研究室で培養したウイルスを自分自身に注射して乳がんを治療した科学者
科学者は被験者を募って実験を行うのが難しい時、自分自身の体を張って自己実験をすることがあります。クロアチアのザクレブ大学のウイルス科学者であるベアタ・ハラシー氏は、「研究室で培養したウイルスを自分自身に注射し、乳がんを治療する」という自己実験を行ったとのことで、科学誌のNatureがハラシー氏にインタビューしています。
An Unconventional Case Study of Neoadjuvant Oncolytic Virotherapy for Recurrent Breast Cancer
This scientist treated her own cancer with viruses she grew in the lab
https://www.nature.com/articles/d41586-024-03647-0
2020年の時点で49歳だったハラシー氏は、かつて乳房切除を行った部位に乳がんが再発していることを知りました。この部位でのがん再発は2回目であり、ハラシー氏はがん細胞に腫瘍溶解性ウイルスを感染させて細胞死させる「oncolytic virotherapy(腫瘍溶解性ウイルス療法:OVT)」という治療法を、自らの体で試してみることにしました。
OVTはウイルスを使用してがん細胞を攻撃し、免疫系をがん細胞と戦うように誘導するという治療法であり、これまでの臨床試験のほとんどは末期の転移性がんを対象としています。しかし、ここ数年ではより早期のがんにOVTを使用する試みも広まりつつあるそうです。
ハラシー氏はOVTの専門家ではないものの、ウイルス学者として研究室でウイルスを培養・精製する専門知識を有していたため、OVTによる自己実験に自信があったとのこと。なお、悪性黒色腫(メラノーマ)を標的としたOVTの一種はアメリカで承認されているものの、乳がんを標的にしたOVTはどこの国でも承認されていません。
乳がんの治療にあたり、ハラシー氏は麻疹ウイルスと水疱性口内炎ウイルスという2つの異なるウイルスを、連続してがん腫瘍に使用することを決めました。どちらのウイルスも乳がん細胞に感染することが知られており、すでにOVTの臨床試験では使用されているそうです。
ハラシー氏は以前の研究で両方のウイルスを扱った経験があり、安全性も担保されていました。麻疹ウイルスの株は小児期のワクチンに広く使用されているものを選定し、水疱性口内炎ウイルスは最悪の場合でも軽度のインフルエンザ様の症状を誘発する程度の危険性でした。
実験ではハラシー氏の同僚が2カ月にわたり、ハラシー氏が調合した治療薬を乳がん腫瘍に直接注射しました。なお、ハラシー氏の担当であるがん専門医も経過を観察し、治療がうまくいかなかった場合はすぐに化学療法に切り替えられるように体制を整えていたとのこと。
治療の過程でハラシー氏の腫瘍は大幅に縮小し、柔らかくなったほか、胸筋や皮膚からも剥離して外科的に切除しやすくなりました。また、ハラシー氏には深刻な副作用も起きなかったと報告されています。切除後の腫瘍を分析した結果、免疫細胞であるリンパ球が十分に浸潤しており、OVTが予想通りに機能して免疫系の反応を誘発したことが示唆されました。ハラシー氏は、「免疫反応が引き起こされたのは確かです」と述べており、手術後に1年間の抗がん剤治療を受けてからがんは再発していません。
ハラシー氏は一連の調査結果を学術誌に発表しようとしましたが、12回以上も掲載を拒否されてしまったとのこと。その理由は論文が自己実験を含んでいたためだったそうで、「主な関心事は常に倫理的な問題でした」とハラシー氏はNatureに語っています。
イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の医学研究者であり、新型コロナウイルスワクチンに関する自己実験の倫理について研究しているジェイコブ・シェルコフ氏は、学術誌がハラシー氏らの論文掲載に懸念を示したことは驚きではないと指摘しています。
シェルコフ氏が指摘する問題は、ハラシー氏の自己実験結果を公表することによって、「他のがん患者が従来の治療法を拒否し、同様の自己実験を試みるようになる可能性がある」という点です。治療の難しいがん患者は、効果が証明されていない治療法に飛びつきやすいため、こうした実験結果の公表には慎重になる必要があります。その一方で、自己実験から得られる知識が失われないようにすることも重要であり、最終的に学術誌へ掲載されたハラシー氏の論文は「ウイルスによる自己治療が、がん診断時の最初のアプローチであってはならない」という点を強調しています。
ハラシー氏は一連の自己治療や論文掲載に向けた努力について、後悔はしていないと語っています。OVTには非常に多くの科学的な知識と技術が必要なため、がん患者がハラシー氏のまねをする可能性は低いとハラシー氏は考えています。
ハラシー氏は一連の自己治療の経験から、新たに「家畜のがん治療のためのOVT」を研究し始めており、すでに研究資金の獲得に成功しています。「私の研究室の焦点は完全に変わりました。これは、私の自己治療による前向きな経験のおかげです」とハラシー氏は述べました。