インドネシアの帰化候補「150人超」に対し…帰化して日本代表になった7名
今月のアジア最終予選でインドネシア代表と対戦する日本代表。
かつてオランダの植民地であったインドネシアは近年、同国にルーツを持つオランダ生まれの選手を代表チームに多数誘っており、その候補は150名を超えるとも伝えられる。
そこで今回は、日本に帰化して日本代表デビューを飾った選手たちをみていこう。なお、帰化について公になっていない選手は除外とする。
田中闘莉王
出身国:ブラジル
日本代表:43試合8得点(2006-2010)
歯に衣着せぬ提言で今や日本サッカー界のご意見番となった田中マルクス闘莉王。
ブラジルから日本の渋谷幕張高へ留学し、2001年にサンフレッチェ広島へ加入。広島はもともと祖父(父方)の出身地であった。
2003年に外国人枠の関係でJ2・水戸への期限付き移籍を余儀なくされたが、その水戸で攻撃型のDFとして大ブレイク。ステップアップした浦和レッズでは稀代の闘将として黄金期を牽引した。
日本国籍は水戸時代に取得し、2004年アテネ五輪に出場。A代表への定着は遅かったが、2010年ワールドカップでは守備の要として日本代表のベスト16入りに大きく貢献した。
三都主アレサンドロ
出身国:ブラジル
日本代表:82試合7得点(2002-2006)
“黄金世代”でサッカー人気が爆発した頃の日本代表で活躍した左サイドのスペシャリスト。
1994年に高知の明徳義塾高校に入学し、卒業後に清水エスパルスへ。1999年には清水の2ndステージ制覇と年間勝点1位の立役者となり、史上最年少の22歳でJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
2001年11月に日本への帰化申請が認められ、フィリップ・トルシエ監督の日本代表でデビュー。2002年日韓ワールドカップに出場したが、ラウンド16のトルコ戦では前半で交代させられる屈辱も味わった。
その後、祖国の英雄であるジーコ監督の時代には、ポジションを下げて左サイドバックとして2006年大会にも連続出場している。なお、ブラジル時代はもともとDFであったという。
帰化前の登録名は『アレックス』。ちなみに三都主という当て字は自身にとって思い出深い『ブラジル・高知・清水』の三つの都市を意味しているという。
ネルソン吉村
ジャイロ・マトス(永大産業)とネルソン吉村(吉村大志郎、ヤンマー)
第54回天皇杯決勝ヤンマー2ー1永大 1975-1-1
Jairo Matos(Eidai) and Nelson Yoshimura (Yanmar)
The Emperor's Cup Final
Yanmar vs Eidai2-1 at Tokyo on 1 Jan 1975
Photo by Masahide Tomikoshi / TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY pic.twitter.com/1pUSeCueNp
— tphoto (@tphoto2005) January 3, 2022
出身国:ブラジル
日本代表:45試合7得点(1970-1976)
ブラジルに生まれた日系2世で、日本がブラジルサッカーに傾倒するキッカケとなったといわれる伝説的なプレーヤー。
もともとヤンマーのブラジル支社に勤務していたが、1967年に異動する形で日本のヤンマーサッカー部へ。レジェンド釜本邦茂とのコンビでヤンマーを強豪へと引き上げた。
日本サッカーリーグ初の外国籍選手であり、彼の活躍によって他のサッカークラブは次々とブラジル流を取り入れていった。
1970年12月に日本国籍を取得。登録名は「吉村大志郎」で、1976年まで45試合7得点を記録した。2003年に56歳で亡くなっている。
呂比須ワグナー
出身国:ブラジル
日本代表:20試合5得点(1997-1999)
中山雅史が決めた日本代表の『ワールドカップ初ゴール』をアシストしたことで知られるストライカー。
