良い人生を送るために、どうあるべきなのか?(写真:bee/PIXTA)

現在、学校のみならずビジネス社会においても「教養」がブームとなっている。そもそも「教養」とは何か。なぜ「教養」が必要なのか。

前回に続き、3万5000部のベストセラー『読書大全』の著者・堀内勉氏が、行き過ぎた資本主義社会や気候変動問題に警鐘を鳴らし続ける東大准教授の斎藤幸平氏に、「持続可能社会と教養」をテーマとして、「教養とは何か」「人はなぜ学ぶのか」についてインタビューを行った。

「良く生きる」ことが難しい社会

堀内:私は大きな視点として、「良い人生」と「良い社会」という2つのことをつねに考えています。良い人生を送るために自分はどうあるべきなのかと、自分を取り巻く環境である社会が良くなるにはどうしたらいいのか、その両方を常に意識して考えるようにしています。

ただ、私の場合は始点が「良く生きる」にあります。個人としての良い人生を生きるためには、個人をも包含する「社会」や「国家」や「世界」というものも同時に考えなければなりません。アリストテレスの時代から言われていたように、人間は社会的な生きものだからです。斎藤さんは社会の問題については多くを発信されていますが、個人としての良い人生や、個人としての幸せとは何かについて、どのように思われているのでしょうか。

斎藤:私の場合、活動家的な視点が強く、社会を変えていくことが自分の使命だと考えているので、正直、個人の幸せについて考えることの優先度はあまり高くありません。結局、それは人それぞれだからです。どちらかというと、社会システムといった構造のほうに関心があるのです。

大事なのは、現代社会において、私たちがそもそも幸せに生きることが難しくなっているという構造的問題です。なぜかと言うと、現代の行き過ぎた資本主義社会の下では、私たちの人生の限られた時間で何をするべきかの多くが決められてしまっているからです。社会全体として利潤を求め続けるということが究極の目標になっている世界で、金儲けをする以外の方法で私たちが幸せに生きるということ、つまり自由に生きるということは根本的に不可能になっています。

マルクスはそのような社会の目的そのものを抜本的に変えるためには無限の利潤追求をやめなければいけないと考えた。一方で、それがなくなった社会で何を求めるかは個人の自由だし、そこを決めてしまったら自由がなくなり、全体主義になってしまいますからね。

堀内:古代ギリシャのソクラテス以来、「良く生きる」ということは大きな哲学的命題のひとつとして存在していると思いますが、そのあたりはあまり関心事ではないということになりますか。

斎藤:そうですね。もちろん、良く生きることはとても大切なことですが、良く生きることを考える前に、そもそも私たちは良く生きることが不可能になっている社会に生きている、そのことのほうが問題だと考えます。

堀内:資本主義の話が出ましたので、そのテーマについてお聞きしたいのですが、私は最近「資本主義の全世界化」ということを強く感じています。つまり、資本主義の外側の世界がどんどん狭まっていて、すべてが資本主義という枠組みの中に取り込まれつつあると。かれこれ40年ほどビジネスの世界に身を置いている中で、加速度的に資本主義の領域が広がっていると感じています。

たとえば、財務省や中央銀行というのは、本来、経済原理の外にあって、マーケットで民間のプレーヤーが暴走してどうしようもなくなったときに、ラストリゾート(最後の救世主)として民間を助けるという存在でした。ところが、2008年に起こったリーマン・ショックのインパクトがあまりに大きすぎて、傍観者ではいられなくなってしまった。いまでは日銀が大量に国債や株式を保有していることに見られるように、財務省や中央銀行が主要なプレーヤーとして参戦しないとマーケットが機能しなくなっている。

これは、サッカーにたとえれば、審判がいきなりボールを蹴り出してしまった感じです。後ろを振り向くと、もうそこには審判はいなくて、審判であった人も含めて全員がプレーヤーになってしまい、全員が勝ち負けにこだわって必死に闘っている。つまり、中立的でメタな視点を持っている人がもはやいないという社会になり、資本主義がどんどん拡大しているのです。大航海時代の植民地経営に始まり、その領域は加速度的に広がっていて、今やイーロン・マスクのような人も出てきて、バーチャル空間から火星まで資本主義の対象が広がっているというイメージを持っています。

