僕と同じタイミングで、中1の弟がハンドボールを始めたんですよ。そしたら弟は高校時代に県でベスト8に入るくらいの成績を残して、少年野球の時と同じで差をつけられてしまいました(笑)自慢の父、弟です!

 

そういう経験から、プレーヤーとしては華が開かないというのが子どもながらに分かっていても、スポーツは好きでした。特に野球はずっと好きで、横浜出身ということもありベイスターズの試合はよく見に行っていました。中学の時にはJリーグが開幕して、サッカーを見るようにもなりましたし、ヨーロッパに観戦に行ったこともあります。一方、大学時代は演劇部に入っていて役者を目指していたんですよ。ただ、結局は役者の世界も体育会系だということに気がつき、この道も諦めることにしました。それからは、体育会ではないもっと論理的な世界が良いと思い、金融系の仕事に興味を持ちました。そういう流れで証券会社に入社して営業を始めたのですが、この世界も結局は体育会系なんだと感じてしまったんです(笑)。そうなるともう諦めもつくので、この世界で絶対に1番になろうと決めました。その決断をしてからは人生が楽しくなっていきましたね。

 

「夢」=「ポジションを語る」ではない。

ただ、20代後半にうまくいかない時期を迎えました。そこでたまたま知り合いの経営者からバスケットボールの小説『ファイブ』(※ノンフィクション作家平山譲によるスポーツノンフィクション小説。)を教えてもらったのですが、それを読んで感動し、主人公である佐古賢一さん(※元男子プロバスケットボール選手)のチームの試合を観に行ったんです。

 

バスケットボールはスピード感があって、小さい選手でもスターになれる。これがかなり自分に響きました。僕も小さくて、スポーツをずっとやっている中で「スターになれるわけがない」とずっと思っていたんです。ただ、バスケットボールは風貌だけ見れば普通の選手でも活躍できる可能性がある。そういった選手が3ポイントシュートで試合を決めるんですよ。小さくてもスターになれることに希望を感じました。あとは、最後までどうなるか分からないというところも好きです。ブザービートもそうですけど、残り1分で10点差があっても、逆転できる可能性があるというのが、バスケットボールの醍醐味ですね。野球やサッカー以上に、最後の最後まで何があるか分からないスポーツだなと感じました。

 

 

当時は(現)三菱UFJモルガンスタンレー証券に務めていたのですが、経営者の方に「山野くんの夢はなんだ」と聞かれて、「UFJの社長になることだ」と言ったことがありました。それは本当に思っていたことだったんですが、「山野くん、夢というのはポジションのことを言うんじゃないんだよ。UFJの社長になって何をやりたいんだ」と聞かれました。それに対して僕は「お金が欲しい」というような答えを返したんですね。そうしたら「お金はツールなんだよ、夢じゃないよ」と言い返されてしまって、僕には夢がないんだと良く分かりました。

 

「それならば夢ができた時に必要なお金の運用や時間管理の能力を身につけて、いつか夢ができた時にチャレンジできれば面白いのではないか」とその方に言われたんです。

 

バスケットボールに感じた、圧倒的コスパの良さ

加えて、期限を決めたほうがいいと。僕は35歳を期限と決めたのですが、その年が近づいてきたときに、1つ夢として挙げられたのがバスケットボールでした。マーケットについて調べていくと、世界中で流行っているのに日本だけ流行っていない。そういうところに面白みを感じましたし、日本代表が強くないというところも変えていかないといけないかなと。そこで、最初はバスケットボールを統括している協会に入ろうと思い、35歳になって最初に東京都バスケットボール協会に電話しました。どうしても諦められない夢だったので、3回も電話をしたものの、それでもダメでした。協会には縁がないなと思ったので、ならば別のルートで夢を叶えようと。そこで思いついたのが、自分でクラブチームを作って、育てた選手を代表に送り込んでメダルを獲ってもらうという考えでした。

 

