10年以上のひきこもりを経て「350円+350円の計算ができない」40歳女性が障害者手帳を取得するまで「大変だったのは自分の中で気持ちの折り合いをつけること」
全国に146万人いると推計されるひきこもり。小5から10年以上ひきこもったというこの女性の場合、いざ社会に出た後に苦難が待っていた。仕事をすればミスを重ね、職を転々としたのち、発達障害との診断を受けて障害者手帳を取得。資格を取ろうと職業訓練校に入るが挫折。障害者雇用で勤めるが心が折れる…それでも前を向いて、笑っていられる彼女の生き様とは。(前後編の前編)
小5で不登校になり、10年以上ひきこもる
ひきこもり、不登校、生きづらさを抱える人たちの“居場所”で出会った川原愛美さん(仮名)は40歳。おっとりした口調とかわいらしい雰囲気で30代にしか見えない。話はていねいでわかりやすく、一見、何に困っているのかわからないほどだ。
ニコニコと笑いながら、さらりと自虐する川原さん。生い立ちを聞くと、かつて10年以上、ひきこもっていた経験があるのだという。
川原さんが自宅にひきこもり始めたのは1993年。その少し前までは「登校拒否」という言い方が一般的だったが、かわりに不登校という言葉が使われるようになってきたころだ。
「子どものころ病気で入院してて、小学校も行ったり休んだりで。5年生の時、学校でいろいろあり過ぎて、何かね~、疲れ果てて。私が学校に行かなくなったら、それまでイジメまではいかなくても無視してたような子が急に態度を変えて、『学校においでよ』『仲よくしよう』って手紙を寄こしたり、家まで迎えに来たり。それ、本心ならいいよ。でも、絶対に違う。先生にやらされてるの、絶対! 気持ち悪いだけですよね。
だから、そのときは、ひきこもる以外どうしようもなかったんです。でも、そのまま時間が過ぎるのを待ち過ぎちゃって、なんかおかしくなっちゃったなーって、今は思っています。エネルギーを発散する場所もなく、どんどんエネルギーがなくなっていったという感じかな」
親に言われた「落ちたのは高校行ってないからだ」
当初は親も「学校に行け」とうるさく言い、児童相談所にも連れて行かれた。だが、半年も経つとあきらめたのか、あまり口にしなくなったという。川原さんは家でテレビを見たり、ゲームをしたり、たまに母親と出かけたりもした。
小学校の同級生はみんな同じ中学に進むため、中学も登校しないまま卒業。高校は行きたかったが、内申点がゼロのため、あきらめた。今は通信制高校やフリースクールといった選択肢も増えているが、当時は不登校でも受け入れてくれる学校は近くになかったという。
16歳になると大学入学資格検定(大検、現・高等学校卒業程度認定試験)が受けられる。川原さんは家で大検の勉強をしながら、飲食店のアルバイトに応募した。だが、あっさり落とされてしまう。そのときは落ちたことよりも、親の態度に傷ついたそうだ。
「親に『落ちたのは高校行ってないからだ』とぼろくそ言われて。それから、他のバイトにも応募できなくなったというのが、正直なところなんですよね。もし、あのとき、親に『次を探せばいいよ』と言われていたら、違ったかもしれないけど……」
ひきこもりから脱したが、仕事でミスを連発
22、3歳の時、家を出た。彼氏ができて一緒に住み始めたのだが、彼の仕事が忙しくなりうまくいかなくなって、結局、実家に戻る。再び、家を出たのは20代半ばだ。最初に勤めたIT関連会社で同僚の男性と仲よくなり、彼の家に転がり込んだのだという。
「母親はもともと変な人だから、もうこれ以上、一緒にいられない。じゃあ、出るしかないと必要に迫られて。ただ、結婚しているわけではないので、何の保証もないです。養ってもらっているわけじゃないから、自分の生活費は自分で。家賃は払ってないけど、追い出す気もないみたいなので、そのままいるだけです」
10年以上に及んだひきこもり生活は、こうしてあっさり終わる。だが、本当に大変だったのは、ひきこもりから脱した後だ。
仕事は事務職のアルバイトだったが、ミスが異様に多かった。書類仕事をしながら電話を取ると、担当者へ伝言するのを忘れてしまう。棚卸の手伝いをして店舗の商品のバーコードを機械で読み取ると、なぜかカウントミスをする。しかも、いくら注意していても、同じ失敗を何度も繰り返してしまうのだ。
