54歳「がん全身転移」を克服した男が走る意味
肺の3分の1は機能していない大久保が、マラソンを走り続ける理由とは?(撮影:尾形文繁)
長身の締まった体躯、さっそうとして精悍(せいかん)な面持ち。市民ランナーとして、いかにも歴戦のつわものといった雰囲気を漂わせている。まもなく54歳を迎えるが、年に3回はフルマラソン(42.195キロメートル)に出場。今も自己記録更新に挑み続ける。
しかし肺の3分の1は機能していない。腹部からは50個近いリンパ節が摘出されている。11年前に骨折した右足首も、リハビリテーションが不十分だったために万全ではない。そして、右側の睾丸(こうがん)も失われている。
大久保淳一(おおくぼ じゅんいち)は2007年、外資系の証券マンとして公私共に満ち足りていた42歳のとき、精巣がん(ステージ3の重症)を患い、そのがんは全身に転移していた。のみならず、その治療の副作用で間質性肺炎を発症。この病気になると、スポンジのように柔軟だった肺組織が線維化して発泡スチロールのようになり、その部分は酸素を取り込めなくなる。
仕事に復帰するまでの1年半、文字どおり死線をさまよった。生き永らえた命は、がん経験者、そして今なおがんを抱える人たちを支援する社会活動のため自ら設立したNPO法人「5years(ファイブイヤーズ)」にささげている。
「5年生存率という言葉は大嫌い。ファイブイヤーズには、5年後には皆元気に活躍しているという願いを込めた。がん患者に対する世の中の意識を変えたい」
元気になった人の道しるべが欲しい
2015年には会員制のSNS(交流サイト)を立ち上げた。がんになった人の情報はネット上にあふれているが、どちらかといえばつらい闘病記が多い。そうではなく、元気になった人の情報や社会復帰をするための道しるべが欲しいと、自分自身が渇望していた。ファイブイヤーズには、がんを経験した人が情報発信するだけでなく、患者や家族の相談にも乗る仕組みを取り入れた。プロフィール、罹患(りかん)した部位、治療、リハビリ、そして復帰への道のりがつづられている。
かつて大久保の友人の女性が米国で乳がん治療を受けた際、現地の主治医が「あなたと同じタイプの乳がん患者だよ。連絡しても問題ないから」と、連絡先を記したリストを渡してくれたという。患者同士のつながりの重要性を示すエピソードだ。日本は個人情報保護の壁が厚く、同じことはできないが、それがヒントになった。登録会員数が多いほど、サイトを訪れた人が自分と似通った人を見つけやすくなる。ファイブイヤーズの会員数は4400人を超えた。
大久保は自分を鼓舞するだけでなく、「復活」という希望を与えるためマラソンを走り続ける。
浮き沈みの激しい人生だ。
生まれ育ったのは長野県茅野市。スケートの盛んな土地で、父親は国体で連覇を果たしたスピードスケートの名選手だった。「田んぼリンク」でスケートに親しんだ子ども時代、周りから父の武勇伝を吹き込まれた。比較されることを嫌い、陸上競技に転向。県立諏訪清陵高校時代、400メートル走で全国大会を目指すまでになった。
しかし高校最後の大会目前に負傷し、ドクターストップがかかった。多感な10代での挫折で、「努力は報われない」と勉強にも身が入らなくなった。2浪の末、名古屋大学工学部応用化学科に入学。修士課程まで終えて、三菱石油(現JXTGエネルギー)に就職した。
フラスコを振るより背広を着こなす人生にあこがれ、営業職を志望。最初は見よう見まねだったが、しだいに誠実さが認められ、社内外から一目置かれるようになった。でも、つねに上を見ていた。
入社5年目に会社派遣で1年間、米国テキサス州立大学に留学した。出世コースだ。ビジネススクールには意欲旺盛な若者が集う。だが自分は学位を取る必要のない身分で、逆に焦りが募った。帰国後、本格的な留学のための準備を始めた。
