中村勘三郎、最後の主演映画となった『やじきた道中 てれすこ』(平山秀幸監督、2007年)

写真拡大

去る12月5日、歌舞伎役者の中村勘三郎が亡くなった。きのう(11日)は自邸にて密葬が行なわれたが、そこには故人と親交のあった各界の著名人が訪れ、出棺時には紙吹雪が舞うなどいかにも勘三郎にふさわしい派手な見送りとなった。

今月27日に予定されている築地本願寺での本葬では、一般の焼香も受けつけるという。ただ、亡くなった役者にとって何よりの供養は、生前の出演作品を見返してしのぶことではないだろうか。この記事では、勘三郎の出演した作品のうち、現在DVDが出ていて比較的容易に観ることができるものをいくつか紹介したい。

■『やじきた道中 てれすこ』(2007年)
勘三郎襲名後、唯一の(と書かざるをえないのがつらいが)主演映画。古典落語の「てれすこ」と、江戸時代の戯作者・十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を下敷きにした喜劇だ。主人公で新粉細工職人の弥次郎兵衛(弥次さん)を演じるのは勘三郎、その相方でさえない役者の喜多八(喜多さん)を演じるのは柄本明。弥次さんは、昵懇の仲である品川の遊郭「島崎」の花魁お喜乃(小泉今日子)に「郷里の沼津で病に臥せっている父に一目会いたい」とせがまれ、喜多さんとともに彼女を足抜けさせると、3人で東海道を西へ下る。

配役の妙だなと思ったのは、役者の喜多さんに扮するのが勘三郎ではなく、小劇場出身の柄本ということ。しかも劇中では実際に「仮名手本忠臣蔵」の一場面を、柄本とは「劇団東京乾電池」での同僚であるベンガルとともに演じているというのが面白い(東京乾電池からはほかにも、漁師役で綾田俊樹も出てくる)。

公式サイトの「製作手記」によれば、勘三郎と柄本が一緒に飲んでいるところへ、監督の平山秀幸が現れ、3人で意気投合したのがこの映画が生まれるそもそもの発端であったという。たしかに観ていると、演者やスタッフもきっと楽しんでつくったのだろうということが伝わってくる。遊郭での宴席を盛り上げる幇間(たいこもち)の役のラサール石井、お喜乃の父親役の笹野高史、それから謎の生物「てれすこ」の料理を出す茶店の女の役に藤山直美と、勘三郎と親交の深いキャストも多い。映画公開時にNHKで放映されたメイキング・ドキュメンタリーのタイトルは「大人の学芸会」というものだったが(先日9日にBSプレミアムで再放送された)、しかし学芸会というには何とぜいたくで、レベルの高い学芸会だろうか。

欲を言うなら、この映画が勘三郎と柄本がもう少し若い頃に撮られていればもっと面白くなったのでは……と思わなくもないのだが、2人の間合いのよさはさすがだし、小泉今日子のやや盛りをすぎて人気にかげりが見えつつある花魁役はまさに適役。この設定は後半、お喜乃が郷里に戻ってからの展開で効果的に使われている。

余談ながら、「弥次喜多道中」と勘三郎にはちょっとした因縁があったりする。というのも、勘三郎は若い頃に、前出の藤山直美の父親で松竹新喜劇の名優であった藤山寛美(1990年死去)から、「弥次喜多道中」を一緒に演りたいと話を持ちかけられたことがあったというのだ。その設定は、勘三郎によれば《東海道を逆に京都の三条から帰ってくるの。僕は江戸っ子で、先生[寛美のこと――引用者注]の弥次さんが大阪に居ついちゃって上方好きになってる》というものだったとか(『週刊文春』2002年1月3日・10日号)。

この設定が『てれすこ』でそのまま生かされたわけではないが、藤山直美が出演していることといい、サイドストーリーに笑福亭松之助(明石家さんまの師匠ですね)や間寛平など関西の芸人が出演していることといい、同作にはある部分で藤山寛美の遺志が引き継がれているような気もする。

■『森の石松』(1992年)
1992年の正月にフジテレビ系で放映されたスペシャルドラマ。勘三郎(当時は勘九郎)が演じるのは、幕末の駿河清水(現・静岡市)の侠客・清水次郎長の子分、森の石松。大酒飲みで喧嘩っ早いが、バカがつくほど正直という天真爛漫な石松を好演している。

このドラマの最大の見せ場として、石松の壮絶な最期とともにもうひとつ、次郎長の代わりに四国の金刀比羅宮を詣でた帰途、舟で乗り合わせた江戸っ子の佐吉との海上でのやりとりもぜひあげたい。

佐吉の役は、名人と謳われた落語家の古今亭志ん朝。海道一の大親分は次郎長だと褒める佐吉をすっかり気に入った石松は、「飲みねえ」「食いねえ」と広沢虎造の浪曲でおなじみのセリフを口にしながら酒と寿司をすすめる。「江戸っ子だってねえ」「神田の生まれよ」「そうだってねえ」というやりとりを繰り返したかと思えば、さらにその次郎長の子分では誰がいちばん強いのか名前をあげる佐吉から、何とか自分の名前を言わせようとする石松が何ともおかしい。

