「メジャー以外の選択肢はありません」

 かつてこう言い放った18歳の大谷翔平は、5年の時を経て、ついにスタートラインに立った。その5年間、投手コーチとして大谷をすぐそばで見続けてきた男がいる。ジョニー黒木こと黒木知宏である。

「魂のエース」として千葉ロッテを支えた黒木だが、故障に悩まされ、ついには戦力外通告を受ける。その後、メジャー挑戦を考えるも断念。2013年から指導者の道を歩みはじめた。黒木の目に、5年間の大谷翔平は、どう映ったのだろうか。


メジャーでも二刀流に挑む大谷翔平

「球は速かったけど、迫りくるような怖さはなかった」

 大谷が入団してきた当時の第一印象を黒木はこう振り返る。

「ドラフト1位で指名されるだけの能力はあっても、投げ方に上手さはなかった」

 パ・リーグの各バッターも、「速いけど当たらない球じゃない」と口を揃えていた。

 当初、ファイターズ首脳陣は、即戦力として使えるバッターとしての起用を考えていた。そして何年後かに2ケタ勝てるピッチャーになればというのが本音だった。

 大谷が当初の評価を上回ることができたのはなぜなのか。2年目から3年目にかけて起きた変化を、黒木は見逃さなかった。

「キャッチボールが全然違った。入団当初はキャッチボールそのもののやり方もわかっていなかった。アマチュア時代と変わらずにやっていた。それがある時を境に、構え方、立ち方、セットポジションの入り方、ボールを投げる角度、すべての動作を一球一球、ものすごく丁寧にやり始めた。一貫してこだわっていたのは、投げたい方向に向かって、真っ直ぐなラインになっているかということ」

 力のあるボールを投げるために大谷は模索していた。

 練習に対する姿勢。これが黒木に「大谷は野球選手の教科書」と言わしめる所以(ゆえん)である。

「雑なキャッチボールをしている姿は一度も見たことがない。そのあたりから、投げたボールがどこまでも伸びていくような強さが出始めた」

 そのキャッチボールには狙いがあった。

「毎日の体の変化をキャッチボールでチェックしていた。何か感覚が違うなと思ったら原因を探る。例えば、今日は登板して2日目だからとか、ウエイトトレーニングの後だからとか」

 大谷にはこんなことがあった。

「2年目のシーズンを迎えたある日、大谷のピッチングを首脳陣たちが見ていたとき、全員が口を揃えて、『危ない』と言ったんです」

 ウエイトで体を大きくしていたからか、フォームがバラバラだった。コーチ陣は、すぐにネットスローに練習を切り替えさせた。

「世界の猛者たちに勝つためにはウエイトトレーニングをしないといけない。高みを目指す選手なので、やればやるほど体重が増えて、強い体になっていった。前年の体重から5キロ、10キロ増えて、投げ方が全く違っていた」

 フォームさえ間違えなければ、腕が振れるというのは大谷自身でわかっている。誰かから言われなくても、自分で判断できる指標がほしい。それがキャッチボールだったのだ。

「5年間、その練習ばっかり。メジャーに行っても変わらずやるでしょうね」

 大谷は、完成された大器だと思われがちだが、黒木は「発展途上」だと言い切る。大谷自身もエンゼルスの入団会見で「完成された選手ではない」と発言している。

「いいフォームで投げているときはいっぱいあるけれど、本人の中ではまだ構築されてない。万全の能力をもってしなくても、70%の力で抑えてしまう。でも目指すところはそこじゃない。圧倒的に抑えなきゃ」

 大谷のボールは、花巻東時代からすでに160キロを計測していた。スピードボールを放つ技術は、すでに高校生で確立されていたといえる。しかし、黒木が最初に述べたように、ボールに強さは潜んでいなかった。大谷のすごさはどこにあったのだろうか。

「勝負球が中に入らないコントロール。追い込んでからスライダー、フォークをとらえられたことは、ほとんど見なかった」

 ここで黒木の指すコントロールのよさというのは「コースに投げ分けられる」ことではない。勝てるピッチャー=勝負どころでミスの少ないピッチャー。ここぞというときの大谷のコントロールはピカイチだった。

 世界一のピッチャーになるために黒木は3つの課題を大谷に与えた。スピードボールを追い求めること。ボールの質を追い求めること。質のいいボールを投げる割合を上げること。

 黒木自身は現役時代、スピードへのこだわりを捨てている。スコアボードに表示されるスピードを気にしすぎて、先輩に怒られたことがあった。そこから制球力とキレで勝負するようになると、勝ち星が舞い込むようになった。だからといって大谷に強制することは一切しない。

「大谷はスピードボールにこだわりを持っている。けれど、あいつの感覚はあいつにしかわからない。僕にはできなかった3つのことを彼は追い求めることができる。その夢を託したい」

