喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵師は、吉原遊郭の遊女をたびたび描いている。歌舞伎役者などを描いていた一流の浮世絵師たちは、なぜ遊女を描くようになったのか。歴史家の安藤優一郎さんは「そこには非合法の売春宿との競争を強いられていた吉原遊郭の事情がある」という――。

※本稿は、安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

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■幕府公認の「吉原遊郭」がイベントに熱心だったワケ

賭博の場合と同じく、幕府は遊女商売についても御法度とするスタンスを取った。だが、例外が一つあった。吉原である。

江戸では吉原にのみ商売を認め、吉原以外での遊女商売は一切禁止したが、その原則は実際にはまったく守られていなかった。禁令の網をかいくぐった非合法な遊女たちの姿が江戸の各所でみられ、吉原の利権を大いに脅かした。

当然、吉原は生き残りを賭けた営業活動を展開していく。集客アップのために企画したイベントと言えば、春の花見、夏の玉菊燈籠(たまぎくどうろう)、秋の俄(にわか)が代表格である。

その当日、吉原は大賑わいとなった。幕末に将軍の影武者役である御徒を務めた御家人の山本政恒も次のように回顧している。

春は仲之町の両側へ桜を植付、青竹を以桜木の前後三尺程放し、四ツ目垣をなし、根締にぼけの花抔を植付、朱塗の八角行燈を六尺間位に建て飾る也。是を仲の桜と称す(中略)夏は様々の燈籠を店頭に点火し客を招く。秋の末には俄と唱へ、踊屋台を出し、芸者・幇間等の俄踊りを為す。是を吉原の俄といひて、吉原通ひをする者は勿論、堅気の者も婦人を連れ、吉原の景気を見物旁行者多し。(山本政恒『幕末下級武士の記録』時事通信社)

■「堅気」の男性も見物にやって来る

春の花見とは桜の花見のこと。しかし、もともと吉原にあった桜を見物したのではない。花見の時期が近づくと、植木屋が吉原のメインストリートである仲の町まで桜の木を運び込み、植え込んだのだ。桜の根元には、ぼけの花も植えられた。夜桜も楽しめるよう、行燈も六尺(約一・八メートル)間隔で飾られた。

夏は燈籠が店頭に飾られて火が灯された。このイベントは玉菊燈籠と呼ばれた。

かつて、吉原に玉菊という才色兼備を謳われた遊女がいたが、病のためこの世を去る。その年のお盆に、玉菊を贔屓にしていた引手茶屋は軒先に燈籠を吊るして追善供養した。これが評判を取ったことで、お盆の時節に玉菊燈籠と称して燈籠を飾ることが吉原の年中行事となる。

秋には仮装した芸者や幇間が踊ったり、芝居の真似事をしながら練り歩いたりする「俄(にわか)」が行われた。祭りの時のように、車輪の付いた舞台である「踊屋台」も牽きながら吉原の町を回った。登楼が目的ではない「堅気」の男性も女性を連れ、吉原までその様子を見物にやって来るほどだった。

■遊女たちも必死に営業活動をした

このような吉原オリジナルのイベント開催日は「紋日(もんび)」と呼ばれ、その日の遊女の揚げ代は通常の二倍とされた。揚げ代だけでなく、「台の物」と呼ばれた料理や祝儀の代金も二倍となっていた。

人出が多くなる繁忙期であることを見込んだ強気の料金設定である。イベント開催に要した投資も回収しなければならない。だが、遊女屋側には料金を倍増しても客足は落ちないという読みがあった。

吉原の方から出張する形で登楼を誘うこともあった。

その舞台は吉原にほど近い浅草寺である。享保十八年(一七三三)に浅草寺境内を会場として行われた「御成跡開帳」の際、吉原の遊女は本堂裏に千本桜を寄進している。満開の枝々に自分の名前を記した札を下げ、あるいは自作の詩歌を書いた短冊を吊るすことで参詣客の登楼を誘った。

開帳場には信徒や商人の奉納物が所狭しと陳列され、参詣者をターゲットとする宣伝の場と化していた。文政十年(一八二七)の本尊開帳時には吉原の遊女屋や抱えの遊女からの奉納物が数多く並んだ。登楼を期待する吉原の営業活動に他ならなかった。「開帳」は本書で詳述するが、寺社による秘仏などの公開(期間限定)のことである。

絢爛の極み、桜の下の吉原花魁道中(「江戸名所図会」=国立国会図書館蔵)

■吉原を脅かした「江戸四宿」の岡場所

吉原は、様々な集客策と並行して、競争相手を抑え込むことにも力を入れる。

吉原以外で遊女商売は営めなかったはずだが、寺社の門前や江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)などでは半ば公然と遊女商売が行われていた。

料理茶屋や水茶屋・煮売茶屋、あるいは旅籠屋の看板を掲げつつ、給仕する女性を遊女として働かせていたのである。このような非合法な遊女商売が行われた場所を人々は、岡場所と呼んだ。

地域別で見ると、隅田川東岸にあたる深川が特に多かった。深川には永代寺という巨大な寺院があったことも後押しした。その門前や周辺には「深川七場所」と称された岡場所もあった。

幕府公認の吉原の遊女が「公娼」と呼ばれたのに対し、非公認だった岡場所の遊女は「隠遊女」、「私娼」などと呼ばれた。

遊客にとり、岡場所の魅力とは何と言っても揚げ代の安さに尽きるだろう。

吉原の場合は遊女にもランクがあり、中級ランクの「座敷持」と呼ばれた遊女の揚げ代は金一両の半分にあたる金二分であった。一方、深川の岡場所での揚げ代は一両の五分の一にあたる銀十二匁(もんめ)が相場で、吉原の半額以下だった。

