東国一の美少女「駒姫」豊臣家に振り回されて、わずか15歳で絶命した悲劇のエピソード
東国一の美少女と名高い「駒姫」。
自身の美貌がキッカケとなり、豊臣家に振り回されて15歳という短い生涯を終えることになった悲劇のエピソードを紹介したいと思います。
駒姫について
駒姫は、最上義光の娘で東国一の美少女と噂されるほど美しい容姿をしていたのだとか。
従妹には独眼竜で知られる伊達政宗がおり、家柄も良かったようです。また、駒姫は容姿だけでなく、教養も兼ね備えた完璧美人でした。
豊臣秀次との出会い
駒姫の評判を聞いた豊臣秀次は、駒姫を側室に所望します。豊臣秀吉の養子だった秀次は、秀吉に実子がいなかったため、次代の天下人になる人物と言われていました。
世間的にはおめでたい話だったのですが、駒姫を溺愛していた父・義光は、秀次の誘いを断ります。
それでも駒姫に執着し続ける秀次に折れた義光は、15歳の駒姫を京へ嫁がせることにしました。
豊臣秀次の切腹
父や母に見送られ、京へ向かう駒姫のもとに「秀吉に謀反を疑われた秀次が切腹した」と言う知らせが届いたのです。
このときに秀吉は、秀次の側室や侍女など30人を超える女性を処刑したと言われています。京へ向かう途中だった駒姫も、すでに側室とみなされ処刑の対象となりました。
秀吉の独裁
駒姫の処刑を知った義光は、「駒姫は秀次と会ってすらいないのに、こんな馬鹿なことがあってたまるか」と激怒し、駒姫の助命嘆願に奔走します。義光の懸命な働きがあり、各方面から処刑反対の声が続出。
これらの勢力を無視できなくなった秀吉は、処刑当日に「処刑を取りやめ、鎌倉の尼にでもせい」と言ったそうです。
遠すぎた100m
秀吉の命を受けた早馬が、駒姫の処刑場へと走ります。しかし、処刑場まであと100mというところで、駒姫は処刑されてしまいました。
享年15歳と言う若さでこの世を去った駒姫の遺体は遺族に引き渡されることなく、処刑された他の側室や侍女と同じ穴に埋められ「畜生墓」と言う名で雑に墓石が建てられたそうです。
母の自殺
駒姫の死後から2週間には駒姫の母も亡くなっていることから、諸説ありますが、駒姫のあとを追って自殺したのではないかと言われています。
愛していた娘と嫁を同時に失った義光は、のちの関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍につき、豊臣家と戦いました。