派遣先のイエメンでは課題もあったが、それまで準備してきたことが通用するという確かな「手ごたえ」があった=2015年5月(写真:©MSF)

国境なき医師団(Médecins Sans Frontières:MSF)の外科医、プロボクサー、世界7大陸の最高峰登頂――。そんな「3足のわらじ」を履く人物がいる。池田知也(42歳)。普段は日本の病院で勤務しながら、かくも果敢にチャレンジを続けることができるのか。

いずれはMSFの外科医として働く

池田さんがMSFに関心を持ったのは、高校3年生のとき。文化祭の講演で聞いた外科医の言葉に胸を打たれたという。

「その言葉は、『自分が何時間か寝たら、何人の人が亡くなる世界で働いている』というもの 。そのときに、将来は医師になって紛争地で働くと心に決めました」(池田さん)

医学部入学以降 は、「いずれはMSFの外科医として働く」という明確な目標のもと、さまざまなことにチャレンジした。

初期研修では、離島医療に力を入れる沖縄県立中部病院に入職。同院では診療科にかかわらず、すべての救急患者は初期研修医が対応することになっている。池田さんも臓器や診療科にかかわらず全身を診たという。

「月の当直は10回以上で、毎回、ほぼ寝る時間はなし。仕事を終えるのは日付が変わってから。おかげで、かなり鍛えられましたね」(池田さん)

後期研修では、 高度な手術で定評のある仙台厚生病院で外科医のスキルを磨いた。 専門は執刀する機会が多いという理由で消化器外科を選ぶ。実際、難易度の高い手術も含め、年間130件程度執刀していたという。

就職先の熊本赤十字病院の国際医療救援部では、2年間にわたり消化器外科以外の診療科――整形外科や産婦人科、心臓血管外科などで臨床経験を積む。MSFの活動地では、お産の際の帝王切開や火傷や銃創などの手術もあり、 整形外科の技術も求められるからだ。

そして医師8年目の2015年。選考試験を経て、MSFで外科医として活動を始める。

トラックの荷台で運ばれる負傷者

これまで赴いた活動地は、10回とも中東とアフリカの紛争下にある国々。池田さんら外科医は、主に戦闘で負傷した人たちを治療する活動を行う。

今年7月、池田さんは10回目の派遣から帰国した。活動したのはスーダンと南スーダンが領有権を争うアビエイという地域。前年の4月にスーダンで内戦が始まると、多くの負傷者が運び込まれた。

患者の多くは銃で撃たれた人で、トラックの荷台に載せられて一気にやってくる。池田さんは言う。

「病院にたどり着く人はだいたい助かる。『ナチュラルトリアージ』といって、人はすでに撃たれたときにふるいにかけられている。例えば、心臓や大動脈を撃たれた人は即死するので、病院にたどり着かない」


アビエイで共に働いた助産師と池田さん。自らも難民キャンプで育った。夢をあきらめず、時間をかけて助産師となった=2024年7月 (写真:©MSF)

印象に残っているのは、初めて派遣されたイエメンだという。

当時は空路が使えず、ジブチ共和国からイエメン第2の都市であるアデンまで、漁船のような船で12時間かけて向かった。いよいよ上陸するというときのことだった。銃を持った兵士がやってきて、緊張感が走った。

こんな経験もした。懸命の治療にもかかわらず、命を救えなかった重症の子どもがいた。父親は「すべてアッラーの定めたこと」だからと、静かに家族の死を受け入れていた。

「MSFの活動地での仕事はとても忙しい 。手術の回数は日本で勤めた病院よりずっと多い。私は手術が好きなので、これには不満はありません」と池田さんは言う。


MSFの外科医として初めて派遣された中東のイエメン。多くの患者は銃撃や爆撃の被害者だった=2015年5月(写真:©MSF)

医者になるならやめたほうがいい

医師の活動とともに力を入れているのが、ボクシングだった。

池田さんがプロボクサーを目指したきっかけは、中学1年生のとき。テレビで観た辰吉丈一郎と薬師寺保栄の試合の迫力にのめり込んだ。

中学、高校とボクシング部がなく、大学生からジムに通い始めた。4年生のときには宮城県代表として国体に出場。プロを目指そうと思ったが、所属ジムの会長に「医者になるならやめたほうがいい」という忠告を受け、あきらめた。

