田島令子、社会現象になった『ベルばら』のオスカル役。演じるうちに自分の声が出なくなり…「回復まで20年ほどかかりました」

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1971年、童話朗読番組『おはなしこんにちは』(NHK)でデビューし、多くの映画、テレビ、舞台に出演してきた田島令子さん。

1977年、『地上最強の美女 バイオニック・ジェミー』の主役・ジェミーの吹き替えで声優としても注目を集め、キャスリーン・ターナー、カトリーヌ・ドヌーヴ、シャロン・ストーンなど数多くの海外の女優の声を担当することに。

アニメ『ベルサイユのばら』のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、『クイーンエメラルダス』のエメラルダスなど、人気キャラクターの声でも知られている。

 

◆『ベルばら』で声が出なくなり…

池田理代子さんによる漫画『ベルサイユのばら』は、1972年から1973年まで『週刊マーガレット』(集英社)で連載され、大ヒットとなり、宝塚歌劇団の舞台化も話題に。

日本・フランス合作で実写映画、アニメなども制作され、社会現象となった『ベルサイユのばら』は、フランス革命前から革命前期のベルサイユを舞台に、男装の麗人・オスカルと兄弟のように育った乳母の孫アンドレ、フランス王妃マリー・アントワネットらの人生を描いたもの。田島さんは、1979年、アニメ版でオスカルの声を担当することに。

−オスカルは本当に印象的でした−

「お話をいただいたとき、残念ながら、私は『ベルサイユのばら』を存じ上げませんでした」

−『地上最強の美女 バイオニック・ジェミー』の後なので、『ベルばら』のときには声のお仕事にも慣れていたのでは−

「いいえ、アニメの声のお仕事は初めてで、絵が完成していたのは第1話だけだと思いますが、毎週放送していたので、絵がなかなか間に合わなくて、唇の形だけとか線で動くとか、その動きに合わせてセリフをしゃべるんです」

−今もアニメ作品は、声を入れるときには絵ができていない、時間がかかるから間に合わないと言いますね−

「そうですね。アメリカなどは俳優が声を先に録って、それに合わせて絵を作ると聞いたことがあります」

−『ベルばら』は初めてのアニメということで、どのように?−

「プロデューサーの方が最初に、『田島さん、オスカルはあくまでも女性ですからね。それを心にもって演じてください』とおっしゃったので、その言葉を心に置いて演じておりました。

ですが、そのときの演出家の考えと私の思いが演じる上で徐々にすれ違いはじめて、気がつけば本来の私の声が出なくなってしまったんです。

それからは、マイクの前に立つと自分の声で演じることができなくなってしまって…。演出家の演技指導と私の演技方法との違いから、制作サイドの意向により彼は現場を去ることになりました」

 

◆回復まで20年かかることに

ストレスで思うように声が出なくなったとはいえ、ナレーションと吹き替えのオファーが絶えることはなく、田島さんはますます多忙な日々を送ることに。

「思うように声が出ない状態でも私の中では必死に回復したいという気持ちで仕事に臨んでいましたが、いざマイクを前にすると喉が詰まってしまって…」

−『ベルばら』はずっと観ていましたけど、まったく感じませんでした。やっぱりカッコいいなあと思っていました−

「でも、自分では、本来ある自分の状態というのをわかっているので、それはもう全然違いました。心が自由じゃなくなっているから、そう簡単には戻らないんですよね。

『ベルばら』に新しく来た演出家は、前から知っている方だったので『令子ちゃん、どうしたの?もっと声を出していいんだよ』って言ってくださいました。自分では声を出しているつもりだったんですが…。カフ(音響機器)で上げてうまく調整してくれていたのではないかと思います。今はもう大丈夫ですけど、20年ほどかかりましたね」

