8キロの海路を6時間かけて泳ぐ…防大の名物「遠泳訓練」で毎年ひとりの脱落者も出ないワケ
※本稿は、國分良成『防衛大学校 知られざる学び舎の実像』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
■圧倒的な第1志望はパイロット
学科教育と訓練のどちらを優先すべきか、それは世界の各士官学校によって基準が異なる。半々にしているところもあれば、米国の士官学校などでは基本的に学科教育を優先している。
防大では具体的な比率を決めていないが、基本的には学科教育を上位に置いている。しかし訓練に関しても、士官学校である以上、教場での教育に劣らず重視されている。
学生が訓練関係で最も気になるのは、1学年の最後に決まる陸・海・空の要員配分である。ここで配分が決まると、それが一生の仕事となる。防大生の一種の就活だ。現状では陸・海・空の配分比率は2対1対1、1学年定員の480人をその割合で分けた数となる。世界のほとんどの士官学校は陸・海・空に分かれているので、入校の時点ですでに要員の割り振りは決まっているが、防大やオーストラリア、カナダのような統合士官学校だと、入学後に配分されることになる。
学生の第1志望が多いのは依然としてパイロット、なので航空要員志望が多い。しかし、実際のところは陸上にも回転翼のヘリコプター・パイロット(ヘリ・パイ)の道があるし、海上にもヘリ・パイと固定翼の哨戒機のパイロットへの道がある。パイロット適性(P適)については、身体や心理など初歩的な検査が学生時代に行われる。それから外れてしまい、卒業時に任官辞退などというケースもあるが、防大はパイロット養成所ではないので、それで辞めるようであれば幹部自衛官としてどうなのか、との思いもある。
■文明の利器で海自の人気は復活傾向
いったん勤務で海上に出るとしばらく陸との連絡が途絶えてしまい、接するのは船上の隊員のみ、携帯も使えない。こうしたことからか、しばらく海上の人気が落ちていたが、今では衛星を使って携帯も使えるようになってきており、もちろんそれだけが理由ではないが、最近では人気が復活している。
陸上は人数が海・空の倍なので、どうしてもそれらに比べ志望が定員に対して少なくなるが、海と空がメカの世界になっているので、人間同士の触れ合いという点では陸上が一番である。
さて、訓練の前にまずは体力である。そこで防大生には全員に定期的に体力測定が課される。種目としては、50メートル走、1500メートル走(男子)、1000メートル走(女子)、立ち幅跳び、ソフトボール投げ(男女によって球の大きさが異なる)、懸垂腕屈伸(男子)、斜懸垂腕屈伸(女子)がある。懸垂腕屈伸はいわゆる懸垂だが、女子の場合は鉄棒を使って斜めに腕立て伏せをする形である。
■すべての基準をクリアしなければならないが…
それぞれの基準は内規なので公開できないが、すべてクリアする必要があり、それらが全部点数化されて訓練成績として個々に記録される。ちなみに私が着任した当時の1年次と4年次の男女の体力測定平均値が公開されているので、参考までに図表をご覧いただきたい。同世代の平均からすると、相当に高い数値だと思う。
私が子供の頃は草野球ばかりだったので、ボール投げはその頃から慣れている。しかしその後スポーツは多様化し、必ずしも野球中心ではなくなった結果、ボール投げをあまりやったことのない学生も多くなった。ということで、意外にもソフトボール投げが不得意な学生もいるのだ。
着任まもないある日の夕方、校内を回っていて、旧知の4学年の学生が卒業前に距離が足りないらしく、ソフトボール投げの練習をしていた。投げても既定の距離に届かないのを見て、「こう投げるんだ」と言わんばかりに、校長がえいと規定の距離を投げ切ると、その学生は悲しげな表情でうつむいてしまった。
「悪いことをしてしまった。こんなことで年寄りが学生に勝ってどうする……」と、こちらも落ち込む。それ以後、学生たちの体力訓練や実践訓練では、さわり程度は付き合っても、それ以上にむきになることはやめ、基本的には声援とハイタッチに専念することにした。