大学も「資本の論理」で動く時代

そのような中で、大学でさえも資本主義の論理の中に組み込まれてしまい、学者も学会で評価されて、東大というピラミッド社会の頂点に位置する大学の教授になるというのが最終的な目標になり、皆さんがそこに向かって頑張っているように感じます。今ではそれがハーバード大学やオックスフォード大学など海外の大学まで巻き込んで、国際的な競争社会になっているという感じでしょうか。そのような状況にあって、教養が大学の中で生き残れるのかをとても心配しているのですが、資本主義と大学との関係については、斎藤さんはどのようにお考えでしょうか。

斎藤:それは堀内さんのおっしゃる通りで、資本主義がありとあらゆるものを商品化する中で、儲けを出さないものは社会のお荷物であるというような考え方が、本来儲けを出すことがきわめて難しいものについても当たり前のように当てはめられ、要らないものはどんどん切り捨てられるような方向に進んでいます。

大学についても同じで、研究とお金儲けが一定程度両立する場合もありますが、研究すべてがそういうものではありません。ところが、儲けの論理が国立大学にまでもどんどん入ってきている。大学10兆円ファンドの支援対象の公募について、東大と京大は落ち、東北大学だけが選ばれたということがニュースになりましたが、支援を受けるためには条件があり、事業を年平均3%拡大することや効率的な改革のためにトップダウンの理事会などさまざまな委員会を設置することが求められています。正直、めちゃくちゃな話です。

というのも、これらの条件を受け入れた瞬間、成長の論理を大学の中にも持ち込むことになってしまいます。成長の論理に適応できる人だけが生き残れるような大学になっていき、雇われる人たちも効率よく3年で論文を書けるようなテーマを見つけて、そこそこのジャーナルにうまく載せられるような器用な人たちだけになってしまうことは、いろいろな弊害を生むことになるでしょう。

本来、教養や学問(特に人文知)というものは非常にスローであり、資本主義的な効率とは相容れないものです。昨今の教養ブームが行き過ぎたビジネスへの反省という意味でも興味深いのですが、行き過ぎた資本主義そのものを見直さずに教養教育だけを掲げても、結局コスパよく教養を身に付けようというファスト教養的なものに矮小化され、マニュアル化していくだけでしょう。

大学は「最後の知の拠点」であるべき

行き過ぎた資本の論理については、教員だけではなく学生にも言えることです。私は、経営共創基盤グループ会長の冨山和彦さんが提唱している、大学をグローバル型とローカル型に分け国際競争力のある大学以外は地域特化型の職業訓練校にすべきという話には批判的です。ローカル型大学の学生たちは資格を取ればいいのだから教養は要らないということになっていけば、昨今の文学部不要論のようなものに拍車をかけることになる。学生の側も資格を取れればいいという気持ちで大学に来るようになってしまえば、最後の知の拠点としての教養教育も骨抜きになってしまいます。その先にあるのは、超格差社会です。

社会に出ると、マニュアルや小手先の知識・暗記では対応できないような問題が山積しています。気候変動や人口減少の問題をマニュアルだけで対応していくのは当然無理ですし、行き過ぎた資本主義社会の問題を資本主義の中だけで解決していくことも難しいとすれば、古典を通じて全体を俯瞰したり、メタな視点をとったりできる知を、クリティカル・シンキング、ロジカル・シンキングとして身に付けていく教養教育をどのように守ってくかということは、今後、ますます重要になっていくと思います。

堀内:私は、「生きる力」というのがとても大事だと思うのですが、いわゆるサラリーマンは、肩書を取ったら何が残るのだろうという人がほとんどです。学者もまったく同じで、斎藤さんのように東大の教授という肩書を取っても、発信力があって社会に影響を与えられる人が大学で自由に活動していることは、教養という意味でもすばらしいことだと思います。

