第74回全国高校野球 3回戦 広島工対明徳義塾 うなだれる明徳の馬淵監督ら ©産経新聞

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長年高校野球を牽引しているのが、明徳義塾の監督を務める馬淵史郎氏だ。馬淵氏は、「高校野球は教育そのもの」と語っている。毎年、チームの戦力を最大化して勝つ確率を1%でも高め、勝利を掴みとるチームビルディングが非常に上手い。まさに「試合巧者」といっていいだろう。
(※本記事は、『甲子園強豪校の監督術』(小学館)より、抜粋したものです)

◆昭和、平成、令和で勝ち続ける明徳義塾・馬淵史郎の観察眼

馬淵氏の野球は「教科書通り」といっていいほど、セオリーに基づいたものである。また、戦略家のクレバーなイメージとは裏腹に、期待する選手には要所の場面で激励するなど、優れたモチベーターとしての側面も見せる。馬淵氏がクレバーなイメージを強めた試合は、かの有名な1992年夏の星稜との試合だ。相手は、松井秀喜(元ニューヨーク・ヤンキース)を擁しており、その松井に対して明徳義塾は5打席連続敬遠をした。今でも語り継がれる試合になったが、馬淵氏は確率を考えて勝負をしなかった。

「エースがおったら、全部敬遠はせんかった。あと、うちが先に点をとれずにリードされたら、勝負しとった」とコメントを残すように、明徳義塾はエースが投げられる状態ではなかったのだ。

このように、勝利を徹底して目指すことにより、人生そのものを教えるのが馬淵監督だ。苦しい練習や試合を最後まで諦めずに耐えて結果を出した経験は、人生にも応用できることだろう。また、人は成功体験から成長することが多く、選手達が勝利を掴んだ経験を得ることで、野球選手としてだけではなく、今後の人生においても大きく成長できるのではないだろうか。

◆結果を出し続けてきた「高校野球の教科書」

チームビルディングを見ても育成や采配、対戦校への作戦などを見ても、「高校野球の教科書」と呼べるかたちで、甲子園を勝ち上がってきた馬淵氏。社会人野球を含めると、昭和・平成・令和で監督を経験しており、3つの時代で結果を残している。1986年には社会人日本野球選手権で監督として準優勝し、高校野球の監督になってからは、2002年夏には、エースの田辺佑介や森岡良介(元・東京ヤクルトスワローズ)などを擁して甲子園を制した。この年はチーム打率.361、チーム防御率2.17、犠打24、失策4とまさに教科書に書いてあるような強いチームだった。

また、ルール変更への対応力や試合中の状況判断力も優れており、Uー18の日本代表監督では、ディフェンス力と正確性の高いスモールベースボールで、初の世界一に導いている。以下が、馬淵氏就任時と前任者の明徳義塾の甲子園での成績である。

・竹内茂夫氏就任時:7勝4敗、春の甲子園に6回、夏の甲子園には2回出場。
・馬淵史郎氏就任時:54勝35敗、春の甲子園に16回(交流試合含む)、夏の甲子園には21回出場。夏優勝1回、 明治神宮野球大会優勝1回。※甲子園初戦20連勝を記録。

◆「今の高校野球の王道」には反しているかもしれないが…

馬淵氏は伝統的なチームづくりを行うが、今の高校野球の王道には反しているともいえる。計算が立つ制球のいい投手を選び、大型のスラッガータイプよりも、小さくても動ける選手を優先し、小回りが利く選手を使うのだ。コントロールが良ければ守備にもリズムが生まれ、打撃にもいい影響が出る。実際のところ、2002年夏の甲子園で優勝した時のエース田辺佑介は、6試合51回2/3を投げて四死球は12だった。9イニング平均で見ると、わずか2.09である。

野手に関しては、守りから鍛えていき、攻撃面では1番打者と3番打者のタイプを多く育て、走力や選球眼、出塁率を重視している。スカウトをする中学生に関しても、パワーや力強さではなく、バランスの良さと足の速さを見ている。基本的には、ディフェンス力を意識しており、派手な野球をして勝ち上がっていくチームづくりではない。