1987年に18歳で日産自動車(横浜F・マリノスの前身)に加入。日本リーグ、Jリーグで得点を量産し、1997年に日本国籍を取得して日本代表入り。
当て字の『呂比須』は「ロピスではないか」と言われるが、Lopesのブラジルでの発音はロピスに近い。
アジア最終予選で3得点をマークするなど日本のワールドカップ初出場の原動力となり、1998年本大会でもグループステージ3試合に出場した。
2002年限りで引退し指導者に。2012年にはガンバ大阪のヘッドコーチ、2017年にはアルビレックス新潟の監督を務めている。
現在55歳。2024年はインドネシア1部のPSSスレマンで指揮をとっていた。
李忠成
出身国:日本(韓国籍)
日本代表:11試合2得点(2011-2012)
日本はブラジルからの帰化が圧倒的だが、李忠成は在日韓国人であることを公表しながら帰化した唯一の選手だろうか。
デビューしたFC東京では燻っていたが、柏レイソルで石粼信弘監督との出会いが転機に。ピッチ内外での振る舞いを見つめ直した結果、Jリーグを代表する選手となった。
日本生まれながら韓国人として育ち、韓国の年代別の代表にも呼ばれている。しかし代表に参加した際に「お前は純粋な韓国人じゃない」と言われ、アイデンティティに悩んだ彼は日本への帰化を決意した。
2007年に帰化が承認され、北京五輪に臨むU-23代表としてデビュー。2011年アジアカップ決勝のオーストラリア戦では途中出場から左足ジャンピングボレーを叩き込み、4度目となるアジア制覇の主役となった。
李忠成の韓国読みはイ・チュンソン。なお、「名前があることがメッセージになる」と実名のまま帰化している。
与那城ジョージ
出身国:ブラジル
日本代表:2試合0得点(1985)
当時日本リーグ2部だった読売クラブを強豪へ押し上げ、ミスター・ヨミウリと呼ばれた伝説的なプレーヤー。
沖縄県からブラジルに移民した両親のもと5人兄弟の末っ子として生まれ、1972年に日本へ。ブラジル仕込みのテクニックは群を抜いていた。
元日本代表FW水沼貴史は「日本にドリブルのやり方を教えてくれた人」と話しており、子供の頃、将来の読売クラブ入りを夢見ていた元日本代表FW福田正博は「その当時の中心選手は圧倒的にジョージ与那城さん」と熱っぽく語っている。
外国人枠を空けたいクラブの意向で1985年1月に日本へ帰化。すでに34歳だった彼は日本代表入りを想定していなかったが、当時の森孝慈監督に選出され同年に行われた1986年ワールドカップ・アジア最終予選に2試合出場した。
帰化前は『ジョージ与那城』、帰化後は『与那城ジョージ』となっている。
ラモス瑠偉
出身国:ブラジル
日本代表:32試合1得点(1989-1995)
帰化プレーヤーの象徴的な存在といえばラモス瑠偉だろう。
家族を養うためにプロサッカー選手を志したブラジル時代。しかし何度も受けたセレクションに落ち続け、小さなクラブで燻っていた。
ちなみに当時はスペインで活躍した名DFルイス・ペレイラに憧れており、ポジションはセンターバックだった。自身によれば名門クラブのどのDFより自分のほうがうまいと思っていたという。
その後、休暇でブラジルに帰国していた与那城ジョージにスカウトされ読売クラブへ。DFの層が厚かったことからFWとして起用され、後年には足元の技術を生かして伝説的な「10番」となった。
1989年、32歳のときに帰化し日本代表入り。年齢的に最後のチャンスだった1994年アメリカ大会でのワールドカップ出場を目指したが、ドーハの悲劇に遭遇することに。
北澤豪はYouTube『おじさんだけど、遊んでもいいですか?』に出演した際、「ラモスさんに(W杯ヘ)行ってもらいたかった」と涙ながらに語っている。
なお、石川康(ボリビア)は日本代表に選ばれているがAマッチへの出場はなし。宮澤ミシェル(フランス)は代表候補のみ。ジョージ小林(ブラジル)は日本代表として出場しているが、ブラジル国籍のままだった。