誰も知らないマイナー車 40選 後編 名車の影に隠れた不運でマニアックなクルマたち
ラサール・シリーズ340
ラサールは、キャデラックの兄弟ブランドであるが、ゼネラルモーターズ傘下で1927年から1940年までしか営業していなかったため、今日ほとんどの人に馴染みがない。しかし、そのモデルはどれも印象的なものだ。
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どのモデルもここで紹介する価値があるが、今回は1930年モデルのみ販売されたシリーズ340を取り上げる。5.6L V型8気筒エンジンを搭載し、フリートウッドのボディのいずれかを選択することができた。
ラサール・シリーズ340
リンカーン・リド
20世紀半ば、フォードはライバルのクライスラーやゼネラルモーターズよりもハードトップ・クーペを発売するのが遅れていた。そこで、4車種をほぼ同時に発売することになった。自ブランドのクレストライン、マーキュリー・モントレー、そして最も高級なブランドであるリンカーン・コスモポリタン・カプリとリドである。
リド(パンフレットには「これほど魅力的なカスタマイズを施したクルマはほとんどない」と書かれている)には多くの魅力があったが、同じメーカーから出た3つの類似モデルと、他のビッグスリーから出た定評あるライバルを相手に売り込むのは難しかった。1950年と1951年のモデルでは売れ行きは芳しくなく、その後販売中止となった。
リンカーン・リド
マルケット
GMにはマルケットと名付けられた2つのブランドがある。最初のマルケットは1909年から1912年までしか存続しなかったし、2番目のマルケット(今回取り上げるブランド)はさらに短命だったため、どちらも今日では有名ではない。ビュイックの兄弟ブランドであり、6つのモデル名があったが、すべて同じクルマでボディスタイルが異なっていた。
ウォール街の大暴落とそれに続く恐慌が発生した1929年に生産されたこともあり、ビュイックのどのモデルよりも安価であった。米国とカナダの工場での総生産台数は約4万台で、需要があったことは明らかだが、GM社内の不穏な空気により、わずか1シーズンで生産中止となる。奇妙なことに、マルケットの3.5L直6エンジンはその後、オペルのトラックに使用された。
マルケット
メルセデス35HP
35HPは、ダイムラーのエージェントの1人であるエミール・イェリネック氏(1853-1918)の依頼で設計された。彼は、19世紀において自動車の重心を通常よりも低くすることの重要性を認識していた。1901年に登場した35HPは、パワフルな5.9Lエンジンによって強力な競技車両となり、公道向けの量産車としても優れた能力を発揮した。
イェリネック氏はこのクルマに娘の名前を使った。その後、ダイムラーがその名前を登録し、1世紀以上にわたって自社のクルマに使ってきた。たとえ35HPを知らない人でも、メルセデスの名は聞いたことがあるだろう。
メルセデス35HP
MG SA
近年は状況が変わったが、MGはかつてMGBやミジェットといったスポーツカーで知られていた。1936年のSAは、期待されていたよりも大きく、重く、オーソドックスなもので、そのパワーウェイトレシオから爽快な加速は不可能であり、愛好家からは懸念の声が上がった。
このことと、生産開始から4年も経たずに生産が終了したことが、今日、MGファン以外でこのクルマを知る人がほとんどいないことの理由かもしれない。見た目はすばらしく、価格も競争力があり、高速クルーザーとしても優秀で、ハンドリングも素晴らしかった。さらに、第二次世界大戦前に販売された数多くのMGモデルの中で、3番目に売れたのである。
MG SA
日産Be-1
1980年代後半から1990年代前半にかけて、日産はパイクカーと総称される個性的ななスタイルのモデルをいくつかは発売した。デザインライターのフィル・パットン氏(1952-2015)はかつて、パイクカーを「ポストモダニズムの極致」と評した。日本国外では、レトロモダンなフィガロと奇抜なエスカルゴ(カタツムリのような小型バン)がよく知られているが、この2台に先駆けて1987年初頭にデビューしたBe-1のことはあまり知られていない。
Be-1は初代マーチをベースとするキュートで小さな2ドア・セダンで、人々の想像力を大いに刺激した。日産は生産台数を1万台までとしていたが、それ以上の注文を受けた。日産は、Be-1を特別な存在にしておきたいと考え、当初の計画を守り、抽選で購入者を決定した。
日産Be-1
NSU Ro80
