伝統的価値観が崩壊する? 同性婚容認化問題にゲイ当事者としてこれは言わせて!(後編)
【ゲイリーマン発 日本のリアル】
前編では、渋谷区の同性パートナーへの証明書発行の発表(以下、いわゆる同性婚容認化問題)において噴出した反対派の意見の中でも、特に繰り返し叫ばれている「伝統的家族観が崩壊するから」という主張に対して、疑問を投げかけました。
そして、彼らの言う「伝統的家族観」というものは、具体的には一体どういうものであるかを、後編で解説します。
実は伝統がない「近代家族」彼らの言う「近代家族」は全員が築くべき当たり前のものとし、こうした家族が社会の最小構成単位として機能していた時代は、実は日本で言えば戦争が終わり、富が強制的に再分配された高度経済成長期からバブル期くらいまでの20年〜30年の間に過ぎないのです。
それ以前はどうだったかと言えば、戦中は日本国そのものが天皇陛下を家父長の頂点とする一つの家族である、という価値観を強制的に国民は負わされ、自分の家族が国家を構成する最小構成員としてあれこれ主張をすることなど許されない世の中でした。
それより以前、戦前の社会では、裕福な家庭は父親を頂点とする家父長制を敷き、情愛と信頼で結ばれた近代家族とは似つかぬものでした。大きな商家では貧しい農村から何人もの丁稚奉公を取り、逆に貧しい家庭は長男以外を丁稚奉公に出し、血縁関係がありながら裕福な暮らしができるところに子供を出すのがある種当たり前のように行われていた世の中でした。
さらにそれ以前、江戸時代やもっと前の武家社会になれば、男色や衆道と言った同性愛行為は、社会の支配階級層の中でも頻繁に、しかも公然と行われており……と、やっていたらキリがありません。
皮肉にも、彼らの言う「伝統的家族観」が支配していたよりも前の時代からすでに家族のあり方は多様であったし、スタンダードな「家族」のあり方も、その時代を生きる人たちの価値観や経済状況などによって変化し続けているものなのです。
つまり、「伝統的家族観」というものは実は、2000年以上続くこの日本という国において、20世紀の中盤から終盤のひと時にかけて発生した、限定的で時限的な価値観と取るのがより現実的なのです。
こうしたスケールで考えると、彼らの言う近代家族が社会の最小構成単位として機能していた「伝統的家族観」という価値観は、必ずしも人類普遍の価値観ではないと見ることができるのではないでしょうか。
多様な家族のあり方を認めても、ノスタルジックな家族観は崩壊しない同性婚容認化問題の可否にかかわらず、所得格差が広がり、ライフスタイルも多様化を続ける21世紀の日本では、「家族」という生活単位の形が多様化していくのはもう避けられない現実だと思います。
高度経済成長期に成立したひと時の価値観に固執したい気持ちもわかりますが、なんていうか、「伝統的家族観」の主張を聞いていると、もう終身雇用も年功序列も崩壊した世の中にあって、「若いやつは自分のスキルアップのことばかり考えていて会社への忠誠心が足らん!」とイキリだっているお爺ちゃんを見ているときの気分と似ていました。
ノスタルジックな近代家族を築きたい人は、経済的、精神的に可能であればそれを築けばいいだけの話ですし、人類普遍の価値観の話をするのであれば、ここ30年や50年の話ではなく500年や1000年という時間単位の議論をすべきなのは、むしろ「伝統」を声高に叫ぶ側の人たちなのではないでしょうか。
著者プロフィールゲイライター
英司
東京・高円寺在住のアラサーゲイ。ゲイとして、独身男性として、働く人のひとりとして、さまざまな視点から現代社会や経済の話題を発信。求人広告の営業や人材会社の広報PR担当を経て、現在は自社媒体の企画・制作ディレクターとして日々奮闘中。都内のゲイイベントや新宿二丁目にはたびたび出没(笑)
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