クラブチームを作りたいとはいえ、お金がないので、コストが低いということは重要でした。実は僕にはプロサッカーチームを作りたいという願望もあったのですが、プロサッカーチームはコストが高すぎて庶民ではできません。ただ、実はバスケットボールチームを作ることは、そこまでコストがかからないんです。バスケットボールチームは5人、登録選手まで入れても10数名くらいの規模です。野球やサッカーはその何倍にもなりますから、人件費が大きくかかるんです。試合数も野球は100試合以上で、遠征も多くなります。バスケットボールは室内競技なので、天候が関係ないということも大きい。当時、bjリーグが1億〜2億円前後でやっているという話を聞いたんですよ。

 

 

 

着実なルート設定で夢を近づける

ただ、バスケットボールチームを作っても、すぐにスポンサーはつかないと思っていました。リーグのインフラが整っていなかったので、スポンサーとしても投資することのリスクが高かったんです。なので、まずはファン作りだと。2009年から、サラリーマンをやりながら「ワイワイ練習会」という大人が楽しくバスケットボールができるサークル活動を、新宿区、大田区、品川区を中心に23区で展開し始めました。これからの時代は、大人になってもスポーツをすることや、自分の趣味に時間を割くことのニーズが高まっていくだろうと感じたからです。何より初心者レベルの自分がうまくなりたかった!(笑)。

 

その後は、バリバリチームというクラブ日本一を目指すチームを作りました。2012年には会社を辞めて社団法人を設立し、最終的にはそれを元にプロチームを作ることを目標としていました。そうしたら翌年の2013年夏に黒田電気という当時NBDL(※NBLの2部組織に当たる)に所属していた企業から、権利譲渡の話を頂戴したんです。その権利譲渡の審査に受かって、いきなりプロチームを持てることになりました。

 

当時はbjリーグとNBLがプロ化を進めている時期で、7月ぐらいにその話が来たのですが、8月に総会があるので、それまでに準備しないといけないと言われました。スポンサーや会社、選手などに関する様々な問題がありましたが、どうにか1ヶ月で草案を作って、権利譲渡の審査を通りました。最初は、NBDLに参入することになりました。

 

そして、クラブの運営会社となる株式会社GWCを作りました。バスケットボールの試合は何度も見に行っていたので、ホームゲームを運営するイメージはなんとなくありましたが、1番の問題は選手やコートをどうするかということ。選手の獲得のノウハウは分からなかったですし、そこに時間を割くと営業ができないという状況でした。

日本一の監督をも口説き落とす交渉術

僕は「ワイワイ練習会」を始めた2009年から、ずっと世界で勝ちたいと思い続けてきました。だから、1番最初に日本のトップの監督を呼ぼうと考えたんです。そこで、日立サンロッカーズ東京(現・サンロッカーズ渋谷)でヘッドコーチをしていた小野秀二さん(アースフレンズ東京Z初代ヘッドコーチ)を獲得しようと決めました。

 

小野さんは見学にも来てくれて、3回目に会った時に正式な就任の要請をしたのですが、断られてしまいました。他にも様々なオファーが来ていたと思いますが、僕は諦めずにその後も小野さんと何度もお会いしていました。こういうコンディションの選手がいて、映像を見てもらいたいとお願いすると、「これは膝を怪我してるから、調べた方がいいよ」とアドバイスをくれて、調べると本当に怪我をしていたということもありました。このように9ヶ月間、相談に乗ってもらったりしていたら、徐々に小野さんも自分ごとのようになってくるんですよね。段々と世界で勝つための具体的なアドバイスもしてもらえるようになって、最終的には監督になってくれました。お金もないので、報酬は申し訳ないくらいの額でしたが、本当によくやっていただけたと思います。感謝しかありません。

 

 

やはり、お金の面は大変で、どこまでが赤字でも持ちこたえられるか、どこで黒字にしないといけない、といったことは計画していました。僕たちは最初から銀行融資を受けています。銀行からは貸せないと散々言われましたが、僕からすれば貸してくれない銀行はないと思っています。借りられないのは、貸してくれるほどの価値を伝えきれてないか、もしくは本当に価値がないだけです。