−本当に聴き心地のいい澄んだステキな声で、キャスリーン・ターナー、カトリーヌ・ドヌーヴ、シャロン・ストーンほかたくさんの方の声をやられていましたね−

「そうですね。最初は舞台だけやっていたかったのですが、でも、やっぱり人間というのは、それでも必死になって一生懸命やりますよね。

当たり前のことですが、セリフは全部覚えて、現場には台本は持って行かないと決めて一生懸命やっていました。みんなそうだと思います」

−声の録音のときに動きやすいようにとスウェットなどで行かれる方もいるようですが−

「私は、別に着飾ってはないけれど、ちゃんとした格好で行きます。小さい頃から母に、『あなた、誰が見ているかわかりませんよ。だから、ちゃんとした格好で出かけなさい』と言われていましたから。母はそういう人ですね。

中学から高校にエスカレーターで上がる女子高だったので、『お出かけするときは制服で行きなさい』って言われていましたしね。そういう厳しい学校だったんです。『喫茶店、映画館、ボーリング場にひとりで入ってはいけません。父兄と一緒に行きなさい』って。

中学、高校は女子校だったので、大学に入ったときに男の子たちがいることに本当にビックリしました。入学式のとき、日大講堂の中は人数が多いし、気持ちが悪くなってしまって、父に『気持ちが悪い』と言った覚えがあります。男性というと、父と学校の先生しかわからないという子だったんです。

私は化粧の『ケ』の字も知らないような子でしたから、初めて学食に行ったとき、女の人(先輩)がお化粧をしてタバコを吸っていたのを見てビックリして。『しまった!不良の大学に入ってしまった。学びの場なのにお化粧をしている。二度とこんな学食なんかに行かない』って思って。

次の日からおにぎりを持って行って、空いている教室を見つけてそこで食べていました。大学の外に出たら食べるところはたくさんあるのに、ひとりで入ったことがないわけですよ。

だから、『何だか変わった子だよね』みたいな感じで(笑)。あるとき、横須賀から通っていたので、雨が降っているとレインコートを着て長靴を履いて、長い傘を持って行くんですが、東京に着くと雨がやんでいたりするんですよね。

それで男の子たちが『どこから来たの?』って聞いて来るので、カチッときて、『神奈川県!』って言って、バーッと駆けて去ったことがありましたね(笑)」

−女子校出身で男子生徒に慣れていないですしね−

「そうですね。でも、その後、口紅をつけるようになって。そうすると、また男の子が『今日は口紅の色が…』とか言うんですね。『何で知らない人に口紅の色のことまで言われなきゃならないの?何か気持ち悪い』って思って。毎日家に帰ると母にブーブー言っていたみたいです」

−まったくスレていなくてすごいですね−

「ずっとスレていなかったのですが、すぐ染まりましたね。ツイッギーがいけないんです(笑)。ツイッギーの影響で日本中の女性が眉毛を細くして付けまつ毛をして、すごい濃いお化粧をするようになりました」

※ツイッギー=1960年代に大きな瞳と小枝のように華奢なスタイルで「ツイッギー(小枝)」という愛称を得て、世界中で人気を博し一世を風靡したモデル。

−ツイッギーと同じようにしたのですか−

「やりました。付けまつ毛なんて素人だからすぐ外れてしまうんですよね(笑)。それで眉毛を細くしたら、母が怒って『何でそんなことをするんですか?絶対に眉毛はいじっちゃいけないのに』って。母は自分の眉毛が薄かったから、私の眉毛が濃いのがうれしくて大切にしていたんですよね。

今は後悔していますけどね。親が言うことを聞いておけば良かったと思いますが、若いときは耳を貸しませんよ。恋をしたときも両親は知らないことですが、その人を知る周りの大人たちが『あの人だけはやめなさい』と忠告されましたけれど、そのときは私にはわからなかったんですよね。あー、聞いておけば良かった!(笑)」

声優として人気を集める一方、映画『人間の約束』(吉田喜重監督)、映画『話す犬を、放す』(熊谷まどか監督)、『3年B組金八先生』(TBS系)など多くの映画、ドラマに出演。次回はその撮影エピソード&裏話なども紹介。(津島令子)