人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。阪急阪神東宝グループの創始者、小林一三は私鉄経営のビジネスモデルを創造したことから、独創的な経営者として知られる。だが、ライターの栗下直也さんは「そもそも小林に起業家としてのプランも野望もなかった」という――。
晩年の小林一三(写真=共同通信社)

■伝説の経営者・小林一三が生み出したもの

「小林一三みたいな人はあまり最近出てこないよね」。記者時代に財界の偉い人がこうこぼしたことが妙に記憶に残っている。

「松下幸之助や本田宗一郎みたいな人がいない」「スティーブ・ジョブズのような人材が日本にはいない」とは聞き飽きるほど耳にしたが「小林一三みたいな人がいない」とはほぼ初耳だったからだ。

確かに日本の偉大な経営者列伝のような特集には必ず名を連ねているが、近年はどちらかというと元テニス選手でタレントの松岡修造の曽祖父のような文脈でしかメディアには名前が出てこない。

小林は阪急電鉄の祖であるが、彼が歴史に名を残すのは、都市近郊私鉄経営のビジネスモデルをつくりあげたところにある。ただ鉄道を敷くのではなく、乗降客を増やすために沿線に住宅地を開発し、遊園地や、百貨店をつくった。宝塚歌劇団をつくり、東宝も立ち上げた。彼が作り上げたものを点でみると見誤る。彼は大衆の新しいライフスタイルを発明したのだ。

大阪市北区芝田1丁目の阪急電鉄本社ビル(写真=J o/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)

■鉄道経営に興味があったわけではない

小林について詳しい作家の鹿島茂の言葉を借りれば「大劇場、駅デパート、球場、郊外行楽地、室内プール、プレジャー・ランド、私鉄沿線の田園都市、洋風住宅など、いわゆる大正・昭和の新興中産階級のモダン文化が、みな小林一三の頭の中のアイデアの現実化であった」ことになる。

日本の経営史に名を残すイノベーターであることは間違いないが、面白いのは、そうしたプランが明確にあって起業したわけではない点だ。そもそも起業すら自発的にしていない。

パッとしないサラリーマン生活を長く続け、不運が重なり、鉄道会社の経営に携わり、これまた偶然が重なり、出資することになったのだ。

最初から、日本のライフスタイルを変えたいという志があったわけでも、鉄道会社の経営に携わりたかったわけでもない。ほかに選択肢がなかったのだ。

■本当は作家になりたかった

小林は1873年(明治6)、山梨県に生まれる。1892年(明治25)の暮れに慶應義塾を卒業し、1893年(明治26)年1月から三井銀行で働くことが決まっていたが、実際に小林が初出社するのは4月4日を待たなければいけない。

小林
小林が働いていた頃の三井銀行本店(写真=“The Liberal news agency”/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

体調不良だったり、特別な事情があったりしたわけではない。なんとなく行く気がしなかったのだ。温泉でダラダラ過ごし、地方紙に時代小説の連載を書いていた。当然、銀行からは出社しろと催促を受けたが、「気が進まない」という理由で出社しなかった。時代といえば時代だが、それによってクビにならないのもすごいし、催促されても一向に出勤しない小林もすごい。

そもそも、小林は銀行で働く気はなかった。在学中から作家を目指し、卒業後は知人の伝手で新聞社に入ろうとしたが、立ち消えになり、しぶしぶ三井銀行で働くことにしたのだ(銀行に入ってからも新聞社に入社できないかと検討していた)。

小林が出社しなかったのは就きたい職業でなかったからというのも理由だろうが、そこまで必死に働く必要でない環境であったことも大きい。実家がめちゃくちゃ裕福だったのだ。

「私の初任給は月給十三円、半期賞与金四ヵ月、毎月二十円程度の収入であった。下宿料は八円で、普通ならば充分であったと思うが、半期五百円くらいは生家から、なんとかかんとか文句を言われながら仕送りを受けておったのである。」(小林一三『逸翁自叙伝』、講談社学術文庫)

■左遷の連続だった銀行時代

給料の4倍以上の仕送りがあったら、誰もが必死に働かないだろう。実際、小林は学卒後15年間、三井銀行に勤めるが出世とは縁遠い行員生活を送る。

異動の内示が出て、大阪の支店から東京に赴任したら異動日になぜかその人事が取り消されたり、グループ内人事で三越呉服店への移籍がほぼ決まり、三越に骨をうずめるつもりで株も購入したら、三越側にやはり無理ですと断られたり……。

ほかにもいくつか移籍話があったものの実現せず。行内でも左遷の連続。つまり、社内外であまり評判が良くなかったのである。

小林も、さすがにこれでは頭打ちだ、どうにかしなければと焦りはあった。出世できそうもないなら、銀行から出るしかない。

そんなとき、三井物産の旧知の人から「今度、三井が大阪で証券会社を立ち上げるから社長をやらないか」と声がかかる。もちろん、断る選択肢はない。銀行をやめ、大阪に向かうのだが、どこまでもついていない。日露戦争のあと、高騰していた市況が一転して急落。証券会社設立どころではなくなっていた。小林は困る。銀行はすでに辞めている。仕事はない。無職になった。