■1005時間の実践訓練の中身
防大生の実践訓練は4年間で約1005時間と規定されている。春・夏・秋・冬にそれぞれ訓練期間が設定されており、最も長いのは夏季定期訓練で、約4週間近くある。これが終わると約1カ月の夏季休暇となる。
2学年以上は基本的に陸・海・空の要員別の訓練となり、全国の部隊にグループごとに散って実践教育を受ける。ただ、1学年次は陸・海・空に分かれていないので共通訓練となり、それぞれの基本を学ぶ。入校するとすぐに春季定期訓練が始まり、新しい戦闘服に身を固めた新入生たちが上級生の指導により敬礼や行進、小銃の分解や手入れなどの将来の自衛官としての基本動作を学ぶ。
新入生が自身の小銃を渡される「銃貸与式」のときの表情は引き締まっており、彼らはその瞬間を一生忘れない(写真)。
銃を手にする行為はきわめて厳正なものであり、緊張感で張りつめたような空間が広がっている。どういう言い伝えかわからないが、その晩は学生全員で、1学年の期別分だけ腕立て伏せをするのが習慣化している中隊などがあるようだ。ということは、2022年は70回の腕立て伏せということだが、今後1回ずつ増えていくと、100年後はいったいどういうことになるのだろうか。
■夏の8キロ水泳で学生たちを襲うある海の生き物
1学年の登竜門は、夏季休暇の前に行われる横須賀走水沖を泳ぐ8キロ遠泳である(写真)。毎年平均で6時間ほど、約50人1チームで、平泳ぎでゆっくりと泳ぎ切る。
平泳ぎ8キロというと尋常ではないが、それぞれにバディがいてお互いを励まし合いながら、1チーム全体で一番遅い学生に合わせて泳ぐ。また、ベテランの指導官や助教たちが数隻のボートでグループの安全を確認しながらフォローする。昼食時には乾パンなどの食料をばら撒き、学生たちは鯉のように口をパクパクさせながら泳いでいる。
私たち首脳陣は機動艇に乗って、遠泳中の学生たちに近づいて、拡声器で「がんばれ」と声援する以外に何もできない。赤クラゲに悩まされている学生を見て、「クラゲに食われるな、クラゲは食う物だ」などと余計なオヤジ・ギャグまで叫んでしまって、今では反省している。
■なぜほぼ全員が泳ぎ切ることができるのか
まったくの金槌でも、また海を見たことのなかった留学生ですら、ほぼ全員が泳ぎ切るのだ。なぜか。
ベテランの自衛官たちが泳法を懇切丁寧に教え込み、水に対する恐怖心を取り除くことから徹底訓練していくからだ。泳ぎの得意なチームが先に泳ぎ始め、徐々に不得意チームとなっていく。最後は、どうしても泳法を十分に習得できなかった少数のグループだ。
ただ彼らに対する声援が一番大きい。実は、4月に防大に子供を送り出した1学年の親御さんたちが、全国から多数応援に来ている。わが子は大丈夫だろうかと手を重ねている姿を見ていると、なんと微笑ましいことか。一人っ子時代、防大も時代の流れ、である。
■突然の悪天候「3時間も同じところを泳いでいた」
遠泳はその日の天候に大きく左右される。あまりの荒天だと、延期となる。途中、潮や波が強いと、1時間あるいはそれ以上、同じところを泳いでいることもある。
遠泳はこれまで一人も深刻なケガ人や、ましてや犠牲者を出したこともない。ただ、今だから言えるが、私は遠泳の最中に「解任」や「辞職」の文字が頭をよぎったことがある。
ある年の遠泳でのことだ。午前中の天候はまだ良かったが、午後になると突然に荒天となり、波と潮が強くなり、雨が降って視界も悪くなった。昼時で一時的に校内に戻っていたのだが、訓練部が急に慌ただしくなり、事件発生の通知あり。二人の学生が行方不明とのこと。
そこはさすがに自衛隊組織、一瞬にして対策本部が設置され、当時の岸川公彦幹事(副校長)を中心に強力な指揮命令系統が出来上がり、幹事の檄が部屋中に響き渡る。すぐに対策協議が始まり、「遠泳中止」を決定、全員を船に引き上げるよう伝達。