後に、川原さんは発達障害の一つであるADHD(注意欠陥/多動症)と診断されるのだが、働いていたときは「何でうまくいかないんだろう。まあ、不器用なんだろうな」とあまり深く考えなかったという。
ただ、困ったのは、同僚の1人に徹底的に嫌われたことだ。
「もともとその職場のボスみたいな女の人で、ガタイもでかくて、なんか、私の存在自体がムカついたみたいです。私はデータ入力がまあまあ早かったから、ミスはあってもしょうがないかという感じで雇われ続けていたのも、許せなかったみたいです。たぶん、その女性も発達(障害)だったんだと思います。多動だし、人に対して乱暴だし。
もちろん、その女性は自分が発達なんて、自覚はないですよ。当時は私もわからなかったけど、でも、今ならわかります。どこに行っても、ああいうタイプの女の人によく目を付けられるんですよね」
その会社は2年ほど勤めて辞めた。大手に吸収合併されて、会社にゆとりがなくなり、ミスの多い川原さんは居づらくなったからだ。その後は、コールセンター、飲食店など仕事を転々とした。
つながりを求めて“居場所”に通い始める
生きづらさを抱える人たちの居場所に通い始めたのは27、8歳のころだ。ひきこもり、不登校、発達障害、精神障害など対象者によって、いくつもの居場所があり、定期的に集まって情報交換をしたり、ボードゲームをしたりして過ごす。
「仕事はしていたけど、虚しさもあって、何となく顔を出してみようと思ったのかな。そのころテレアポの仕事をやってたんですよ。通信教育の会員をやめた人に電話をかけて、またその会に入りませんかって勧誘する。相手は“結構です、ガチャン”。社会に迷惑をかけるような仕事だったから、余計にね」
それから15年以上経過した今も、川原さんは居場所通いを続けている。長く続いている居場所もあれば、途中で活動をやめてしまうところもあり、川原さんが足を運んだ数は相当なものだ。
「やっぱり、つながりが欲しいんです。いざというときに助けてもらうため、こうやって居場所に顔を出して無理やり誰かとつながっている感じかな。実家を出てからは親とも連絡を取ってないし、一人っ子で兄弟もいないし。ちゃんと頼りになる人がいたら、そんなに真剣にならないかもしれないけどね。
そもそも他で誰かと出会う場所はないですから。ない、ない。学校という枠から外れると、もう、出会いも何もないんですよ」
“普通”をあきらめて、障害者手帳を取得したが……
居場所に通い始めてしばらくして精神科でADHDとの診断を受け、障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳2級)を取得した。
手帳を取ること自体は難しくなかったが、大変だったのは、自分の中で気持ちの折り合いをつけることだったという。
「そりゃあ、“普通”をあきらめて、障害者になるわけですからね……」
自分が発達障害かもしれないと思ったきっかけはあるのかと聞くと、「う~ん、何となくとしか言えないな」と言って、川原さんはしばらく考え込んだ。
「居場所とかで発達障害の情報と知識が入ってくると、自分も当てはまると思うようになってきた気がする。ちょっと忘れっぽいとか、片付けが下手とか、不器用とか。音にも過敏だしね。職場だと音が気になって仕事に集中できなくても、席を立ったり移動したりできないから、神経すり減らすだけです。コンサータという薬を飲むようになって、だいぶマシになりましたけど。飲むと頭の中が静かになって、多少は集中できるようになるんです」
発達障害は先天的な脳の発達の偏りによるもので、能力に凸凹があると言われている。川原さんの場合、事務仕事でのミスの他に、数字の処理速度も遅かったそうだ。
「花火大会で焼きそばの屋台を手伝った時、350円+350円の計算ができなかった。暗算が無理なんです。その代わり、電卓を使えば謎の速さを誇るけど(笑)。パソコンは普通に使えたし、人前で話せと言われれば、それなりに話せる。だから、他の人から見たら謎でしかないみたいですよ」
見た目ではわかりにくい障害だからこそ、なかなか生きづらさを他人に理解してもらえないのだろう。その後も、川原さんの苦悩は続いた――。
(後編)へ続く
取材・文/萩原絹代 写真/shutterstock