一風堂や山頭火が頼る「製麺企業」の波乱なドラマ
博多発祥、一風堂のラーメン(サンフランシスコ店)(サンヌードル提供)
日本のソウルフードともいえるラーメン。山頭火、一風堂、一幸舎など、世界でも知られる有名店が、欧米各地への進出や店舗拡大で頼りにする会社がある。
ハワイ・ホノルルに本社を置く、製麺企業のサンヌードルだ。
43年前、栃木県から単身20歳でハワイに渡った夘木(うき)栄人さん(63)が創業し、現在ハワイ・北米の3工場で1日当たり30万食、約150種類の麺をアメリカ、ヨーロッパ・中南米向けに製造している。
2023年にオランダ・ロッテルダムに新設した工場では、1日2万食を製造、生産量・従業員共に来年以降の増産体制を見込む。
いまや外国人から大人気のラーメンだが、40年以上も前に、夘木さんはなぜ海外で挑戦しようと決意したのか。そして日本のラーメン市場をいかに開拓してきたのか。
ハワイで製麺工場を作った理由
夘木さんは1961年、栃木県宇都宮で製麺業を営む両親のもとで生まれ育った。父親が親族から借金と共に受け継いだ事業で、暮らしにあまりゆとりはなかったという。家族は休みもなく働き、自身も小学生の頃からよく工場を手伝っていた。
高校卒業後は家業を継ぐつもりで、勉強のため徳島県の製麺会社に就職した。1年半が経ったころ、知人を通じて父の元に「ハワイで製麺の技術指導をしてほしい」という依頼が舞い込んだ。
父は快諾し、準備を進めていたが、途中でその計画が破談になったという。だがすでに製麺機をハワイに送ってしまった後だった。
父は息子にこう提案した。
「もしお前がやってみたいというなら、資金を貸すから行ってみたらどうだ」
迷うはずもない。憧れの外国、夢のハワイ。夘木さんにとって、“アメリカンドリーム”へのチケットそのものになった。
ハワイに渡ったのは20歳になったばかりの1981年8月。英語が話せないどころか、就労するのにビザが必要だということすらわからない「まったくの世間知らず」(夘木さん)。語学学校に通いながら物件を探し、多くの人の助けを借りて1年後、小さな製麺工場の稼働にこぎつけた。
だが、工場の完成が近づくにつれ、夘木さんはある現実を知って不安を募らせていた。人口100万人ほどのハワイの麺需要を調べたところ、ラーメン店5店に対して、製麺会社はなんと19社にも上った。
ハワイの製麺会社サンヌードル創業者・夘木栄人さん(筆者撮影)
後戻りはできない。ハワイの飲食店を片っぱしから訪ね、売り込みに駆けずり回ったという。
元来、1つずつ目標を立て、達成することに喜びを感じる性分。
「できるだけ早く工場を採算ベースに乗せようと、毎日とにかく必死でした。ツラいと思ったことは一度もありませんでした」
ラーメン店の出店が増える
1980年代後半に入ると、バブル経済に沸く日本の好景気を背景に日本企業のハワイ進出が加速。ラーメン店の出店も増え、麺の供給が期待されるようになった。
夘木さんは日本各地を頻繁に訪れ、自分の舌で確かめた味をハワイで調達できる原料で再現し、さらに保存料や人工着色料など改良剤を使わないこだわりを持って麺の試作研究に没頭した。
「どうしたらあの風味、なめらかさ、コシが出せるのか、寝ても覚めても考え続けていたら、いろんなヒントが降ってくるような現象を何度も経験しました」
東京のラーメン店、つじ田 (ウエストLA店)(サンヌードル提供)
事業が軌道に乗り始めたころ、想定外の事態が起きた。栃木の実家の製麺会社が倒産したのだ。
父が保証人を引き受けた友人の会社が倒産し、多額の借金を抱えることに。結婚して家を購入したばかりだった夘木さんにとって、新たな試練になった。家族の助けになりたいと、わずかな利益から毎月少しずつ日本への送金を続けた。
「退路が絶たれたという実感がわきました。この仕事を大切にしていくしかないと、スイッチが入った出来事でもありました」。実家の借金返済を助け、完済したのは、それから20年後のことだった。
