自身のポートレートを指さして微笑む菅原。AZではA代表に招集されると写真が掲額されるという。写真:中田徹

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 2019年7月、19歳の菅原由勢はAZでのデビュー戦を終えると、報道陣の質問より早くこう切り出した。

「まずは使ってくれたアルネ・スロット監督、今まで育ててくれた指導者の方、支えてくれた家族、今までお世話になった人たち、すべての人にお礼を伝えたいと思います。まだまだここは通過点ですし、これからもっと長い道のりがあると思いますけれど、まずはスタート地点に立てたということに感謝の気持ちをみんなに伝えたいと思います」

 あれから5年。日本代表に定着し、オランダで一児の父となった右サイドバックは、この夏、イングランドの港町サウサンプトンに活躍の場所を移す。
 
 菅原がオランダを去る予感があった。

 デビュー戦後に残したコメントの背景を最後に訊いておきたい――。そう思った私は5月、ジュニア、ジュニアユース時代の思い出と、家族との絆を菅原に語ってもらった。

 ラランジャ豊川は2003年発足の街クラブ。2000年生まれの菅原は幼稚園のときに同クラブに入った。

「『雨の日は基本的に練習中止』と言われていたんですが、僕も含めてそれでも来ちゃう子はいるんです。そういう子たちのために宮沢さんは練習場にいた」

“宮沢さん”とはラランジャ豊川の宮沢淳代表のこと。

「1年で360日くらい、宮沢さんとボールを蹴ってたから、会っていた時間は親より長かったと思います。俺がサッカー馬鹿なのは、宮沢さんもサッカー馬鹿だったから。練習が午後5時スタートなら、4時には2人でボールを蹴っていた。ジュニアの練習は1時間くらいで終わるんですが、夜9時くらいまでジュニアユースの練習があるからグラウンドは開いている。『コーチ、ボール蹴ってていいですか?』なんて訊きながら、友だちとずっとサッカーしていた。

 親から『早く帰ってきて』と言われて『分かった』なんて答えるんですけれど、そのまま待たせて9時までボールを蹴り続けた。ありがたいことに、親から『もう止めて帰ろうよ』とか『さすがにやりすぎ』とかネガティブなことを真剣に言われたことが1回もなかった。親が『やりたいことをやりなさい』という環境を作ってくれました。サッカーを自由にやらせてくれた親に感謝しています」
 
 ラランジャ豊川での一番の思い出は? と訊くと、しばし考えてから「あるわ。一番の思い出が一個だけある」と前置きして、菅原が語り出した。

「僕が10歳くらいの時、上級生たちと関東遠征して、ラランジャに入って初めてJリーグの下部組織のチームと練習試合をしたんです。それが水戸ホーリーホックと柏レイソルで、2試合ともコッテンパンにやられてしまった。柏戦は0対20とか、そんな感じ。今、僕はプロサッカー選手としていろいろ経験を積んできましたが、関東遠征で受けた衝撃が一番スゴかった。僕が小4で、相手が小6だったにしても天と地ほどレベルの違いがありましたね。

 監督が『お前ら、何しに来たんだ』って怒っていました。だけど、僕にとっては『アイツらヤベぇ、アイツら、スゲぇ』と思えたことが、むしろ良かった。小学生の頃はまだプロサッカー選手になりたいと思っても、(夢の実現に向けて)半信半疑だったりするじゃないですか。彼らにボコボコにされて、あらためて『アイツらに絶対に負けたくねぇ、プロになりてぇ』と(進むべき夢が)確信に変わったのが、あの瞬間でした」
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 小学生のころ、よく足を運んだのはジュビロ磐田の試合だった。

「名古屋グランパスの試合に行くのも、ジュビロ磐田の試合に行くのも、豊川からあまり変わらないんです。親の世代はジュビロの黄金期だったじゃないですか。だから家族はジュビロファン。お爺ちゃんがサッカー好きだったし、友だちに誘われていくこともあった。初めて行ったのは2007年、エコパスタジアムのジュビロ磐田対鹿島アントラーズ。お爺ちゃんに連れて行ってもらいました。小笠原満男さん、野沢拓也さん、内田篤人さん、マルキーニョスとかがいたアントラーズはとても強かった。僕はジュビロのファンクラブに入っていました」

「ゴリさん(元アンダー世代日本代表監督の森山佳郎。現ベガルタ仙台監督)もそうですが、宮沢さんが僕のサッカーの基盤を作ってくれました」と菅原はしみじみと言う。彼から一番学んだものとは?

