三条天皇ゆかりの広隆寺(写真:skipinof / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第43回は道長と三条天皇のエピソードを紹介する。

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一条天皇の退位後をいちはやく見据える

占いに現れた言葉を示した文書のことを「占文」(うらぶみ)という。
寛弘8(1011)年、一条天皇についての占文を観た藤原道長は、衝撃を受ける。崩御の卦が出ており、一条天皇がまもなく命を落とすかもしれないというのだ。

同年5月27日の『権記』によると、道長は一条天皇の死を覚悟して、権僧正の慶円と一緒に泣いてしまったという。ただ、その場所が清涼殿二間だったため、たまたま隣の部屋にいた一条天皇が、その様子を御几帳の帷の継ぎ目から見てしまった。

自分の病状がただごとではないと知ってしまった一条天皇。それ以来、病はより重くなり、占文どおりに崩御することになる。

道長が一条天皇の病を心配して悲しんだがゆえの悲劇のようにも思えるが、一方で、道長のその後の行動はすばやいもので、一条天皇に知らせることもなく、譲位の発議を行っている。また、この頃から、一条天皇が譲位したときに備えて、皇太子の居貞親王のもとを頻繁に訪れるようになった。

さかのぼると、寛弘7(1010)年2月20日には、道長は次女の妍子を居貞親王の妃としている。すでに「一条天皇の次」を念頭に置いたアクションを起こしており、崩御の卦が道長の行動を加速させることとなる。

とはいえ、道長の栄華はもともと、一条天皇がわずか7歳で即位して父の兼家が摂政を務めたことに端を発している。一条天皇とはともに過ごした年月も長い。崩御の卦が出ていることを知ったときに流した道長の涙に、偽りはないだろう。

だが、道長はいかなるときにも、頭の切り替えが早かった。一条天皇の死が近いと知って悲しみはしたものの、その目線は、譲位後への新体制へと向けられていたのである。

火葬後に思い出した一条天皇の遺志

早々と次を見据えていた道長だけあって、いざ一条天皇が崩御したら、もはや振り返ることはなかった。伝えられていた一条天皇の大切な遺志さえも、すっかり忘れてしまっていたという。

一条天皇の葬送は寛弘8(1011)年7月8日に執り行われた。「遺体を火葬して弔うこと」を「荼毘に付す」というが、北山で荼毘に付されると、一条天皇の遺骨は東山の円成寺に仮安置される。


一条天皇の陵(写真: クロチャン / PIXTA)

次なる展開に意識がいっている道長は「心ここにあらず」だったと思われる。9日の早朝に道長からこんな言葉を言われたと、藤原行成は『権記』(7月20日付)に書いている。

「土葬にして、また法皇の御陵の側に置き奉るよう、故院が御存生の時におっしゃられたところである。何日か、まったく覚えていなかった。ただ今、思い出したのである」

一条天皇は生前に、円融院法皇御陵のそばに土葬するように言っていた。亡き定子がやはり生前に土葬を希望して、鳥辺野に葬られたこともあったのだろう。だが、そんな大事なことを、道長は何日間か、すっかり忘れていたのだという。

火葬にすべきところを土葬にしたならばまだしも、逆はもう取り返しがつかない。すでに火葬にしてしまっているのに、どうするんだ……と行成も思ったに違いない。

しかし、道長は「今さらいっても仕方がない」と持ち前の切り替えの早さを発揮。この話を終わらせているのだから、ヒドい話である。

三条天皇が道長を関白にしたがったワケ

「いかに最期を迎えるか」という大事な本人の希望さえ忘れてしまうくらい、道長の頭を占めていたのは、新たに即した三条天皇との関係づくりだったに違いない。

だが、どれだけ備えていても、いざ三条天皇の治世が始まると、想像以上にウマが合わなかったようだ。

まずは、何としてでも関白に就任してもらいたいと、道長は三条天皇から何度となくアプローチを受けることになる。何も道長を重用したかったわけではない。自分の側に取り込むことで、政治の主導権を握ろうとしたのであろう。

1011(寛弘8)年8月23日、三条天皇から「汝に関白詔を下すこととしよう」と伝えられると、道長は次のように応じたという。

「これまでも同様の仰せがありましたが、難しいということを申してきました」

関白になれば、公卿たちが議論する陣定には出られなくなってしまう。道長は「内覧」の地位のほうを好んだ。内覧とは関白に準じる地位で、奏上された文書に目を通すことができ、陣定にも出席できる。

実質的に関白のような権力を持っていた道長は、あえて関白につくメリットはなく、三条天皇もそれを承知で、少しでも自分のコントロール下に置こうとしたのだろう。

三条天皇の再三の説得をしのいだ道長。やむなく諦めた三条天皇から道長に、内覧宣旨が下されることとなった。

三条天皇とのファーストラウンドを制したかに見えた道長だったが、戦いはここからだった。

三条天皇は1012(長和元)年2月14日に道長の次女・妍子を中宮としたが、3月に入ると、長年連れ添った妻・娍子も皇后としたのである。

「一帝二后」を自ら主導した三条天皇

かつて道長は、一条天皇には定子という中宮がいたにもかかわらず、娘の彰子を中宮とさせて「一帝二后」を実現させた。三条天皇はその逆で、道長の娘を中宮としたあとに、娍子を皇后とすることで、自分から「一帝二后」の状態に持っていったのである。

三条天皇からすれば、一条天皇の4歳年上の従兄弟でありながら、長く皇太子に甘んじていたがゆえに、うっぷんもたまっていたのだろう。即位時には幼帝で、周囲の言うことを聞くしかなかった一条天皇とは、生い立ちがまるで違った。36歳でようやく自分の番がきた三条天皇の意気込みが、道長の反発をも恐れぬ言動につながったようだ。

「土葬にしてほしい」という一条天皇の大切な願いは忘れてしまった道長だったが、三条天皇と対立するたびに、やりやすかった一条天皇の治世が自然と思い出されたのではないだろうか。

2人は対立を深めていき、やがて道長は三条天皇を退位へと追い込むことになる。
 

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)