妻の英子は2年後れで入社して隣の席に座っていた後輩だった。新婚早々に夫は受験勉強漬けの日々。2度目の挑戦で合格し、英子はその合格通知を社宅で受け取った。自費留学イコール退職を意味するが、次の目標に向けて歩み出す夫は頼もしく見えた。
答えは自分で見つけ出すもの
大久保が入学したシカゴ大学ビジネススクールは、全米トップレベルの伝統校。現地で長女が生まれ、貯金が底を突きかけ、夏休みにはインターンシップで働いた。
インターン先であるゴールドマン・サックスのニューヨーク本社には、金融界で一旗揚げたい連中が各地から集っていた。当時、大久保は金融にそれほど関心があったわけではない。座学の途中、ついうとうとしてしまった。すると講師が「今日のダウ平均株価はなぜ下がったの」と質問を浴びせた。
適当に切り抜けようとすると、相手の怒りは増幅された。「正直に『わかりません。でも答えを探してきます』と言って出ていけばいいのよ」と、ぴしゃりと言い渡された。戒めの言葉は、その後ずっと大久保の心に刻まれた。答えは自分で見つけ出すものだと。
さんざんな出だしだったが、結局、ゴールドマンの日本法人から誘いを受け、それに乗った。
35歳の新入社員だが、実力だけが物をいう世界。株式などはベテランの担当者がいて、すぐには太刀打ちできそうもない。ならばと金融ビッグバンで取引が緩和されたデリバティブ商品の担当を願い出た。息子も生まれ、家族4人の生活のためにも、ピラミッドの底辺から一刻も早くはい上がり、居場所を確保したかった。
営業成績を上げようと新規の取引先の部長に「何でもやります」と持ちかけたところ、あろうことか「一緒にホノルルマラソンを走れるか」と言われ、真に受けた。ゴールドマンに入った翌年の2000年12月、有給休暇を取って自費でホノルルに同行し、人生初のフルマラソンを走り切った。自分を向上させるため、のめり込むものが欲しかったのか、はまった。
30代後半、営業成績は伸び、マラソン大会も出るたびに自己ベストを更新した。公私とも成長が実感でき、仲間も増えた。2003年、40歳を控えて、「サロマ湖100キロメートルウルトラマラソン」という新たな大目標を据えた。初挑戦ながら、12時間台で完走した。
その後3年連続して完走。明けて2007年2月の3連休は、家族で長野県・軽井沢に旅行した。まだ明け切らぬ早朝のトレーニング中、凍った路面に足を取られて崖を転げ落ちた。右足首はだらりと折れ曲がり、身動きできない。気温マイナス5度の真冬の別荘地に1時間横たわったまま。凍死するかもしれないと思い始めたとき、タクシーが通りがかり、命拾いした。
地元の病院の休日診療では治療が手に負えないと、英子は東京へと車を駆った。幸い、自宅から車で10分ほどの東京慈恵会医科大学附属病院に、空きベッドがあった。5時間にわたる手術だったが、順調に回復した。
退院を翌日に控え、気づいた異変
1カ月して退院を翌日に控え、シャワーを浴びていた大久保は異変に気づく。右側の睾丸がビー玉のように硬くなっていた。
知らされた整形外科の主治医は青ざめ、大慌てで泌尿器科医に連絡。その日のうちに、さまざまな検査が行われ、病名は精巣がんだと告げられた。現実感はほとんどなかった。大久保の大学時代、母親が乳がんを患っていたが、それもだいぶ昔の記憶だ。日頃から人一倍健康に気を配り、人間ドックを毎年受診し、2カ月前にフルマラソンを完走しているのだ。
泌尿器科の主治医から、ランス・アームストロングという、米国の自転車ロードレース選手が、同じ精巣がんから競技に復帰したことを知らされた。プロのスポーツ選手でもがんになるのなら、がんの原因を探しても仕方ない。
手術直後、がんは全身に転移していた(撮影:尾形文繁)
しかし、右睾丸摘出手術の直後、がんはリンパ節をはじめ、首、肺など全身に転移していることが判明した。この段階まで進むと、5年生存率は49%、抗がん剤の治療に懸けるしかない。強い抗がん剤3剤の投与が始まると、副作用で吐き気が襲い、髪の毛も抜けた。