後でわかったが、二人の学生は遅れて後ろのグループに吸収されたとのこと。「二人を見つけました、大丈夫です」との連絡を受けたときは、部屋中に歓声がこだまし、表では気丈に見せていた私も力が抜けた。2021年3月の卒業生(65期)がまさに1学年のときのことだが、モンゴルからの留学生と話していたら、「あのときは3時間も同じところを泳いでいたんですよ」。
■防大生活4年間で1番楽しい訓練
2学年以降は基本的に陸・海・空に分かれて訓練を行うが、共通訓練もある。2学年次は冬場に妙高高原でスキー訓練を実施する。これが4年間で一番楽しい訓練だと多くの防大生が言う。
スキー訓練も練度によって班を分け、自衛隊のスキー上級者を教官に丁寧に教えてもらう。さすがに運動神経の良い防大生たちの上達度は目を見張るほどだ。東南アジアから来た留学生のほとんどは雪を見たことがないので、最初は大変だ。しかし、数日後にはメキメキと腕(足)を上げる。
校長も毎年参加したが、過去に一度もスキーをしたことがないので使い物にならず、下手にやって骨折でもしたら大変な迷惑をかけるので、もっぱらゲレンデで滑降してくる学生たちを激励し、一緒に写真に収まる程度のことしかできなかった。学生たちはいくつかの民宿に分かれているので、各宿泊先を激励に回ったが、小原台では見ないような明るい笑顔でみんなウキウキ、普通の若者に戻っている。
■日本の海自がペルシャ湾に派遣された理由
3学年は硫黄島研修がある。激戦地の歴史を学び、慰霊する。学生たちは航空自衛隊の支援を受けて輸送機で硫黄島入りする。私も在任中3回ほどこの研修に同行した。
硫黄島には、別に古い機雷を爆破処分する「実機雷処分訓練」の視察で訪れたこともある。かなり離れた艦艇から視察したが、それでもこちらに振動が伝わってくるほどに機雷の衝撃は大きかった。
命懸けの作業だが、機雷を爆破する装置を取り付ける手当ては安いと聞いている。湾岸戦争後の1991年、海上自衛隊の掃海部隊がペルシャ湾に急遽派遣されたが、それはこうした地道な訓練を繰り返していたことが大きかった。
硫黄島は火山が海面に突き出た部分が島となっているようなところで、硫黄の臭いも激しいし、いたるところで噴煙があがっている。遺骨収集の終わらない硫黄島では、霊感の強くない人の枕元にも夜中に現れることが多いので、ペットボトルの蓋を開けて置いておくようになどの言い伝えがある。
私は鈍感なのだろうか、毎晩よく眠ることができた。現在の上皇上皇后両陛下が硫黄島に慰問に来られてから、こうした現象が激減したとも言われている。
実は、硫黄島で戦死したロスアンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルを獲得した西竹一大佐(バロン西)は、血のつながりこそないが、私の遠い親戚にあたり(歳の離れた従兄の義父)、この研修は偉大な親族を慰霊する貴重な機会ともなった(写真)。
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國分 良成(こくぶん・りょうせい)
元防衛大学校長
1953年生。81年慶應義塾大学大学院博士課程修了後、同大学法学部専任講師、85年助教授、92年教授、99年から2007年まで同大学東アジア研究所長(旧地域研究センター)、07年から11年まで法学部長。12年4月から21年3月まで防衛大学校長。法学博士、慶應義塾大学名誉教授。この間、ハーバード大、ミシガン大、復旦大、北京大、台湾大の客員研究員を歴任。専門は中国政治・外交、東アジア国際関係。元日本国際政治学会理事長、元アジア政経学会理事長。著書に『中国政治からみた日中関係』(2017年樫山純三賞)、『現代中国の政治と官僚制』(2004年度サントリー学芸賞)、『アジア時代の検証 中国の視点から』(1997年度アジア・太平洋賞特別賞)などがある。
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(元防衛大学校長 國分 良成)