Ro80は、シトロエンGSに匹敵する、いや、それを凌駕する革新性を備えた、当時の数少ない大衆車の1つである。完全独立サスペンション、全輪ディスクブレーキ、非常に空力的なボディ、ツインローターエンジン、シフトレバーに触れるだけで操作できるクラッチなど、あらゆる要素が傑出しており、1968年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
傑作と賞賛されるには十分な理由があったが、そのロータリーエンジンは初期には絶望的なほど信頼性が低かった。やがて問題は解決されたものの、Ro80の評判はすでに修復不可能なほど傷ついており、販売不振を招いた。1970年代後半にはNSUブランドは廃止された。
NSU Ro80
オペル24/110
今日に至るまで、オペルは1928年の24/110より長いクルマを製造したことはない。一般にリージェントと呼ばれるが、やや遅れて登場した同名の小型車と混同することのないように。全長5400mm(212.6インチ)のロングボディを誇り、クーペとリムジンが用意され、いずれも6.0L直8エンジンを搭載している。
リージェントは、オペルが作りうる限りのラグジュアリーなモデルであり、今日ではロールス・ロイスやキャデラックと同じように見られるかもしれない。しかし、1929年に生産が突然中止されるまで、わずか25台ほどしか作られなかった。このクルマがあまり知られていない理由として、その希少性と、同年にオペルがゼネラルモーターズに買収されたこととの関連性を指摘する声もある。
オペル24/110
プジョー204
2023年現在、クルマにそこそこ興味のある人なら、最初の偉大なプジョーは205だと考えるのが妥当だろう。もっと古い504も歴史に名を残すが、かつて高く評価された204については、悲しいかな、もはやあまり語られることはない。
プジョーは前輪駆動方式の採用に遅れをとり、1965年の204で初めて採用したが、ディーゼルエンジンをいち早く搭載し、複数のボディスタイルを設定。セダン、ステーションワゴン、クーペ、バンに加え、非常にスマートなコンバーチブルもあった。全体として大成功を収め、204は1969年から1971年にかけてフランスの販売台数チャートをリードした。
プジョー204
ポルシェ912
この写真のクルマは、誰もが知るポルシェ911によく似ている。実際のところ、これはポルシェ912であり、4気筒空冷エンジンを搭載していることを除けば、多かれ少なかれ同じものである。
911を基準にすると、912のパフォーマンスは期待外れだったが、エンジンが軽いことがハンドリングの向上に寄与しているとマニアは言うだろう。また、安価で経済的であったため、1965年から1969年までポルシェの門戸を広げていたと言える。これはすべて、1976年モデルに北米でのみ販売された912Eにも当てはまる。
ポルシェ912
ルノー16
言葉の定義にもよるが、ルノー16は2ボックスのボディスタイルと複数のシート構成を持つ、現代的な意味での初のハッチバックであったことは間違いない。
それとはまったく別に、ルノー16はオールアルミ製のクレオン・アルー・エンジンを搭載した最初のクルマでもあった。このエンジンは後に多くのルノー車に搭載されることになり、世界ラリー選手権で優勝したアルピーヌA110とロータス・エウロパという、16とは大きく異なるモデルにも搭載された。
ルノー16
ロールス・ロイス20HP
40/50の「シルバーゴースト」よりも小さく、軽く、安価な20HPは、運転手を雇う余裕のない、あるいは単に自分で運転することを好むオーナー向けの新しいタイプのロールス・ロイスだった。1922年10月に発表された当時、そのシンプルなデザインは万人に受け入れられるものではなかった。
外観を巡る騒ぎはやがて沈静化し、20HPは今ではあまり知られていないロールス・ロイスの1つとなった。1929年に後継の20/25が登場するまで、20HP は2940台が製造された。
ロールス・ロイス20HP
シムカ1100
2年前に登場したルノー16と同様、1967年のシムカ1100は、折りたたみ式リアシートを備えた前輪駆動のハッチバックだが、エンジンが縦置きではなく横置きに搭載されるという、より現代的な特徴も備えている。車名から、エンジンの排気量は1.1Lと思われがちで、一部事実であったが、小型のものと大型のものも用意されていた。
ボディスタイルはハッチバックだけでなく、ステーションワゴン、ピックアップトラック、バンも選択できた。1974年に登場した1100Tiは最高出力82psというパフォーマンスを発揮し、フォルクスワーゲン・ゴルフGTiに2年先駆けて世界初のホットハッチと呼ばれることもある。
シムカ1100
スコダ422