夘木さんはその後29歳で、当時の年商の1.6倍に当たる130万ドルを借り入れ、ハワイに自社工場を建設。30代前半には、日本のバブル崩壊の余波を受け、負債総額が資産評価額を上回る事態に陥った。それでも夘木さんは、麺への挑戦を諦めなかった。
42歳の2003年、アメリカ本土への進出を計画し、カリフォルニア州ロサンゼルスに新工場の建設を実現した。47歳になり、新たに300万ドルを借金し工場を4倍の規模に拡張した。
アメリカ本土にはすでに有力な日系の製麺会社が複数社あり、価格競争を強いられることは確実。
そんな中で進出理由として夘木さんが“大義名分”に据えたのが、「特注麺」の製造だ。店主がこだわりを持って自家製で作るスープに合う麺を、小麦粉の配合や形状をカスタマイズし、小ロットから安定供給できる体制を整えた。
博多とんこつラーメンの人気店「一風堂」がニューヨークに1号店を出しラーメンブームに火がついた年の2008年、大手食品卸会社がサンヌードルの商品の取り扱いを決めたことで、出荷量がそれまでの20倍に拡大。全米の飲食店や小売店へと流通網が一気に広がった。
札幌のラーメン店、らーめんてつや (Ramen Labにて)(サンヌードル提供)
特注麺はその後、アメリカ国内の一風堂(本店などを除く)や、一幸舎、山頭火など有名店でも使われるようになる。
虚無感を感じていた中で見つけた言葉
一方、同じ頃、夘木さんは、ある心境の変化を感じ始めていたという。
「こんな経営で本当にいいのだろうかと、不安を持つようになっていました。でも、借金の返済はできているし、従業員も生活できている。やっていることは間違っていないと、自分に言い聞かせていました」
不安とは、何を手に入れても満足しない、「虚無感」に襲われるようになっていたことだった。
「ビジネスが大成功したら高級住宅街に住めるかもしれない、高級車を持てるようになるかもしれない、そんな夢が膨らんでどうしようもなくなるほど、わたしは物欲が強いほうでした。
雇った友人にも『俺がフェラーリを買ったらお前もベンツくらい乗れ』、なんてかなり狂ったモチベーションの与え方をした時期もあったり。ところが、いくら物欲が満たされても嬉しくない、感謝もない。虚しく、病的な感覚になっていた頃でした」
そんなある日曜の午後、自宅で寝転がっていると、視界の端にこんな文言が飛び込んできた。
「足るを知る」
「なんのために生まれてきたのか」
経営の神様・稲盛和夫氏が手がける「盛和塾」の案内パンフレットに書かれた言葉だった。
ハワイ在住の経営者から勉強会に誘われていたが、「何を今さら勉強する必要があるのか」とまったく興味がわかず、放っておいたものだ。
だが、たまたま目にした一言一言は、「デタラメな自分」を明らかにし、それまで考えたこともなかった「大事なこと」を、まっすぐに突きつけられた思いがしたという。
「どれも道徳的なことでした。自分がこの世に生まれてきた理由、今やっている仕事の目的がまったく違うところにあるのだと感じて、なぜか、ものすごくほっとした気持ちになったことを今でも覚えています」
その後、勉強会開催を経て2010年1月19日、「盛和塾ハワイ」が開塾し、夘木さんは初代「世話人」に就任した。奇しくも、日本航空の再建に向け、重責を引き受けようとする稲盛氏の姿を間近に見ていた。
「盛和塾」塾長・稲盛和夫さんと(サンヌードル提供)
会社の存在意義とは、働く目的とは、生きる意味とは――。
稲盛氏が体現してきた経営哲学を学び、内面を問い直し、実践を繰り返す中で夘木さんが手がけたのは、「ラーメンラボ」の運営だった。
調理や試食を体験してもらう講習会開く
2012年に新設したアメリカ・ニュージャージー州の工場内に設けたキッチンとカウンターが舞台。
20代で「日本一のラーメン店」に選ばれた有名店「中村屋」の店主・中村栄利さんを専任シェフに迎え、現地の料理人らを招待してラーメンの調理や試食を体験してもらう講習会を開催した。食専門のメジャーな雑誌に掲載され、注目が集まった。
アメリカ・ニュージャージー州の工場内に設置した「ラーメンラボ」でラーメンを試作する(写真右から)長男の健士郎さんと中村栄利さん、夘木さん(サンヌードル提供)