上京した両親は驚愕し、大久保も毎日のように病室で号泣した。しかし、病室に顔を見せる英子は、「泣き虫だね、薬に感謝しなさいよ」とあえて突き放し、いつも笑顔だった。大久保が孤独に耐え切れず夕暮れ時に電話すると、「子どもの世話と夕飯の支度で忙しいのよ」と一蹴された。
強気を装った英子は毎晩、自宅で手を合わせていた。「家族が普通に接してくれるのは本当にありがたく、随分と気が楽になった」と、大久保は振り返る。
しかし腫瘍(しゅよう)の影は消えず、この年の8月には15時間にも及ぶ大手術で腹部のリンパ節を47個取り出した。5日後、すべてがん細胞の死骸であることが判明し、前途に細い光明が見えてきた。医師は日常生活に戻れればいいと考えていたようだが、大久保は「マラソンに復帰してみせる」と誓っていた。
その直後、またも悪夢が襲う。10月、抗がん剤に伴う薬剤性の間質性肺炎が急速に悪化した。間質性肺炎まで起こせば、5年生存率は2割以下といわれる。医師は「酸素ボンベが手放せない生活になるかもしれない」と告げた。がんの発症や転移の知らせ以上に衝撃だった。当たり前の生活もマラソンも失われるのだ。英子は、「(X線写真で)真っ白く見える肺がパパの模様だと思えばいいし、また走れるかもしれないよ」と、どこまでも明るかった。
集中的な治療の末、間質性肺炎を克服できたが、肺機能の3分の1は失われ、二度と戻ることはないと知った。退院の日、ボロボロの体だったが、とにかく復帰へのスタート地点に立った。
入院期間は10カ月、職場に復帰するまでに1年半かかったが、日本企業に比べて、外資系、特に大久保のいたゴールドマンには、がんであることを公にしやすい雰囲気があり、いわゆるメンター制度もあった。大久保はがんを抱えながら、入退院の合間に出社して仕事の指示を出し、時には病室で、部下や取引先と打ち合わせをすることもあった。
「トップを含めて、上司は『自分たちにできることは?』と声をかけてくれ、がんを経験した社員は相談相手になってくれた」
走れなければ元の自分とはいえない
部長級から幹部級になるという昇進の時期こそ逸したものの、相変わらず、会社に必要とされていた。しかし家庭と仕事を取り戻すだけでなく、マラソンを再び完走したかった。医師は「昔と違う体なのだから、マラソンは無理」と明言したが、走れなければ元の自分とはいえないと考えていた。
だが体力が徐々に回復しても、2年経っても3年経っても、マラソンには復帰できなかった。2010年、ハーフマラソンなら大丈夫だろうと郷里である長野県内の大会に出場したものの、半分の11キロメートルで体が音を上げた。3時間1分台という屈辱的なタイムで最下位、何とか完走だけは果たした。
定期的な通院では、腫瘍マーカーの検査値の上下に一喜一憂していたが、走り込みは強化した。
2012年4月、かすみがうらマラソン(茨城県)のスタート直後、ランニング仲間の安藤一貴は、大久保の姿を見つけて仰天した。たびたび病室を訪れて激励していたが、肺を損傷したと聞き、まさかマラソンに復帰するとは予想していなかった。大久保は力を振り絞り、安藤は、最後は自分のレースを捨てて伴走した。フルマラソンを4時間49分で完走できた。
完走直後、「1年後のサロマ100キロメートルマラソンに復帰する」と宣言した。それから何回かフルマラソンを完走したが、4時間を切ることはできなかった。大会3週間前の血液検査では、異常を知らせる数値がハネ上がっていた。
だが練習の疲労のせいだったらしく、直前にデータが改善し、何とか医師の許しを得た。しかし、英子は激高した。懇願してもあきらめないことを知ると、「完走しちゃダメ、途中でリタイアして」と強い口調で言い放った。