 強さのあるボールをより高い確率で投げるために何をすべきなのか、大谷本人はわかっていた。

「僕らが見えてないところで相当努力していますよ。体にはっきりと出ていましたから」

大谷は、「2つのポジションで世界一の選手になる」という目標に向かって一直線に進んでいった。

「前進、後退関係なく、人一倍練習するという意識は揺るがなかった。ファイターズに入ったことは運命かもしれないけれど、入ったから、特別に夢に向かって頑張ろうと思ったわけではない。小さい頃から、明確な目標に向かって走ってきた。わかりやすく言うと、野球小僧。野球が大好きで仕方がない」

 2017年シーズンの大谷を見ていて、ファンが心配していることは体のことだろう。

「手術後、復帰に向けて少しずつやっている。肉離れの患部も良くなってきている」

 黒木が「まずは身体のメンテナンス」と言葉に力を込めるのは、自身の経験が大きい。黒木は、小さい頃からどれだけ投げても、肩の痛みとは無縁だった。プロ野球の世界に入っても黒木は投げ続けた。しかし、右足首痛を皮切りに、左膝、右足肉離れ、そしてついに右肩へ。医師の診断は「右腱板部分断裂」。車のハンドルも握れなかった。

「下半身の故障が一番怖い」と黒木は話す。

 まさに大谷は今年、右足首を手術した。大谷は黒木と同じ道を歩むおそれはないのだろうか。将来のことはわからないが、黒木は「大丈夫だ」と太鼓判を押す。

「僕は現役のとき、『痛い』と声を上げることができなかった。今はそうならないように周りがサポートするようにしている。ピッチングフォームを見たら、疲れているかわかりますから」

 長く活躍できる選手でいること。それが大谷の願いでもある。だからこそ、大きな故障をしないための準備、環境作りが必要なのだ。大谷は、大きな故障をすることなく日本で5年間やりきった。

「正直、安堵の気持ちはあります(笑)」

 黒木はそう答える一方で、心残りがあるという。

「メジャーを想定した起用はできなかった。そういった意味で準備をさせてあげられなかった」

 メジャーリーグの試合数は日本に比べて多い。(NPBはレギュラーシーズン143試合制。MLBは162試合制)。ベンチ入りできるのは、投手、野手合わせて25人。中6日で投げていた日本とは違い、中5日、中4日の登板が基本だ。

「もしいいパフォーマンスを出せたとしても、その後のリカバリーができてない状態で試合に出続けるのは肉体的にも精神的にも負担になる」

 それでも黒木は言う。

「適応する力は十分にある」

 5年間を振り返って、黒木が大谷に驚かされたことがある。

「入団してから、ひと言も『メジャー』という言葉を彼の口から聞いたことがありません。一貫してチームのため。だから僕は大谷を人として信用している」

 それは、日本一を目指して一丸となるチームメイトへの、大谷なりの配慮だったのかもしれない。だからこそ「メジャーへの準備が足りないのでは?」という声もあがる。しかし黒木はその意見を否定する。

「準備なんて、本人にしかわかり得ないことであって、人の物差しで計ることではない。本人がどこを目指すかというのが一番大事」

 そんな黒木が大谷に期待するものは何なのか。

「二度と大谷翔平みたいな選手は出てこないと思われる選手になってほしい。記録にも記憶にも残る伝説の選手。わかりやすいタイトルでいえば、サイ・ヤング賞。160キロを投げるピッチャーは何年後かにきっと出てきますから」

 普段は滅多に口を出さなかった黒木だが、唯一、大谷に力を込めて伝えたことがある。

「男になれ! ファンや子どもたちに見られていることを意識して、すべてのことに取り組んでほしい。僕たちができなかったことをお前に夢として託しているという意味を込めて。本人に響いているかはわからないけど(笑)。男の生き様が見たい」

 黒木は、はにかんだ顔でそう言った。

 大谷が選んだチームは、ロサンゼルス・エンゼルスだった。しかし、チームがどこであろうと、大谷が目指す頂上は変わらない。

 ファイターズで過ごした5年間は、単なる通過点ではなかった。世間は「二刀流」で大谷をもてはやし、専門家は「中途半端になる」と懸念した。しかし、大谷は、人のせいにすることなく、自分で道を切り開いてきた。

 もっとうまくなりたい。新しい世界を見てみたい。心の赴くままに、時に冷静に、時に大胆に、自らの意志で決断できる。それが大谷なのだ。

「先入観は可能を不可能にする」

 史上最年少でNPBからMLBに移籍した大谷が大事にしている言葉である。幾度となく、自身の決断を正解にしてきた男は、メジャーリーグでも大きなことをやってのけるに違いない。

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