一方で、大学の中にも肩書に頼らなければ生きられないような先生もいて、そのような人が「教育の自由」を盾に大学改革を批判していることには疑問を感じています。斎藤さんとそのような人たちは一体何が違うのでしょうか。なぜ斎藤さんは特別なのでしょうか。

斎藤:私にとっての大きな転機は10代でアメリカに留学したことだと思います。英語も全然できず、何もわからない。東京出身で私立の男子校に通っていたところから、急にマイナーアジア人になるという経験、つまりは無意識のうちに履いていた下駄が一気になくなるような経験をしたのです。そうすることで自分がそれまでいかに恵まれていたかを少しは自覚できたと思います。

そのうえで、英語しか通じない世界で、本場のリベラルアーツ教育に触れ、英語で古典の知識を摂取し、それを大きな文脈で議論するというようなトレーニング機会を早い段階で受けられたことは、今の自分につながっているとは思います。

堀内:自らの経験から得たものをメタなメッセージにしていただいて、それが大学改革につながればすばらしいことですね。実は冨山さんとは個人的に親しくしていて、彼は食べていけない若者を大量に見ているので、そこに強い問題意識を持っているのだと思います。まず食べていけるという前提があり、文化や教育はその上に成り立っているというのが彼の考えで、大学の教員という守られた立場にもかかわらず、社会に何の貢献をしているのかよくわからないというような教員を批判しているのだと思うのです。

東大のようにトップの大学では学問の探求をグローバルレベルで続けてもらえばいいのですが、必ずしもそうでないところは、大学全入時代を迎えた今、学生たちにまず現実社会で生きていく力を身に付けさせてあげることが、教育の最低限の務めではないかということです。

斎藤:そうですね。大学人に関しては、労働者を解雇しやすいアメリカにおいてもテニュアというルールがあって、解雇をかなり難しくしています。食える・食えないだけの論理を教育や研究に持ち込むと、かなり歪んだかたちになってしまうということを、アメリカでさえ認めているということかもしれません。

教養とはメタ視点の土台

堀内:最後になりますが、斎藤さんがお考えになっている「教養とは何か」について、改めてお話しいただけますでしょうか。

斎藤:教養というのは、メタな視点に立つことができるための足場だと思っています。今の社会はとにかく金儲けをすればいい、この資格を取ればいい、このジャーナルに載ればいいというように、いろいろなところである程度、場合によっては絶対的に目的があらかじめ決まっていて、そのための手段をどう組み立てればいいのかというような、マニュアル化したゲームのようになっている。その中で効率性を求めて、そのゲームに勝ち残ることにみな必死になっています。

お金儲けをすればいいとなったら、その中で競争できます。よりすぐれた企業はどこか、できるビジネスマンは誰かという話であれば、数値化してある程度答えを出すことができるでしょう。しかし、そういうものではない、例えば、「良い人生とは何か」「何が正義なのか」という問いになった瞬間、みな意見が異なってきます。イスラエルとハマスはどちらが悪いのかというような問いも同じです。

教養というのは、そのような意見を一致できないものについてしっかり議論したり、そのためにまず考えたりすることができるようになるための土台になるものです。そのようなことは古典を通じてわかるように、われわれの先人たちが繰り返し議論し考えてきたことでもあります。だからこそ古典を読むべきなのです。

暗記や知っていることを増やすことで、現在の場に安住し、権力性を強固にすることは教養ではありません。そうではなく、古典に代表される教養や知に触れることで、それまでの常識が揺さぶられ、崩れるような経験をすることこそが教養なのです。ヘーゲルはそれを「本来の意味での経験」と呼んでいます。例えば、自分にとっては、サイードのパレスチナ人の視点から描かれる植民地支配、マルクスの描く資本主義の暴力性、石牟礼道子の水俣の歴史などに触れることが、東京出身である自分の常識への欺瞞的な安住を崩す教養の経験になったと思っています。

堀内:たくさんの貴重なお話をありがとうございました。

(構成・文:中島はるな)

(斎藤 幸平 : 東京大学大学院准教授)
( 堀内 勉 : 多摩大学大学院教授 多摩大学サステナビリティ経営研究所所長 )