【エンタがビタミン♪】「どうなるのか分からなかった」。大竹まこと、96年の人身事故について重い口を開く。
1996年8月、タレント大竹まことが接触事故をおこした。衝突した相手は死亡してしまうという最悪の結末を迎えたが、その2週間後には芸能界に復帰した大竹。歯に衣着せぬ、タブーのないトークが売りの大竹にも話したくない過去がある。そこに女優の樹木希林が切り込んだのだ。
19日の『大竹まこと ゴールデンラジオ』(文化放送)でのこと。この日のゲストは樹木希林だった。2004年スマトラ島沖地震があった際、樹木は仕事の関係で孫を連れてその場にいた可能性があったことを明かす。もしかしたら自分のせいで孫になにかあったかも知れないという思いを話した上で、大竹が過去に起こした人身事故について「お会いしたら、うかがいたかった」と質問をし始めた。
その人身事故とは1996年8月、テレビ番組の収録を終えて帰宅途中の大竹が運転する乗用車と、信号を無視したオートバイが出会い頭に激しく衝突。オートバイに乗っていた男性が死亡したのだ。
「どう立ち直ったのか」と樹木は問う。事故直後の心境を振り返り、大竹は「どうなるのか分からなかった」と語り出した。事故後に現場検証を行った警察は、0:100の割合で大竹に非がなかったことを発表。当時レギュラー出演していた番組からも「悪くないなら出ろ」と言われたのだが、大竹は到底そんな気にはなれなかったという。
芸能活動を一時休業し、やることがなく夜中に意味なく走ったりする日々の中で世間の人は大竹に励ましの言葉を掛けてきたそうである。「普通なら賛否両論あるのでは?」との樹木の質問に、大竹は「鈍感なせいかも知れないが」とことわりを入れた上で「あまりなかった」と答えた。当時の報道によると、遺族さえも「早く仕事に戻ってください」と連絡があったようだ。そのような声を受けて彼は復帰することにしたのだ。
大竹は東日本大震災時に被災者の身に起きた「手を繋いでいた亭主が流された」、「家族が流されて自分だけ残った」という話を引き合いに出した。生き残った側になったことの悲劇に同じ思いを感じたのだろう。
今まで事故について黙っていたのには理由があるという大竹。自分だけが語るのは「相手(死亡した男性)に対して公平ではない」こと、そしてどう話しても「言い訳に聞こえてしまう」というのだ。今後もラジオや書籍などで、この事故について語ることはないだろうと締めくくった。
(TechinsightJapan編集部 佐々木直まる)
19日の『大竹まこと ゴールデンラジオ』(文化放送)でのこと。この日のゲストは樹木希林だった。2004年スマトラ島沖地震があった際、樹木は仕事の関係で孫を連れてその場にいた可能性があったことを明かす。もしかしたら自分のせいで孫になにかあったかも知れないという思いを話した上で、大竹が過去に起こした人身事故について「お会いしたら、うかがいたかった」と質問をし始めた。
「どう立ち直ったのか」と樹木は問う。事故直後の心境を振り返り、大竹は「どうなるのか分からなかった」と語り出した。事故後に現場検証を行った警察は、0:100の割合で大竹に非がなかったことを発表。当時レギュラー出演していた番組からも「悪くないなら出ろ」と言われたのだが、大竹は到底そんな気にはなれなかったという。
芸能活動を一時休業し、やることがなく夜中に意味なく走ったりする日々の中で世間の人は大竹に励ましの言葉を掛けてきたそうである。「普通なら賛否両論あるのでは?」との樹木の質問に、大竹は「鈍感なせいかも知れないが」とことわりを入れた上で「あまりなかった」と答えた。当時の報道によると、遺族さえも「早く仕事に戻ってください」と連絡があったようだ。そのような声を受けて彼は復帰することにしたのだ。
大竹は東日本大震災時に被災者の身に起きた「手を繋いでいた亭主が流された」、「家族が流されて自分だけ残った」という話を引き合いに出した。生き残った側になったことの悲劇に同じ思いを感じたのだろう。
今まで事故について黙っていたのには理由があるという大竹。自分だけが語るのは「相手(死亡した男性)に対して公平ではない」こと、そしてどう話しても「言い訳に聞こえてしまう」というのだ。今後もラジオや書籍などで、この事故について語ることはないだろうと締めくくった。
(TechinsightJapan編集部 佐々木直まる)