関わる人、取引先、ライバルも含め、業界全体の発展と成長のため、サンヌードルに何ができるのかを考えた1つの形だった。
「ラーメンラボ」は、アメリカのラーメン認知がさらに広がるきっかけとなり、サンヌードルはイギリス、フランスなどの欧州地域へ、2017年からはカナダ、メキシコなど中南米への輸出をスタートさせた。
一方で、どれだけ業績が上向いても、つねに直面するのが、働く従業員にいかに長く、やりがいと幸福感を持って仕事を共にしてもらえるかという「難問」だという。これ以上のことはないほどに、その姿勢を試されたのが、2020年の新型コロナウイルスの感染拡大だった。
「これまで調子のいいことを言ってきて、ここでひっくり返すことにはならないか、自分に問い続けました」
危機に備え蓄えてきた内部留保が、ピンチの初期に力を発揮した。夘木さんが300人の全従業員に最初に通知したのは、「解雇はしないから安心してほしい」というメッセージだった。
ところが、解雇者を対象に州や国が支給した給付金は、給与額を上回るほど手厚いものだった。「解雇になったほうがよかったような空気さえ漂っていた」中で、夘木さんは「働いてもらうこと」「仕事を続けること」にこだわり続け、自らその必要性を繰り返し語ったという。
働くことを通じて心を高め、自らの内面を耕し、人格を磨いていく――。稲盛氏がもっとも大切にした「正しいこと」の実践だった。
残ってくれたスタッフらと一緒に販売機会を見つけ、工場を稼働させると、非効率な課題に気づき、改善と工夫が次々と生まれた。
結果的に2020年は売り上げが30%減った一方、経常利益は4.4%の増益決算になった。危機が去った時、その利益は迷わず、働き続けてくれた従業員に、国の給付金以上の額として分配したという。
コロナ禍も休まず走り続けた会社は、従業員との信頼関係、生産効率の両面で確実に筋力と体力をつけ、次の飛躍に必要な土台が築かれていた。
2023年5月、オランダ・ロッテルダムに同社初の欧州拠点となる製麺工場が稼働を始めた。現在、出身10カ国から16人の従業員が勤務し、EU圏内14カ国の約300店舗向けに製造出荷している。
サンヌードルから特注麺を仕入れて商品を提供するロッテルダムの「RAMEN NIKKOU」で注文した醤油ラーメン(筆者撮影)
欧州工場の統括責任者で、2000年代のアメリカ本土進出時からサンヌードルに勤める澤川啓介さんは、「ヨーロッパはアメリカのラーメン市場に比べると8〜10年遅れている印象。日本食メーカー、飲食店出店を目指すオーナーにとって、開拓余地の大きさを感じる」と話す。
オランダ・ロッテルダムの工場を統括する澤川啓介さん(筆者撮影)
サンヌードルの工場は、挑戦者のサポート拠点になるだろう。
1食売っても利益が10円にも満たない世界
製麺会社の事業は、生麺1食を売って利益が10円にも満たないような世界だという。「初めてビバリーヒルズの高級住宅を見た時には、ラーメンの小さな利益では一生買えないだろうなと思ったことがある」と夘木さんは懐かしそうに語り、こう続けた。
「決して、大金持ちになりたくて規模を大きくしているわけではありません。稲盛さんが説いたように、創意工夫があるからやるべきことが増えて、人を増やし、また工夫して。その追いかけっこがずっと続いている感じです」
コロナ下で迎えた創業40年目の2020年、夘木さんは息子の健士郎さんに社長を引き継いだ。妻の恵子さん、娘の久恵さんも経営の中核を支える。稲盛氏に出会った14年前に35人だった従業員は現在303人、売上高は非公表だが、会社が支払う年間給与総額は約1200万ドル(約18億円)の規模になった。
サンヌードルを経営する夘木ファミリー。(左から)長男で社長の健士郎さん、妻・恵子さん、栄人さん、娘・久恵さん(同社提供)
稲盛和夫氏の逝去から3回忌を迎えた。「ハワイのサンヌードル」は「世界のサンヌードル」へと着実に階段を上る。稲盛式「商人道」の国際競争力が試される実践でもある。夘木さんの仕事は、これからが本番だ。
(座安 あきの : Polestar Communications社長)