当時中学1年だった横田めぐみさん(51)が北朝鮮に拉致されてから、15日で38年になる。同級生らは毎年、「今年こそは」と救出を期待してチャリティーコンサートを開いている。横田さんとクラスメートのバイオリニスト・吉田直矢さん(51)は、また会える日が来ることを信じている。

「小学校の卒業アルバムのタイトルは『あら波』でした。当時の馬場校長が、卒業後は日本海の荒波のような人生が待ち受けているだろうが、それに負けず乗り越えていきなさいという意味を込めてつけたのですが、その後のめぐみさんの厳しい人生を暗示しているかのようで……」

と振り返るのは、バイオリニストの吉田直矢さん(51)。「めぐみさん」と呼ぶのは、北朝鮮に拉致され、現在も消息不明の横田めぐみさん(51)のこと。

1977年11月15日、新潟市内で中学校からの帰宅途中に拉致されてから38年になる。市立新潟小、市立寄居中と同級生だった吉田さんは、「もうひとつ」と続ける。

「めぐみさんは歌がとても上手でした。小学校卒業の謝恩会では、コーラス部のソロでシューマンの『流浪の民』を2章節ほど歌ったんですね。その歌詞がまた“慣れし故郷を放たれて 夢に楽土求めたり”ですから……」

あの日、忽然と姿を消したクラスメートを襲った事件と重ね合わせてしまうという。

めぐみさんとは特別親しい間柄だったわけではない。山形県出身の吉田さんは小学2年で新潟小に転入。めぐみさんは小学6年のとき、広島から新潟へやって来た。

「小学校は別のクラスでしたが、中学校では同じクラス。でも、そのころボクはジョン・トラボルタや矢沢永吉に憧れる不良でしたから(笑い)。女の子と口をきくのは硬派のすることじゃないので、ほとんど話したことはなかった。めぐみさんは勉強ができる優等生で、中学のバドミントン部では1年生ながら地域の強化選手に選ばれていました」

通学路が一緒で、彼女がいつも友達2人と登下校する姿を見かけていた。吉田さんはバスケットボール部で、体育館の隣でバドミントンの練習に励むめぐみさんを目にしていた。あの日も、めぐみさんは部活動を終えて下校した。

「彼女がいなくなったことは、翌日、担任の先生から聞きました。びっくりしましたね。クラスでは、誘拐説、家出説、交通事故説、自殺説などが飛び交いました。誘拐なら身代金とか要求してくるはずだし、事故ならいずれ見つかるだろうし……。

まさか拉致されたなんて、想像もしませんでしたよ。彼女の親友は“めぐみちゃんは明るくて強いから”と無事を信じていて、それを信じるしかなかったですね」

吉田さんは中学3年になると、音楽家を目指して東京へ転校。そのまま音楽関連の高校、大学へと進学した。パリに留学し、プロのバイオリニストとしてデビューするなど多忙な時期を過ごした。

一方、めぐみさんの消息をめぐっては、’97年ごろになって、ようやく北朝鮮による拉致が浮上してきた。

「工作員の話によれば、暗い船室に閉じ込められて、何十時間もかけて北朝鮮に渡ったという。13歳の少女がどんなに怖い思いをしたか。船室の壁を爪で引っ掻いて、両手の爪はほとんど剥がれるほど血だらけで、嘔吐物にまみれ、拉致した工作員が目を背けたぐらい酷かったようです」

と吉田さんは目をうるませる。小泉元首相の訪朝後、めぐみさんは自殺したという北朝鮮側の調査報告が出たり、写真が出てきたり、ニセ遺骨が返還されたりしたが─。

「写真は撮影場所など偽装工作はあるようですが、めぐみさん本人だと思った。遺骨はもう論外ですよ。実子とされるキム・ウンギョンさんは彼女と似ています。ただ、娘さんや元旦那さんが“自殺した”と証言していますが、それは言わされていると思う。彼女はいまでも生きている。

もちろんボクらの願いでもありますが、死んだという決定的な証拠は出ていませんから」

と吉田さんは強調した。

そんな彼は、めぐみさんのご両親と食事をすることがある。

「節々でつらさが垣間見えます。クリスマスがとてもつらいらしい。“めぐみが笑顔で楽しかったクリスマスを思い出す”って。娘さんがいなくなって、人生の半分を費やしておられる。生きているのか死んでいるのかわからないまま、生き地獄ですよ。おふたりが元気なうちに、なんとかめぐみさんと会わせたい!」

と目を赤くして訴えた。親子の再会がかなったら、同級生として考えていることがある。

「38年の歳月は重い。日本で暮らしてゆく困難が現実にはあると思うんです。だから、同級生のボクたちとカラオケでも行って、得意な歌を聴かせてほしい。ゆっくりと少しずつ、慣れていけばいい。失われた青春を少しでも取り戻してもらえたらいい」

<フリーライター・ 山嵜信明>
*本記事は『週刊女性』11月24日号の内容に加筆修正したものになります