京都御所(写真:hanadekapapa / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は中宮・彰子の出産後の宮中と紫式部のエピソードを紹介します。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

男子を出産した中宮・彰子

寛弘5(1008)年9月11日、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)は無事に男子(敦成親王)を出産します。

その後は、産湯を使う「御湯殿(おゆどの)の儀」や、親戚や知人から衣服・調度・食物などが贈られ、一同が集まって祝宴を開く「産養(うぶやしない)」と呼ばれる儀式が行われました。産養は子どもが産まれた日から、3日目・5日目・7日目・9日目の夜に行われ、紫式部の日記にもそれらの日の産養の様子が記されています。

5日目(9月15日)の産養は、皇子の祖父である藤原道長の主催で行われたため、紫式部の日記にはその日の様子が詳しく記されています。

また7日目の産養は、朝廷が主催しました。蔵人少将・道雅が勅使としてやって来て、贈り物の数々を記した目録を柳箱に入れて献上しました。

中宮はそれを一目見てすぐにお返しになったようです。柳箱をもらうのは、儀礼的なものだったのでしょう。

7日目の夜の儀式は、特に大掛かりで、皆おおいに騒いでいたそうです。そんな中で、紫式部は中宮彰子がいらっしゃる御帳台(天蓋付きのベッド)をそっと覗き込みました。

紫式部は中宮のそのときの様子をこう書き記しています。

「御帳台の中を覗き込むと、中宮様は、国母と騒がれるような、押しも押されもせぬ御姿ではない。少しご気分が悪そうで、顔もやつれてお休みされている。その姿はいつもより弱々しく、若く、愛らしげだ。御帳台の中には小さな灯が掛けてあり、光に照らされた中宮の肌色は美しく、底知れぬ透明感があり、床姿の結髪で髪の豊かさが目立っている」

出産の緊張感から解放されても儀式などが続き、中宮も疲れていらしたのでしょう。その中宮を見つめる紫式部の心には、中宮を労わりつつ、どこか、年下の妹か子どもを愛おしむような想いが芽生えたのではないでしょうか(ちなみに紫式部は彰子よりも10歳ほど年上でした)。

道長の驚きの行動

出産直後の一連の儀式が終わると、中宮にも休息の時間が訪れました。紫式部の日記には「中宮様は10月10日過ぎまで御帳台からお出ましにならない」とあります。とはいえ、当然ながら、紫式部たち中宮に仕える女房は御座所に出勤し、夜も昼も中宮の傍に常駐したのでした。

そのような中で、藤原道長のある行動が、紫式部の日記に記されています。

道長は、夜中であろうが、未明であろうが、御座所のほうに参り、皇子の乳母の懐を探ったというのです。それは変な意味ではなく、皇子を抱っこしたいからでした。とは言え、可哀想なのは乳母です。ぐっすり寝入っていても、道長に起こされてしまうからです。

道長はそんなことはおかまいなし。首も据わらない皇子を抱き上げて、心ゆくまで可愛がっていたようです。

あるときには、抱っこの最中に皇子が粗相をしてしまったことがありました。道長は、着ていた直衣を脱ぎ、几帳の後ろで炙ってそれを乾かしたそうです。

直衣が濡れたのに、道長はなぜか大喜び。「親王様の小便に濡れるとは、なんと嬉しいこと。濡れた着物を炙る。これこそ、念願が叶った想いじゃ」とご満悦だったのです。

さて、出産後の一連の儀式の次にやって来る一大イベントは、道長の邸への行幸(天皇がお出かけになること)でした。

行幸の日が近づくにつれて、道長は邸内の整備に心を配ります。綺麗な菊を探し出させて、それを土御門殿(道長の邸)の庭に移植しました。白から紫に変色しているもの、黄色一色になっているものと、花の色もさまざま。

美しい花々を見て、紫式部の心も癒やされているのかと思いきや、そうではありませんでした。

日記には「朝霧の絶え間に見える花々を見ていると、老いも退いてしまいそうな気分になる。でも、なぜなのだろう。私にはそんな気持ちになれない」とあります。

無常感に取りつかれた紫式部

どうしたのでしょうか? 紫式部の声に耳を傾けてみましょう。

「もし私が世間並みの考えしか抱えていない人間ならば、風流だ、雅だと浮かれて、無常なこの世をやりすごしたことだろう。

しかし、現実の私はそうではない。素晴らしいことや素敵なことを見聞きしても、これまで密かに望んできた仏道のことに心が強く惹かれて、気が重く、嘆かわしさが募り、苦しいのだ。

どうにかして、何もかも忘れてしまおう。別にいい思い出というものもないことだし。これでは、罪障(往生の妨げとなる悪い行為)も深く、死後が思いやられる」

紫式部は無常感に取りつかれていたようです。そして出家したいという想いに達していたのでしょう。このような想いは、宮仕えしてから芽生えたものではなく、夫の藤原宣孝を亡くした辺りからのものだったと思われます。

紫式部の悩みは深く、夜が明ければため息をついて、水鳥が池で遊んでいる様子を見ては、1人思い悩んでいたのでした。

そしてこのような歌を詠んでいます。「水鳥を水の上とやよそに見む われも浮きたる世をすぐしつつ」


紫式部の歌に登場する水鳥(写真: Asian nature photographer / PIXTA)

「呑気そうな水鳥を、水の上のよそ事だと私は思わない。私もまた他人からしたら、豪華な職場で浮かれ、地に足のつかない生活をしているように思われているのだ。でも、本当は水鳥だって大変なはず。私も、憂いばかりの人生をすごしているのだ」というような意味です。

中宮の出産は、紫式部にめったに見ることができない光景を見せてくれたことでしょう。その一方で、出産に関連する仕事のバタバタで、紫式部は少し疲れていたのかもしれません。

元々、宮仕えをどうしてもしたいと思い、この世界に入ったわけでもないのです。(辞めたいな)という気持ちが紫式部の心を占めていたのでした。とは言え、急に辞めることもできない。(そのような想い、忘れよう、忘れよう)と紫式部の心は動揺していたのです。

紫式部は「水鳥も、外見はあのように、何も気にかかることなく遊んでいるように見えて、実は苦しいのだろう」と水鳥の「本心」と自分(紫式部)の心を重ね合わせたりしています。

心が晴れない時間が続く

そのようなときに、小少将の君(中宮彰子の女房。父は源時通。時通は、彰子の母・源倫子の同母兄弟)から手紙が届きます。

紫式部が返事を書くときに、時雨が降り、曇り模様になりました。「空模様も私と同じ。心騒いでいるよう」と記して、歌を添えて使者に託します。憂鬱な想いを断ち切ろうとしても、すぐにできるものではありません。紫式部の心は晴れないままでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)