「いや、分かんないです。なんか言葉じゃ言い表せない。ボールを一緒に蹴り続けてきたんで。ただ それだけですよ。喋りもしましたけど、話した内容よりも、『サッカーを楽しみなさい』と言われていたので、ボールを蹴って蹴って蹴っての繰り返しが僕と宮沢さんのコミュニケーションだった」

 草サッカーチームだったラランジャ豊川は、菅原が小4か小5のときにサッカー協会に登録して公式戦に出始めた。

「それまでは練習試合だけでしたが、とても強かったので登録すると初年度から東三河地区大会の決勝で大勝して愛知県大会に進んだ。『ラランジャって聞いたことがなかったけれど強いじゃん』と名が売れて、いい選手が集まって、僕のひとつ下はジュニアユースの県大会決勝でグランパスと延長戦まで戦った」

 小5で愛知県選抜に入った菅原は、自分より上手い選手を見て「彼がグランパスのジュニアユースに行くんだろうなぁ。俺はジュビロに行こう」とセレクションの申込書を提出した。しかし突如、グランパスから「うちに来ませんか?」と連絡が来た。

「後から知ったんですが、本命だった子がグランパスに進まず、それで2番手の僕に話が回ってきたんです。僕はグランパスの強さを知っていて、到底届かぬレベルの高さを感じていました。だけど『自分がプロになるために』ということを考えるとグランパスは2010年にJ1で優勝した。杉森考起くん(現徳島ヴォルティス)とか森晃太くん(現福島ユナイテッドFC)がいた世代はジュニアで日本一になったし、育成に強いイメージがあった。それで『プロになれる確率の高いのはグランパスなんじゃないか』という選択をして、名古屋グランパスのジュニアユースに進みました」
 
 代田中学まで母が迎えに来て、菅原を車で豊川稲荷駅まで送る。乗り換えの知立駅まで50分。そこから豊田市駅まで25分かけて夕方5時45分に着く。グランパスの練習開始は6時だった。

「『ヤバい、練習に遅れる!』って汗だくになって走ってグラウンドに行っていたので、いつも準備することなく練習に参加していました。でもサッカーするのが楽しかったから、真冬の寒い日も、夏の暑い日も『今日も練習だ!』と思いながらワクワクして電車に乗っていました。一番大変だったのは帰り。夜11時くらいに豊川稲荷駅に着いて、母の車で家に帰る。だけど両親も仕事をしているから寝ないといけない。だから自分で洗濯して干して、1時くらいまで寝ることができませんでした」

 毎日、グラウンドまで送り迎えしてもらうチームメイトを見て、羨ましいと思ったことはあった。しかし、菅原のように遠くから通っている選手のほうがハングリーだったことにも気付いていた。

「僕らはどこに生まれてどう育つかは選べないじゃないですか。しかし、どう周りを見て、感じて、どういう情報を得て、どういう考え方をするのかは自由ですよね。だから、言い方は悪いけど『ハングリー精神のない、現状に満足しているような選手たちに絶対に負けない。絶対負けねぇ。絶対プロになってやる。絶対一番になってやる』って、車に乗って練習場に来る仲間たちを毎回見て思っていました。『夜中に洗濯して寝る環境のほうが、俺はタフになって這い上がれる』と思ってね」
 こうした日々で芽生えたのが家族への思い。

「平日は学校から駅まで送ってもらって、夜11時にまた駅まで迎えに来てくれた。土日もそう。僕には兄も姉もいるけれど、みんなが僕のために時間を割いてくれました。家族への思いは年を追うごとに強くなる。『家族のためにプロになってみせる』。そう思っていました。彼らのサポートなしにはここまで成し遂げることはできなかった、と強く思います」

 菅原が入ったとき、ラランジャ豊川は近所の公園でサッカーを教えていたクラブだった。それが今や、プロサッカー選手を複数人輩出するクラブに成長し、この夏にはクラブ専用のサッカーグラウンドが完成した。

「スゴくないですか? 『一緒に』と言うとおこがましいんですが、公園の街クラブがそこまで大きくなり、宮沢さんのサッカー指導者のキャリアに携われたのはとても嬉しいですし、僕がたぶん、宮沢さんの完全なる教え子として初めてのプロサッカー選手。豊川市のガキ大将が集まるようなやんちゃなクラブだったんですよ。『こんなところからプロになれるの?』みたいな集団だったのが、僕がグランパスに行ってから、完全にラランジャを見る目が変わったと聞きました」
 
 このオフに報道されたように、今も菅原は日本に帰るとタイミングを見計らってラランジャ豊川に顔を出す。

「特別、変わった気持ちではなく、昔と一緒のようにラランジャに行く。今は子どもたちとサッカーできることが楽しみですね。誰でも入れるクラブだったのが、今はセレクションをするようになったけれど、クラブの基盤となるサッカーを楽しむことは昔とまったく同じです。しかも僕らはとてもOBが来るチームなんですよ。だから友だちにも会えるしリラックスできる。Jリーグクラブの下部組織に進む選手もいるし、個のレベルが高く、愛知県でも有数のクラブになりました」

 こうした感謝を胸に抱いて、菅原はAZデビュー戦直後、家族や宮沢代表、アンダー世代日本代表監督だった森山佳郎たちへの思いを約150文字で語ってくれたのだ。その感謝の思いは5年後の今も変わらぬまま。いや、むしろ強まっているのかもしれないと、インタビューを終えて感じた。

<文中敬称略>

取材・文●中田 徹