 

スポンサーは0から集めましたし、この仕事を始める前の人脈は一切使っていないです。「お金や人脈がないからできない」という話を良く聞きますが、僕は、お金も人脈もなければ、バスケットボールも初心者レベルですし、大田区に何かのゆかりがあるわけでもなかった。それでもできるということを伝えたかったので、今までの人脈は一切使わずに、スポンサーを集めました。スポンサー数は、1年目は20社ほどで、4年たった今は200社近くです。特に初期の頃は未来を語って、スポンサーを集めるしかなかったので、そこにお金を出してくれた方には、本当に感謝です。もちろん、地域・ファン、多くの企業のみなさま、関わっていただている全員に、心からありがとうの気持ちを強く思っています。

 

 

ビジネスとして1産業のプレイヤーに

僕たちは、NBDLという1番下のリーグで、何もない状態でスタートしていたので、Bリーグができてインフラが整ったことはとても嬉しいです。プロリーグができてメディアの扱いも変わりましたし、これは僕たちの力ではできないことなので、感謝しかないです。Bリーグができる前と後では売り上げが大きく変わりました。

 

とはいえ、Bリーグはまだまだこれからです。今の売上を見ると、B1もB2もまだまだ伸びしろがあります。僕は常々、自分のクラブがBリーグ、さらには経済界全体の中で産業の1プレーヤーであり続けたいと思ってやっています。今までは大企業の福利厚生の1部としてやっていることも多かったかもしれませんが、ビジネスとして1産業のプレイヤーとなることが大切です。

 

プロチームがあることによって街が活性化して、経済がしっかりと盛り上がって、それによって好循環が生まれるというのが理想です。今は大田区と協力して事業を進めさせていただいていますが、この城南エリアが常に活性化していくということが大切だと考えています。Bリーグになってインフラがある程度整った以上、各チームの経営者たちが本気になって、産業の1プレイヤーとして売り上げを伸ばして行くことは必要不可欠です。

 

主体的にビジネスを生み出していく

今、僕たちは大田区総合体育館をホームアリーナとして使わせていただいています。各企業や地域の皆さまのご協力があってのことなので、本当に感謝しかありません。ただ、大田区総合体育館は収容人数が約4000人なので、B1リーグに昇格するためのライセンスである、収容人数5000人には到達していません。現在の平均入場者数は1400人程度で、土日だと2000人くらい入るようになってきています。実は僕たちはほとんど広告宣伝費をかけておらず、去年の広告宣伝費はチラシ代の300万円ほどです(笑)。

 

SNSにはもちろん力を入れていますが、リスティング広告などのWEBマーケティングには資本投下できていません。今はチラシだけで2000人近くを集めていますが、売り上げを積み重ねていって、プロモーション費用をもっと投下するようになれば、4000人収容の体育館では足りなくなるかもしれません。このままのペースで続けていけば、1万人や2万人収容のアリーナが必要になってくると思います。

 

大田区総合体育館は、ものすごく綺麗なアリーナですし、都内屈指の素晴らしい施設です。感謝しかありません。ただ、プロチームの興行専用に作られているわけではないので、チケット売り場やVIPルームがないですし、映像設備にも課題があります。大田区・指定管理業者様には多大なるご協力をいただいておりますが、試合の時は前日や当日の朝に搬入作業をして、試合当日の夜にすべて撤去する必要があります。これをやっている限りは社員の労力もかかりますし、準備できることも限られてしまいます。だからこそ、しっかりと自分たちが普段から使えるホームアリーナを整備していくことも重要なことだと考えています。今、東京商工会議所の大田支部青年部では、2万人収容のアリーナを作るプロジェクトが動いています。

 

具体的な場所はまだ決まっていませんが、私たちは大企業がバックについているわけではないので、産業の1プレイヤーとして、地域活動から地道にスタートする必要があります。

 

東京23区は、Jリーグですら本拠地を持つクラブがいない激戦区です。その中で、アースフレンズ東京Zがここまでやれているというストーリーを伝えていきたいと思っています。