ついでにいえば、参詣のあとで石松は芝居を見物するのだが、その芝居小屋は金丸座という勘三郎の愛した劇場のひとつだ。ここで石松は笑福亭鶴瓶演じる観客とケンカをはじめ、ついには舞台にいる役者を怒らせてしまう。よく見ると、舞台上の女形も勘三郎、そして共演する子役は実の息子の中村勘太郎(現・勘九郎)だ。こういう小ネタも含め、『森の石松』にはコメディの要素も多いのだが、それだけにラストでの悲劇がきわだち胸を打つ。

■『野田版・研辰の討たれ』(2001年)
勘三郎(当時は勘九郎)が小劇場界の旗手・野田秀樹と手を組んで実現させた新作歌舞伎。DVDで観てぼくがまず思ったのは、えっ、歌舞伎がこんなに面白くていいの!? ということだった。実際に、会場である歌舞伎座は爆笑に次ぐ爆笑。しかし、舞台を役者たちが縦横無尽に動きまわったり、大がかりな舞台装置を観ると、もともと歌舞伎とはこういうものだったんじゃないかとも思わせる。スティーブ・ジョブズのiPhone発表時の「電話を再発明する」という言葉にならえば、ジョブズと同い年、1955年生まれの勘三郎と野田は、歌舞伎を再発明、あるいは再定義したともいえるかもしれない。

『研辰(とぎたつ)の討たれ』のオリジナルは、大正時代に発表された木村錦花原作、平田兼三郎脚色の戯曲だ。それ以前、江戸時代から敵討ちというのは歌舞伎で好んで使われてきた題材なのだが、野田はそこに現代的というか普遍的な要素もかなり盛りこんでいる。

勘三郎演じる主人公・守山辰次は、とある事情から、仕えていた家老の息子2人から敵討ちの対象にされてしまう。各地を逃げまわるなか、旅籠で宿代を払えず困った辰次は、とっさに自分は敵討ちのため諸国をまわっているのだとウソをつく。敵討ちが称賛の的であった時代のこと、彼は町人たちから一躍ヒーローにまつりあげられるのだが、それもつかのま、例の家老の息子たちが現れる。再び逃げ出すも、ついに辰次は兄弟にとらえられ、じつは彼のほうが敵討ちの対象であったことがばれてしまう。手のひらを返したように、辰次を罵倒する町人たち。誰かをヒーローにまつりあげたかと思えば、ひとたび気に入らないことがあったのなら、激しくバッシングするという大衆の身勝手さは、いまでもありがちな光景のようにも見える。

野田秀樹の脚本・演出で歌舞伎を上演するというのは、1980年代半ばに勘三郎と野田が出会って以来、ずっと共有してきた夢であったが、その実現までにはさまざまなハードルがあり結局10年以上を要した。そもそも歌舞伎に演出家がつくということじたい異例だった。しかし『研辰の討たれ』の成功を受けて、その後も、完全オリジナルの『野田版・鼠小僧』(2003年)、『野田版・愛陀姫』(2008年)と勘三郎と野田のコラボは続くことになる(以上の3作の上演戯曲は単行本『野田版歌舞伎』に収録されている)。

■『ディア・ドクター』(2009年)
最後に現代劇での出演作としてこの作品(西川美和監督)を。といっても、『ディア・ドクター』での勘三郎はあくまで主演の笑福亭鶴瓶の友情出演という扱いであり、出番はほんの一場面にすぎない。それでもこれが妙に印象に残っているのだ。

鶴瓶演じる村のニセ医者のもとに運びこまれた患者が一時呼吸停止に陥るも、余貴美子演じる看護士が機転を利かせたおかげで息を吹き返す。その後、救急病院に移送された患者の手術を執刀する医師、というのが勘三郎の役どころだった。手術のあとで、鶴瓶たちの応急措置がいかに適切だったか勘三郎は語っているのだが、これがすごく自然なのである。

「役になりきる」というのは勘三郎の一貫したモットーであったというけれども、彼はいわゆる憑依型の役者(たとえば大竹しのぶのように)でも、あるいはどんな役でも自分のキャラクターを押し出して演じる役者(たとえば丹波哲郎のように)でもなかったような気がする。では彼がどんな役者であったのか? 言葉で表現するのは非常に難しい。あえていうなら、その役になりきるため一旦は自分を消すのだが、ほかの役者と演技するなかで自然と自分を浮びあがらせてしまう役者……とでもなるだろうか。ある意味、演技を感じさせない演技こそ、勘三郎の本質であったのかもしれない。

『ディア・ドクター』は、来年1月6日にもNHK・BSプレミアムで放映予定があるというので、ぜひ勘三郎の出演シーンもチェックしていただければと思う。

このほかにも、今川義元を演じたNHK大河ドラマ『武田信玄』(1988年。現在、NHKオンデマンドで配信中)、同じく大河で主演の大石内蔵助を演じた『元禄繚乱』(1999年。今月29日にBSプレミアムにて総集編が放映予定)など記憶に残る作品は多い。今後も、テレビ各局で出演作の再放送が予定されているようだし、この年末年始は、勘三郎作品をまとめて観てすごすというのはいかがだろうか。(近藤正高)