再開したのは、2013年に熊本で働き始めたときだ。気晴らしと運動不足を解消するため地元のボクシングジムに通い始めた。

シャドーボクシングをしていると、ジムの会長が「来月、プロテストがあるけど受けてみないか」と誘ってきた。経験者だと見抜いたからだった。

当時、池田さんは32歳。年齢制限のためプロテストを受けられる最後の年齢だったが、見事にC級ライセンスを取得。翌年6月にはデビュー戦をKO勝利で飾る。2016年と2017年の2回、新人王トーナメントにも出場し、通算4勝を上げ、プロのB級ライセンスを取得した。


2017年の新人王トーナメント。MSFのベストを着てリングに上がり、KOで勝利した(写真:本人提供)

その後も2勝して、A級ライセンスを取得したら引退しよう。そう考えていたが、結果は1勝1敗。当時、池田さんは37歳、日本ボクシングコミッション(JBC)が定めるプロボクサーの定年を迎え、ライセンスは失効、強制引退となった。

「悔しかったですね。あのときは、寝ても覚めても“自分は負けた”という事実がつきまとっていた。勝つまでは気が晴れることはないと思いました」(池田さん)

だが、天は強制引退となったプロボクサーの味方をした。2023年、JBCがルールを改正して37歳定年制を撤廃、ライセンスは格下げになるものの、強制引退した選手も再度プロとして試合ができるようになったのだ。

以来、池田さんの戦績は5勝3敗1分。池田さんは言う。「最後は勝利で終わりたい。それまで、ボクシングの挑戦をあきらめないつもりです」。

7大陸の最高峰の登頂を目指す

登山を始めたのは、後期研修最後の年だ。まとまった休みがとれたので、アフリカのキリマンジャロ(5895m)登山を試みた。理由は「世界7大陸の最高峰の1つでありながら、赤道付近に位置するため、特別な技術がなく、登れる山だったからです」と池田さん。

登山の達成感から、残りの6大陸の最高峰の登頂を目指そうと決めた。
2014年にはヨーロッパ大陸のエルブルス(5642m)、2015年には南極大陸のビンソン(4892m)を登り、その足で南米大陸のアコンカグア(6959m)を登頂した。

残るはアジア大陸最高峰のエベレスト(8848m)と、北米大陸のデナリ(6194m)、オーストラリア大陸のコジオスコ(2228m)。エベレストとデナリへの登頂は技術だけでなく、時間とお金もかかる。2022年4月、高地順応や天候待ちを含め2カ月の期間と、国産車1台分くらいの予算をかけてエベレストに向かい、5月に登頂を果たした。


2022年5月にエベレストに登頂。これまで医師として働いた中東やアフリカの国々の旗を掲げた(写真:本人提供)

その後、高所順応をキープしたままアラスカに飛び、デナリへの登山隊に合流。こちらも登頂を果たした。コジオスコにも2023年11月に登った。

池田さんにとって、医療、ボクシング、登山には共通する点があるという。それは、「結果がすべて」という点だ。

「手術は成功すること、ボクシングは相手に勝つこと、登山は頂上を踏むこと。人によって価値基準はそれぞれですが、自分はそういった姿勢で臨んでいます」

彼が大事にしている言葉に、「文武一道」がある。三船久蔵という柔道家の言葉で、学問も武道やスポーツも突き詰めれば根源は同じ、という意味だ。三船は池田さんの母校である仙台第二高校の先輩で、この言葉は学校の講堂に掲げられている。

「医療にせよ、ボクシングにせよ、登山にせよ、いかに自分が結果に対して満足できるか、妥協なくやり遂げるか。その点はすべてにおいて共通している」(池田さん)

体力が続く限り外科医でいたい

MSFの活動は今後も継続したいが、医師の働き方改革もあり、どの病院でも医師が一時的に抜ければ業務に大きな影響が出てしまう。

「これまで職場のサポートと応援をいただいてきましたが、これからはもっと自分自身のスキルを高め、日本の病院でスタッフの1人として貢献していきたい。“こいつがいてよかった”という働き方をしたい」(池田さん)

人生の最終目標は、「我が生涯に一片の悔いなし」。そう思って死にたいと話す。

「これは漫画『北斗の拳』の登場人物、ラオウの言葉です。外科医という仕事は一生できるものではありません。視力や手先が衰えてまで手術に固執したいとは思わない。しかし、体力が続く限り、できるだけ長く外科医としては働きたい」(池田さん)

(国境なき医師団 : 非営利の医療・人道援助団体)