今となっては信じがたいことだが、20世紀後半、スコダはジョーク・ブランドと見なされていた。それは従業員の才能が不足していたからではなく、共産主義時代に資金不足に陥っていたからだ。
第二次世界大戦以前は、状況は大きく異なっていた。1929年から1932年まで製造された422は、当時の小型大衆車にはあまり見られない品質を誇る。装備が充実しており、シートの座り心地もよく(特に後部座席は広々としている)、かつてのスコダの姿を今に伝えるモデルである。
スコダ422
トヨタ・センチュリー
センチュリーは日本以外ではほとんど知られていない。皇族や一部の政治家、富裕層、権力者のみが購入できる、トヨタのフラッグシップ・ラグジュアリーモデルである。1967年以来、1997年と2018年のアップデートを含めてわずか3世代しか生産されていない。
第1世代は4.0LのV型8気筒エンジンを搭載するが、第2世代にはセンチュリーのために開発されたトヨタ初のV型12気筒エンジンが搭載された。
トヨタ・センチュリー
トライアンフTR250
トライアンフのTRシリーズの中で唯一、車名に3桁の数字が付くTR250の知名度は、国によって大きく異なる。本国英国では(トライアンフ愛好家やクラシックカー専門家を除いて)ほとんど知られていないが、米国でははるかに親しまれている。
TR250は、2.5L直6エンジンがフューエル・インジェクションからキャブレターに変更されたことを除けば、1960年代後半のTR5とほとんど同じものだ。その結果、出力は150psから104psに急落するという悲惨な結果を招いたが、北米での販売には適していたようだ。通常のTR5は2947台しか生産されなかったが、TR250は8484台を売り上げるほど人気があった。
トライアンフTR250
ヴォグゾール10-4
ヴォグゾール10-4は、1937年のデビュー時に「この10年間、英国で見られたデザインの中で最も輝かしい作品の1つ」と評されたが、今では相応の評価を受けていない。油圧式ブレーキ、シンクロメッシュ、トーションバー式独立フロントサスペンション、そして何よりも、新くはなかったが非常に珍しいユニボディ構造によって、それまでフォード、モーリス、スタンダードが独占していた10psクラスに革命をもたらした。ハードなドライビングでも17km/lを超える燃費も魅力の1つだ。
その栄光の日々は1940年まで続いたが、ヴォグゾールはトラックと戦車の生産を優先するため、すべての自動車生産を中止した。1946年に復活したときは、(戦後の低品質ガソリンを考慮して)パワーが低下し、価格もかなり高くなっていた。残念なことだったが、当初の10-4が小さな傑作であったことに変わりはない。
ヴォグゾール10-4
ヴァイキング
GMの4つのコンパニオン・メーカーの中で、ヴァイキングは唯一、高い市場ポジションを占めていた。4.3L V8エンジンを搭載し、セダンとコンバーチブルのボディスタイルが用意された。
1923年から1940年代後半までV8エンジンを使用していなかったパートナー、オールズモビルが同時期に生産したどのモデルよりも豪華で、それに応じて価格も高かった。ヴァイキングの歴史は1929年に始まり、1931年に幕を閉じた。
ヴァイキング
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フォルクスワーゲン・ヴィロラン
ヴィロラン(Viloran)という名前には馴染みがないかもしれないが、中国に住んでいれば今すぐ買うことができる。ヴィロランは、フォルクスワーゲン・グループで広く使われているMQBプラットフォームをベースにした、ステーションワゴンのような高級ミニバンだ。
エンジンはおなじみのガソリンターボの2.0L TSIで、3列シートの7人乗り。このクルマを知らない人が多いのは、フォルクスワーゲンとSAICの合弁会社、上汽フォルクスワーゲンが製造し、中国でのみ販売しているからだろう。フォードSマックス以来、最も格好良いミニバンの1つだと思う。
フォルクスワーゲン・ヴィロラン
ボルボPV36
20世紀のボルボは、少数の例外を除いて、空気を繊細にすり抜けるのではなく、押し出すようなクルマ作りで知られていた。その点で、1935年のPV36は例外的な存在だ。3.7L直6エンジンを搭載し、少し前のクライスラー・エアフローに似た流線型のボディワークを持つ。
エアフローと同様、PV36の外観は多くの顧客を遠ざけ、コンバーチブル1台を含む約500台のみが生産された。ボルボによると、最後に生産された1台は1938年6月に工場を離れ、最後に販売された1台はその3か月後、当時駐イラン・スウェーデン大使を務めていたフーゴ・フォン・ハイデンスタム氏(1884-1966)に引き渡されたという。
ボルボPV36