──2014年、プロ2年目の大谷翔平は投手として11勝(防御率2.61)、打者として打率.274、10本塁打をマークした。2015年には15勝(防御率2.24)、打率.202、5本塁打を記録している。北海道日本ハムファイターズにとっても大谷にとっても大きな節目となったのが2016年シーズンだった。首位の福岡ソフトバンクホークスに11.5ゲーム差をつけられながらも6月からの15連勝で差を詰め、7度目のリーグ優勝を飾った。

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新刊書籍『栗山英樹の思考 若者たちを世界一に導いた名監督の言葉』(ぴあ刊)より本文を抜粋してお届けします。


2016年7月3日のソフトバンク戦で「1番・投手」でスタメン出場し、初回に本塁打を放った大谷翔平 photo by Sankei Visual

【毎日のようにドラマが起こっていた】

 2013年、ファイターズは最下位に終わりました。2014年は結果的に3位でしたが、あと少しで優勝に手が届くところまで行きました。2015年は2位でシーズンを終えて(勝率.560)、クライマックスシリーズで千葉ロッテマリーンズに敗れました。

 この年、翔平は投手としても打者としても成績を残していましたが、常に故障のリスク、コンディショニングを考えながらの起用を続けていきました。

 いずれ、翔平をアメリカに送り出すこと(ポスティングシステムを使っての移籍)は決まっていました。本人もチームに関わる人間もみんな、わかっていました。翔平には「優勝してからメジャーに行け」と言っていたのですが、実際にチームを優勝させたのだから、本当にすばらしいですね。

 2016年の翔平は、投手として10勝4敗、防御率1.86、打者として打率.322、22本塁打、67打点をマークしました。「プロ5年目にはこのくらいの数字を残せるかも」と思っていた成績を1年早く残しました。自分で打って、投げて、チームを勝たせたのだから、もう言うことはありません。

 2016年はホークスが本当に強かった。11.5ゲーム差をつけられたところから翔平の活躍によって巻き返すことができました。翔平の体はできあがりつつありましたが、この頃にはまだ壊れる(故障する)不安がありました。

 6月から15連勝をしたことも含めて、すばらしいシーズンだったと思います。7月3日に先頭打者としてホームランを打ち、投手としても8勝目を挙げましたが、翔平は周りが驚くような活躍をサラッとできる。"大谷翔平劇場"と言えるほどです。日本プロ野球最高の165キロをマークしたり、投手で先頭打者本塁打を打ったり、いろいろなことが起こりました。

 毎日のようにドラマが起こっていました。ベンチにいる私たちも「マジか?」と思えることが続きました。

 最後にホークスに3連勝しなければ追いつけない、という試合で、翔平は「ホームラン打ってきます」と言って打席に立ち、本当に打って勝つわけです。「大谷翔平が本気になると何かが起こる」ということを証明し始めた試合だったと思います。

『ドカベン』や『野球狂の詩』などを描かれた漫画家の水島新司先生にお会いした時、「僕は水島漫画に憧れて、こういう選手をつくりたいと思っていました」とお話しました。大谷翔平という、まさに漫画に出てくるような選手が出現したことを、水島先生も喜んでくださいました。

ホークスに追いつこうと毎日戦いながら、試合後にホークスとほかのチームとの結果を見て大声で盛り上がったり、残念がったり。チームが一体となって戦うことができて、ものすごく楽しいシーズンでした。状況があまりわからないまま進んだ監督1年目と違って、地に足をつけながら優勝を目指して戦うことができました。

 シーズンを1位で終え、クライマックスシリーズファイナルでホークスを下しました。第5戦の最終回のマウンドに上がったのが翔平でした。

 あの強いホークスに勝つために最終戦で投げさせようと翔平を残しておいたのですが、試合の終盤、ふと翔平を見ると、「俺、行きますよ」と言っているように見えました。監督として、行ってほしい気持ちがあるからかそう見えたのかもしれませんが、コーチに本人の意思を確認してもらったら、翔平の答えはやはり「もちろん、行きます」と。それでさっそく、ブルペンで投球練習を始めさせたんです。

 彼の野球勘というのか、場を読む力は本当にすごいんですよ。最後に165キロのストレートで相手をねじ伏せ、ファイターズは日本シリーズ進出を決めました。

【大谷翔平を世界に認めさせる】

──日本シリーズの初戦に登板した大谷は11三振を奪ったものの、6回までに3失点。3打数2安打を放ちながらも広島東洋カープに1対5で敗れた。第2戦も1対5で敗戦(大谷は代打出場で三振)。しかし、ファイターズの本拠地・札幌ドームに戻ってから反撃が始まった。延長までもつれた第3戦、10回裏に大谷がサヨナラヒットを放ち、1勝目を挙げた。第4戦、第5戦ともにファイターズが逆転勝ち。敵地に乗り込んだ第6戦を10対4で制し、日本一に上り詰めた。

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 敵地で2連敗しましたが、本拠地に戻って3連勝。もし第7戦までもつれれば、黒田博樹投手と翔平との対決になるはずでした。「最後は野球の神様が決める」と思った時に、私の気持ちがものすごく落ち着いたことを覚えています。2連敗から3連勝したことで、野球界の先輩方に対してや、ファンに対する責任も果たせたのかもしれないと思えたからです。ファイターズが第6戦に勝利したことで黒田対大谷は実現しませんでしたが、私にとっては最高のシーズンでした。

 当時、この逆転劇を『北の国から2016〜伝説 誰も諦めなかった〜』というフレーズで表わしましたが、これはテレビドラマ『北の国から』の脚本家である倉本聰さんに「使わせてもらっていいですか」と連絡し、ご快諾いただいたものです。

"伝説"という言葉には、私の「大谷翔平を世界に認めさせる」という思いもありました。あの年は伝説をつくりたかったのです。翔平のポテンシャルは誰もが認めていたと思いますが、「本当に勝てるピッチャー」なんだということを証明したかった。165キロを投げるだけじゃない。チームのために勝利を積み重ねることができる選手なんだと。

──大谷は2013年から2017年までの5年間で、プロ野球関係者やファンを驚かせる記録と数字を残した。投手として42勝15敗、防御率2.52。打者として打率.286、48本塁打、166打点。そのほか、プロ野球史上初の10勝&10本塁打(2014年)、投手で先頭打者ホームラン(2016年)、「4番・投手」での完封勝利(2017年10月)などもあった。

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 翔平にとっては2016年が、伝説の本当のスタートになりました。自分で投げて、打って、チームを勝たせる。そういうシーズンでしたね。

 伝説になるような活躍をしないと、翔平のことがアメリカまで届かないと私は考えていました。あの時の活躍によって、メジャーリーグの評価も変わったんじゃないでしょうか。はじめから投打の二刀流をすることを可能にしたのが2016年の活躍だったと思います。


栗山英樹(くりやま・ひでき)/1961年生まれ。東京都出身。創価高、東京学芸大学を経て、84年にドラフト外で内野手としてヤクルトに入団。89年にはゴールデングラブ賞を獲得するなど活躍したが、1990年にケガや病気が重なり引退。引退後は野球解説者、スポーツジャーナリストに転身した。2011年11月、日本ハムの監督に就任。翌年、監督1年目でパ・リーグ制覇。2016年には2度目のリーグ制覇、そして日本一に導いた。2021年まで日ハムの監督を10年務めた後、2022年から日本代表監督に就任。2023年3月のWBCでは、決勝で米国を破り世界一に輝いた