けんか別れのように夫を送り出した英子は気が気でなかった。通過地点のラップタイムはインターネットでわかる仕組みになっている。英子は自宅でパソコンの画面で追い続けていた。「まだやめない。まだやめない……。80キロメートルを超えた頃から完走できそうだと興奮し、夫にエールを送っていた」。
大久保は12時間台でゴールイン。涙は出なかったが大きな安堵感に包まれた。「(退院からサロマ完走まで)6年もかかったが、ようやく人生の振り出しに戻れた」。
帰路、自分のブログを見ると、なんと英子が応援者への感謝をつづっているではないか。家族の絆は深まった。
がん発病前の記録を更新、そしてその先へ
この復活劇を偶然知ったのが、同じゴールドマンに勤めていた浮津康宏だ。部署は違うが、病気になる前の大久保が会社のジムでストイックに自分を追い込む姿が記憶にあった。次の年は自分もサロマに挑戦しようと思い、大久保に助言をもらいに行って意気投合した。実際には浮津の走力は大久保より上で、いつしか「コーチ」と呼ばれ、大久保の走りに助言を与える立場になった。
浮津は大久保を「目的に向かって勢い込んで進んでいく姿には心を打たれるが、がむしゃらすぎて、メリハリをつけないと能力を発揮できない」と冷静に見ていた。その助言もあり、サロマ復帰から、またも3年続けて完走するどころか、がん発病前の記録を更新した。
50歳のとき、大久保はゴールドマンを辞めた。
単なるボランティアは嫌だった(撮影:尾形文繁)
「このまま仕事人として中途半端では終われないと考えたことが、後半の人生のモチベーションとなった。生かされた命で社会に恩返ししたい」
ただ、単なるボランティアは嫌だった。自分にしかできない役割ががん患者の支援組織ファイブイヤーズの立ち上げであり、その社会事業化だった。
会員数を1万人、3万人と伸ばしていきたいと、2016年にはNPOの存在を認知してもらうため、新たに「ミリオンズライフ」というサイトを立ち上げた。日本で新たにがんと診断される人は年間100万人を超えており、それが名の由来となった。がん患者の生活情報として、がん経験者の体験記やインタビュー、治療の費用や保険・給付金の金額などおカネの情報を提供している。インタビューも執筆も、大久保自ら手掛ける。
これを提案したのは、ファイブイヤーズからタッグを組むIT会社社長の山本晃だ。難病患者向けのSNSを開発している縁で知り合った。毎週の会議でアイデアをぶつけ合う。山本は「エネルギッシュで前向き。がん患者の本当に欲しいものがわかっていることに共感した」と語る。
当記事は弊社サイト「週刊東洋経済Plus」からの転載記事です
ファイブイヤーズは寄付金だけで運営するが、ミリオンズライフは広告も集める。大久保の目標は、「社会貢献のビジネス化」だ。まだ順風満帆とはいえないが、周りから次々に支援の声が上がった。
ゴールドマン時代に大久保の取引先だった橋元祐三もその一人で、ファイブイヤーズの理事にも名を連ねる。大久保のことを「昔から誠実さは変わらないが、病気後は突き抜けたように積極的になった。多くの人の思いを背負っているからだろう」と評する。
自分の限界は自分が決めるものだ
大久保は思いを全身で受け止めて走り続ける。今年6月には、記念すべき10回目のサロマ湖マラソンが控えている。そして来年春には、炎天下のアフリカ・南モロッコの砂漠で1週間かけて230キロメートルを走破する「サハラマラソン」に参加するつもりだ。
来年春には、「サハラマラソン」に参加するつもりだ(撮影:尾形文繁)
その過酷さは尋常ではなく、完走できるかどうかはわからない。しかしあきらめず挑戦し続ける。
「がんの闘病中、人生がピークアウトしたと思ったが、何とか振り出しに戻れた。自分の限界は自分が決めるものだ。誰であれ、他人に決められるものではない」
さらに高みを目指す自分の背中を見てもらうこと、それこそが大久保の生きている証しだ。(敬称略)