■就いたのは「田舎鉄道」の監査役

さすがに誘った方も悪いと思ったのか、そこで、新たに持ち掛けられたのが鉄道会社の職だった。小林は三井物産が大株主の阪鶴(はんかく)鉄道※の監査役に就いた。

※尼崎から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線

お飾りのようなポジションに映るだろうがそれもそのはず。この会社は国有化されて解散することが決まっていた。小林の仕事は解散前に同社が創立に向けて動き出していた鉄道会社(箕面有馬電気軌道)の立ち上げである。これがのちに阪急鉄道になる。

とはいえ、会社の名前からわかるように有馬温泉や箕面公園を通る田舎電車がまともに商売になるとは誰も思わない。発行株式11万株のうち、5万4000株もが引き受け手がいない状況で、創業できずに解散するのではという事態になっていた。

小林にすれば、「サラリーマンなのだから、お偉いさんが株主を募って、会社ができて、そこの重役として給料をもらえるのならばラッキー」くらいの感覚だったのだが「責任をもってやれ」と丸投げされてしまう。「そんなの聞いてないよ」といいたいところだが、他に仕事はない。無職に逆戻りは御免と奔走する。

腹を括って一気に進め、紆余曲折がありながらも誰にも相談せず独断で出資者を集めるが、このときの出資者側の条件がけっこうめちゃくちゃなのだ。

監査役になったころの小林一三(写真=http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-117.html/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

■小林が考えていた勝算

「『仮に、お前(編集部註・小林を指す)が株式の不足分を全部引受けるとしても成立の出来ないというような場合に、我々に一文も迷惑をかけない、同時に株主にも証拠金は全部返すというだけでは困るから、お前からただちに支出するという金額を明記した証書を出せ』というので、至極御もっともな注文であるから、まかり間違った場合には五万円のバクチだと度胸をきめ、証文を書いてお渡した」(前掲書)

5万円は現在だと5000万円以上の貨幣価値になる。

他に選択肢がなかったとはいえ、小林なりに「田舎電車」での勝算もあった。田舎ゆえに沿線の土地も安い。沿線の土地50万坪を買い集め、鉄道開通後に住宅地として分譲できると試算したのだ。

のちに多くの鉄道会社が真似たビジネスモデルで今では誰も驚かないが、鉄道が単なる輸送手段と捉えられていた当時としては非常に先進的なアイデアであった。

とはいえ、小林はアイデアマンではあったが、この段階に至っても事業を自分の手でどうにかしたいという意欲が旺盛だったわけではない。「所詮、サラリーマンなのだからそれなりのポジションでうまくやれないか」という気持ちが強かった。実際、設立間もないころに阪神電鉄から買収の打診があった際には「阪神電車の重役になれるのであるから、不平どころか内々期待していたのである」(前掲書)と思っていたという。

■「世の中は運命次第」

結果的に、小林が雇われ経営者でなくなるのは偶然だ。1914年(大正3)に最大株主である北浜銀行が取り付け騒ぎを起こしたのだ。

「そこで、とりあえず私が北浜の持株を引き出して、私も持ち、友人にも持たせ、その他日本生命や大同生命に持たせるという風に処置をつけた。今日私が阪急の大株主となり、借金をして資本家と事業家とを兼ねたような立場に置かれているのも、全く北浜の破たんがあったからの事だ。北浜があのままずっと安泰でいたら、私はやはり一使用人として働いていたに過ぎなかったろう。今日からみると、北浜の破たんがかえって私にうまい事になっているような訳で、世の中は運命次第という気がする」(小林一三『私の生き方』PHP文庫)

大株主の雲行きが怪しくなったことで、独立自主の体制が整い、言いたいことは言えるし、誰かの機嫌を極端に気にする必要がなくなったのだ。

小林の阪急立ち上げ前夜を時系列に眺めると小林の「運」の良さがわかる。実際、小林は自分を「運命論者」と語っている。何もかもが運とまで言い切っている。

自称「窓際」で左遷の連続で、転職もうまくいかなかったことで、全く意図していなかった鉄道事業に携わるようになり、それがきっかけで現代にも続く一大グループを形成したのだ。確かにめちゃくちゃ「運」がよい。

■どうやって「運」をつかむのか

とはいえ、何もせずにぼうっとしていたわけもでない。目の前に問題が起きれば、自分の最善を尽くし、あとは自分ではどうしようもないから運次第ではないかと天に任せる。そんなことが小林の生きざまからは透けて見える。小林は「運」をつかむ術をこう説く。

「いたずらにあくせくしたり悲しんだりするよりは、現在の仕事をまじめに、熱情を持ってやれば、そこには必ず運というものが開けてくるものなのだ」(同)

今の仕事にまじめに取り組め。平凡すぎる人生訓だが、決して平坦な人生ではなかった小林の言葉だけに重い。考えてみれば、小林のひ孫である松岡修造も常に「熱い」。曽祖父の教えを誰よりも実践しているのかもしれない。

参考文献
『逸翁自叙伝』(小林一三、講談社学術文庫)
『私の行き方』(小林一三、PHP文庫)

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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)