その上、吉原と違って「台の物」と呼ばれた料理を別に頼む必要はなく、芸者・幇間に祝儀を払う必要もなかった。吉原で遊ぶよりもはるかに安くて済み、引手茶屋を通すなどの面倒な手続きも不要だった。

■幕府の取り締まりは徹底されず…

江戸市中の各所に散在していたことも大きい。わざわざ江戸郊外の吉原まで出向かずとも、近くの岡場所に通えばよかった。こうして、岡場所はたいへん繁昌する。

妖艶な岡場所の女性たち(「岡場所錦絵」=国立国会図書館蔵)

門前に岡場所があるのは好ましくなかったが、当の寺社は見て見ぬふりをしていた。岡場所が境内の賑わいを増したことに加え、遊女屋という裏の顔を持つ料理茶屋などから多額の冥加金が納められていたからである。

そんな裏事情があったとは言え、寺社の境内や門前で遊女商売が横行したことは江戸市中の風紀を乱すものであり、町奉行所も看過できなかった。

遊女商売の独占を許された吉原にしてみれば、岡場所の存在自体が営業妨害であり、町奉行所に取り締まりを強く求める。

だが、寺社の門前や境内は寺社奉行の支配地であるため、町奉行所の役人は直接踏み込めず、取り締まりは徹底さを欠いた。賭博と同じく、あまりに遊女商売が多過ぎて取り締まりの手が回らなかったとも言える。

江戸四宿で遊女商売がなぜ横行したか。その根本的な理由は幕府が旅籠屋に飯盛女を置くのを認めたことにある。飯盛女の仕事は表向き宿泊客に御飯を盛ることだが、裏では遊女として働くのを幕府は黙認していた。

■吉原のガイドブックが大人気に

吉原が力を入れたのは、イベントだけではなかった。メディア戦略も展開している。吉原に関する情報を冊子や浮世絵を通じて発信することで集客アップを目指したが、宣伝戦で蔦屋重三郎が果たした役割は実に大きかった。

重三郎は寛延三年(一七五〇)に吉原で生まれた。実父は丸山重助という人物である。ただし、職業などは分からない。七歳の時に蔦屋という商家の養子となり、蔦屋重三郎という名前が誕生する。蔦屋は吉原で茶屋を営んでいたようだ。

重三郎がメディア界に登場するのは、安永二年(一七七三)のことである。吉原大門口の五十間道で書店を開業し、鱗形屋という版元が発行する「吉原細見」の販売を開始した。鱗形屋は黄表紙や草双紙などの大衆書を取り扱う老舗の版元だった。

毎年刊行された吉原細見には、遊女屋や遊女の源氏名、その揚げ代、吉原で商売をする者の名前が各町ごとに書き込まれていた。遊客が知りたい情報が盛りだくさんのガイドブックとして、吉原で遊ぶのには欠かせない冊子であった。

写真=iStock.com/martin-dm
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安永四年(一七七五)、重三郎はみずから吉原細見の出版を開始する際に、一工夫を施す。単に遊女屋の名前を列挙するだけでなく、仲の町を中心に上下に分けることで遊女屋の並びが一目で分かるようにした。こうして、重三郎が刊行した細見は人気を呼ぶ。

天明三年(一七八三)には重三郎が吉原細見の出版を独占するまでに至る。同じ年、蔦屋は一流どころの版元が店を構える日本橋の通油町に進出し、名実ともにトップクラスの版元となった。

出版界の風雲児・蔦屋重三郎の「吉原案内本」(「吉原細見」=国立国会図書館蔵)

■浮世絵で競争を勝ち抜こうとした

出版メディア界の風雲児として躍り出た重三郎は戯作本にも手を広げる。例えば、人気作家の朋誠堂喜三二を作者とする版本を出版したが、その際には人気絵師の北尾重政や勝川春章たちに挿絵を描かせることで売り上げを伸ばしている。

吉原は江戸の文人たちが交流する社交場でもあり、吉原生まれの重三郎が彼らと知り合いになるのは難しいことではなかった。

安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)

重三郎の出版事業は一枚刷りの浮世絵にも及んだ。浮世絵師喜多川歌麿の創作活動をバックアップし、美人画の分野での名声を不朽のものとする。

歌麿が得意とした美人画は、盛り場の水茶屋で給仕をする若い女性のほか、遊女もモデルになっていた。人気浮世絵師の歌麿に描かれれば江戸の話題をさらい、その遊女を擁する遊女屋の営業成績もアップしたはずだ。

歌麿が描いた遊女は、玉屋や扇屋など吉原の代表的な遊女屋に所属していることが多かった。その主人がスポンサーとなって製作費などを負担し、蔦屋を通じて歌麿に描いてもらったのだろう。

重三郎が世に出した浮世絵師には、役者絵で知られた東洲斎写楽もいる。歌舞伎役者を描いた写楽の役者絵は芝居人気との相乗効果で江戸の話題となり、芝居の集客力もアップした。歌麿の場合と同じく、芝居の興行主からの要請を受けて写楽に役者絵を描かせたこともあったに違いない。

浮世絵などの錦絵の価格は、一枚二十四文が相場だった。かけ蕎麦一杯の値段より少し高いぐらいだから、江戸庶民でも手軽に入手できた。要するに、それだけ大量に摺られた。

吉原細見に加え、浮世絵という大衆メディアの力を借りることで吉原は集客アップをはかったが、これは非合法の岡場所ではできない芸当だった。メディアを活用することで、熾烈(しれつ)な競争を勝ち抜こうとしたのである。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)